関係として成り立つ

こんばんは。

おおよそ100日ぶりに生理がきました。
これだけ不純していたのは、薬の影響もあるのでしょうけれど、それ以上に精神面からくる生活習慣の乱れなんかが悪かったように思います。

生理がちゃんと訪れる日々からすれば「いつものこと」ではありますけれど、今回もまた一段と、PMS(月経前症候群)が酷かったですね。
だいぶ、危ないところでした。


人間関係

さて、今日は、人間関係について書いてみますよ、と。

人間関係って、いろいろありますよね。
生活保護を受けて引きこもっている私ですら、それなりの人間関係は存在します。

とはいえ、今、私の周りにいる人たちはほとんど、病気の私、生活保護の私、ODした私、自立する力のない私を知っている人たちです。

知っているというより、知ってもなお残った、と言った方がいいのかもしれません。
まあ、母や兄弟なんかは、そう簡単には切ることのできない縁ですから、どうしようもなく残っているだけなのかもしれませんけれど。

親友や恋人、母や兄弟も含めて、今私の周りに残ってくれた人たちには、本当に感謝しています。
いくらしても、し足りないくらいに、感謝しています。

本当に、ありがとう。


母と娘

私の両親は、私が小学生の頃に離婚しています。
離婚後は、兄弟全員母に引き取られ、女手一つで母+兄弟三人の生活を切り盛りしてきました。

それについては、とても感謝していますし、尊敬もしています。

いつか、母と私が話した時、どうしてそれができたのか?と聞いたことがあります。

母は、「子どもたちと離れないためには、そうするしかないと思った」と言っていました。
「そうするしかなくなれば、そうするしかない」みたいなことも言ってました。

要するに、頑張る以外の選択肢がなかったようなのです。

この話を聞いてから、私だって頑張る以外の選択肢がなくなれば、頑張れるだろうと、盲目的に信じていました。

それからしばらく経って、私は就職し、一人暮らしを始めました。

最初から、どうにかやり切れる自信なんて全くなかったけれど、家を出ることで、遠い地で一人生活しなければならなくなることで、どうにかやり切るしかなくなると思っていたんです。
どうにかやり切るしかなくなって仕舞えば、必ずやり切ることができるのだと、思っていました。盲目的に、信じていました。

結果はご存知の通り。

それが良かったのか悪かったのかは分かりませんけれど、確かに分かることは、母にはそれができても、私にはそれができないということでした。

母が優れていて私が劣っているというよりかは、根本的に、全く別の性質を持った人間なのだと、思い知らされました。

いやきっと、私のことだから、都合良く可能性を信じていたかっただけで、ずっと前からそのことに気付いてはいたのだと思います。
もし気付いていなかったのなら、私と母の関係はもっと昔に、少なくとも拗れていたと思いますし、破綻していたっておかしくなかったようにも思えます。

母は、とても感情的というか、女性的というか。
的確かもしれない言い方をすると、アダルトチルドレンというか。

理解されたくて、同情されたくて、結果的に寂しさを抱えている人のように思います。

それが、適切な相手(例えばパートナーや友人など)に向けられるものだったら、全く問題ないのです。
けれど母の場合、その感情が子どもである私たち兄弟にまで及んでいます。

これが異常とまではいかずとも、普通ではないとは思います。
だって、それにより、私たちの感情が一方的に抑圧されることになってしまっているのですから。

私がいつこう思ったかは忘れてしまいましたけれど、その時を境に、「親子なんて言いつつも、結局は人間関係の一つに過ぎない」と考えるようになりました。

親だから、頼っていいだとか、信じていいとか、分かり合えるだとか、どうにかなるだとか。
そういうことは絶対にあり得なくて、拗れることも、壊れることも、当然のようにあるのだと。

冷たく思えるかもしれませんが、母も人間、私も人間ですから、全く間違ってないんですよね。

それからの私がどう変わったかって、母を理解することや気をつかうことはあまりしなくなって、ありのままの母をそういうものだと認識するようになりました。
美しい言い方をすれば『尊重』です。

それから、私が母のことを理解できないのと同じように、母も私のことは理解できないのだと、割り切るようにもなりました。

相談事は、その内容はもちろん、言葉を選ぶようになりましたし、どこまで話すかなんかもよく考えるようになりました。
逆に、母から相談事を受ける時は、双方が対等な『会話』というより、『悩んでる人』と『相談員』みたいな、一歩引いた言葉の交わし方をします。
私が感情的になることも、母が理解されない・同情されないことに苦しむこともありません。円滑。

これは、母との関係を悪くしたくないという、私のエゴですから、ちゃんと収支はあっています。

こうして言葉にしてみると、言葉にできること自体に、自分って恐ろしいと感じますね。


私と弟

私には、弟が二人います。

それぞれ3つと8つ離れていますから、特に末っ子くんとは色々とぶつかることが多いような気がします。

私と末っ子の間をうまく取り持ってくれているのが、真ん中の子です。

真ん中の子がそういう媒をしてくれていなかったら、私と末っ子の関係は拗れていただろうなぁという気もします。
とはいえ一緒に暮らしていた頃は、高校生と小学生、思春期と成長期でしたから、時期的に合わなくても仕方ないと考えてもいいのかもしれません。

なんか、こんな言い方をしてしまうと、私の兄弟の仲はだいぶ険悪なのではないかと思われてしまいそうですが、そんなことは全くありません。

兄弟三人揃ってゲームしますし、何もなくても連絡を取り合いますし、悩み事を相談することもありますし、お出かけすれば三人仲良く並んで歩きもします。
末っ子くんはまだギリギリ小学生ですから、手を繋いで歩くこともしますよ。
総合的には、かなり仲の良い兄弟と言えるでしょう。

チャランポランダメ人間代表な長女と、若干重めの問題を抱えた弟と、先が思いやられる気のする弟と。

こんな、いかにもぶつかりそうなキャラの濃い兄弟が、『三人兄弟』として成り立っているのは、先述の通り真ん中の子の影響も大きいのですが、やっぱり一番は『寛容』ということが大きいのだろうと思います。

実は、私と末っ子だけでなく、私と真ん中の子も、喧嘩することがあります。
弟たちも、私が知らないというだけで揉めていることはあるでしょう。

でも、こればかりは時間が解決してくれるんですよね。
誰一人として、避けるとか嫌うとか、そういう方向へは動こうとしません。

もちろん、私も弟たちもみんな人間ですから、分かって欲しいこともあるし、気付いて欲しいこともあります。
けれど、どうしても分かり合えないことも、気づけないことも、相手の意思に添えないこともあります。

末っ子くんは、年齢的にちょっと難しいのかもしれませんけれど、少なくとも上二人は、そういう風に自分と相手を線引きしていると思います。

互いに何かを求めることはしないし、互いに合わせてあげようともしません。
でも、一緒に育った兄弟だから思考が寄ってるのか、特に合わせようとせずとも合わさるみたいなことは多いです。

『母と娘』とは大違いですね。
多少は男女の差というものもあるのかもしれませんけれど、なんていうか、重みがないというか。

決して、弟への思い入れが薄いとか、大切に思ってないとか、そういうわけではなくて。
それが正しい距離感なのだろうと、緩やかな距離を上手に保ち続けているということだと思います。


私と恋人

恋人との関係について、掘り下げて書いたことってあったかな。

自分が個人的につけている日記帳には、それなりに何かしら書いている気はするけれど、noteという公の場では伏せているというか、書くことを避けているというか、そんな気がします。

それはつまり、私が考えることを避けているということかもしれないし、私の中で答えを出し渋っているということかもしれないし、本当に私にとって分からないということなのかもしれません。

ですから、分かる範囲のことだけをつなぎ合わせて、見たくないものからは目を背けて。
なんて言うと、不誠実になってしまいますから、それなりの何かを、誠実に、書いていこうと思います。

まず私は、状態的には一途でいられるけれど、実際に一途でい続けることはできません。

状態的にというのはそのまま、同じ人と長い間付き合い続けることができる、ということです。
要するに、ずっと一人の人と付き合っていたとしても、心はフラフラしている浮気性のどうしようもない子ってことです。

いや、これも、実際のところ微妙なのかもしれません。

というのも、今私がお付き合いしている恋人さんは、だいぶ波があります。
気持ちが近い時はものすごく近いけれど、離れている時はものすごく離れてしまっている、という感じです。

それ自体は誰にだって、もちろん私にだってあることですが、その周期がゆったりとしているというか、長いのです。

近い時はいいのですが、気持ちが離れていると、特に私だけが近くて彼は離れ気味だと、素直に不安になります。
その時間が長ければ長いほど、不安はどんどん膨らんでいきます。
彼は本当に私のことが好きなのかとか、別の人が気になり始めているのではないかとか、私のことは忘れてしまっているのではないかとか。
自分は本当に彼のことが好きなのか?と思ってしまう時すらあります。

恋人に対する信頼というものが「好き」だとすれば、疑心というものは「隙」です。

とはいえ、彼についての心配をしているうちは、私の心は間違いなく彼に向いていると言えますから、まだいいのです。
厄介なのは、自分の気持ちに疑心を抱いた時です。

目移り、という言葉は適切に感じませんけれど。
自分の疑心から生まれた「隙」を、どうにか埋めてくれる別の存在を求めることを目移りというのなら、私のそれは目移りということになります。

今まで何度か、別の人を精神的に頼っていました。目移りです。
まじで、ただの最低な人間です。

でも、そうやって色々な人を頼ったことや、いにしえの記憶・元カレさんとの経験も踏まえて考えてみると、やっぱり私には彼しかいないんだなって思います。

だって、こんな私に、一度たりとも、愛想を尽かしたことがないんです。
こんな私を、一度たりとも、傷つけたことだってありません。
無理をしているわけでも気を使っているわけでもなく、彼が彼だからというだけなのです。
そして、いつだって彼は私に対しても、真っ直ぐ向き合ってくれます。

常人以上に傷つきやすい状態で、トラウマもたくさん抱えていて、こんなどうしようもない人間な私に対して、3年近く愛想を尽かさなくて、傷つけたこともないどころか、どんな私だって受け入れてくれている。

私って、恋愛ゲームに出たとしたら、ゲームの中だったらギリギリ楽しめるものの、現実の恋人には絶対にしたくないタイプのキャラクターだと思うんですよ。
扱いにく過ぎるもん。

本当に、もう、ありがとう。好き。愛してる。

そんな彼が、私と一緒にいることを望んでくれているのですから、そうである限りずっと、私も彼に寄り添い続けたいです。

できることなら、彼にふさわしい人間になりたいです。
私も彼と一緒にいることを望んでもいいくらいの、彼にふさわしい人間。

もっと夢を語るなら、もし彼の心が離れていきそうになっても、もう一度見てもらえるような魅力的な人間に、なりたい。
彼にとって、誰よりも魅力的な人間で、あり続けたい。

そのためにも自立、です。
そのための自立、かもしれません。

ちょっと前、私がだいぶ沈んでいた時、恋人さんが私に、「Xyca.はもう自分の人生の一部だよ?」って、言ってくれたことがあるんです。
どこまで本気なのかなんて、本当に本当かもしれないし、私を慰めるためだけだったのかもしれないし…。

そこまで言ってくれる彼だから、私も努力をしたいって思います。

彼が私を認めていても、私は私を認めていないから。
もっと素敵な人になりたい。
自分を、大切にできる人になりたい。
その上で、私は彼の隣にいることを選び、望み、彼の隣にいたい。

私にとっての恋人さんは、私にここまで思わせてくれる人です。
とっても、素敵でしょう?


私と親友

さて、これで最後です。

私には、中学の時から繋がっている友達が、まあ、何人かいます。
高校の友達、連絡を取ろうと思えば取れるくらいの間柄の友達も、何人かいます。
それより前、小学生の友達となると、一度転校をしているのでアレですけれど…会いたいなと思う子は1人だけいますね。

こうして考えてみると、私はそれなりに友人関係に恵まれた方だなぁとは思います。

SNSのような、繋がりやすいツールが残っているからこそ、希薄な関係も繋がりだけは持ち続けることができるのかもしれません。
それが良さでもあり、悪さでもあり。

そんな数ある(?)友達のうちから、私が自信を持って『親友』と紹介できる人を。

いや、もう、『彼女』と言ってもいい。
というか、恋人にはそう紹介してあるので、『彼女』です。

その子と私との関係を書いていこうかなと。

先月半ばくらいまで、そこそこ離れた距離感をしていたのですが。
先月の私の帰省がきっかけで、彼女も公認の『彼女』になりました。

彼女と私は、見えている世界も、知ってる世界も、価値観も、持っているものも、何もかもが違うのだろうと思います。
育ってきた環境も、得てきた知識や経験も、周りの人間関係も、見事なまでに大違いだと思います、私の知る限り。

彼女もまた、私にとっての母同様に、全く別の人種ではあると思うのです。
ぶっちゃけ、合うか合わないかで言えば合わないのかもしれない。
けれど、そんなことが些細なことになる程度には、互いに惹かれあっているんじゃないかなって。

一緒にいて安らぐとか落ち着くというよりかは、一緒にいて楽しいとか嬉しいとか。
彼女との時間はいつだって、新鮮で、刺激的で、幸せなものだから。

こんな言い方をすると恋人と比べてるみたいになってしまうけれども。
私の恋人が、私の隣を歩いてくれる人であるならば、
私の彼女は、私を別の世界へ連れ出してくれる人。

なんていうか、大きな翼を持っているみたいなんですよね。
ほら、翼って、飛べるだけではないでしょう?
何かを守る盾にも、包み込む腕にもなり得る。

きっと私は、彼女に憧れているのだろうけれど、手に入らないと分かってるからこそ、彼女を信じて頼りきってもいる。

いや、少し違う。
信じて、頼っていいんだって、最近やっと分かったんです。
頼り方だって、最近やっと分かった。

随分遠回りをしてしまったな。申し訳ない…。

少なくとも今の私は、どうしたって弱い立場ですから、与えられてばかりになってしまうのかもしれないけれど。
立場が逆転、とまでは行かずとも、彼女が困っている時くらいは、私が力になれたらなって思いますね。

でも、きっと、私にとっての彼女が、彼女らしく居てくれるだけでたくさんのものを与えてくれるように。
彼女にとっての私も、私らしく居るだけで何かしらを与えているんだろう。

本当に、嬉しすぎる。好き。愛してる。


まとめ

いつもの倍近く書いてしまいました。
最初から最後まで読んでくれた方は、もう、本当に、ありがとうございますと土下座したくなりますね。

珍しく、読み直して感想を書いてみようかなと。
感想というより、補足なのかもしれませんが。

・母と娘
分かり合うことはできないけれど、切れることもない関係でした。
自己犠牲みたいな文章になってしまいましたけれど、決してそういうことを伝えたかったのではなく、親子だからって分かり合える必要はないだとか、壊れることも拗れることもない関係は存在しないだとか、そういうことを伝えたかったのです。

・私と弟
適切な距離を保ち続けている関係でした。
なんだか、読み返してみると「仲良し」と言いながら「素っ気ない」ような印象を持ちますね。
そんなつもりはなかったのですが…。
でも、それこそ『適切な距離』を保ち続けている証拠なのかもしれないなと思います。

・私と恋人
好き以上の好きで強く結ばれている関係、かな?
あの、ここで断っておきますが、恋人さんのせいで私が自分の首を絞めているというわけではありませんから!
むしろ逆で、自分の首を絞める感情を、前向きにしてくれるのが恋人という存在、みたいな。
こんなにも良い人と出会えて、本当に幸せ者です。

・私と親友
全く違うからこそ惹かれ合う関係、ですね。
それから、全く違うからこそ助け合えもするし、与え合えもする。
全く違うから分かり合えないを通り越して、全く違うからこその利点をこの上なく追求しているというか。
書いていながら、なぜ成り立ってるんだろうって、不思議な気持ちになっていました。


こうして簡略化してみると、そもそも簡略化していいものでも、文章にできるものでもないんだなと思いますね、本当に。

真意の伝わることのない文章になってしまったようで、この文章に価値や意味があったのかと問われると、全くもってなかったと自信を持って答えることができます。

真意が伝わらなければ、意味がない。
意味がなければ、価値のつけようがない。

ところで、今日のタイトルは「関係として成り立つ」でしたね。
今回挙げた、私の持つ4つの関係はどれも、現実的には成り立っているけれど、論理的に考えると破綻している部分が多いように感じるのです。

きっとそれは、言葉ではどうにもならないことや、私の知り得ないことがあるからそうなっているのでしょうけれど。
ではそれら全てを踏まえた上で論理的に考えることが可能だったとして、論理的にも破綻していないのか?と聞かれれば、やはりそうでもないと思います。

どうしたって、少なくともどちらか一方には、何かしらの無理がかかっているだろうし、ぴっちりきっかり収支のとれる関係なんてそれこそ、ちょっとバランスが崩れたくらいで崩壊してしまう程度の脆い関係性であるだろうと思います。

結局のところ、関係として成り立つ関係は、互いが納得してさえいればそうであるわけですし、そもそも論理も何も通用しないのかもしれません。

ただ、こうして考えることが全くの無意味だったかと聞かれると、少なくとも私自身にとってはそうでもなく。
自分が自然にしていた些細な言動や思考の理由がなんとなく見えた気がして、ちょっとだけスッキリしたというのが正直なところです。

きっと、このnoteを書いたことを、かなり近い将来に後悔すると思います。
書いている内容に、無理がありすぎる。
まあでも、これだけ長い文章は手書きでは書けませんでしたし、稚拙ではあれど自分の持つ言葉を繋ぎ合わせて、どうにかそれっぽいものを書いたという結果としては良いものだとは思います。

反省します。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。