自由に不自由する

こんばんは。

天気が不安定な日々が続いていますね。
真夏の、強い日差しというものはどうしても好きになれませんけれど、こうして曇りの日が続くと、恋しくなってしまいます。

好きではないけど嫌いでもないって、こういうことなんだろうなぁ、なんて思ったり思わなかったり。


選べる

人生は重要な選択の連続、なんて、銀魂という漫画・アニメのセリフにありますけれど。

重要かどうかはさておき、選択の連続ではありますよね。

選択と言われれば、何かを選び、何かを切り捨てることを思い浮かべますけれど、実際はそこまではっきりと取捨選択することは少ないように思います。

黒白はっきりしない、もっとグレーなもの。

例えば、順位付けとか優先度とか、そういうもの。

全てを選ぶとして、何にどれくらい重きを置くか、という選択の方が、多いような気がします。

受験勉強なんて、分かりやすい例ですよね。

全教科1から10まできっちりと学び切ることができれば、それがベストです。

しかし、実際はそうはいきませんから、英語が重視される学校に行くから、英語を優先するだとか、一番足を引っ張っている科目にだけ集中するとか、逆に一番好きで得意な科目で満点を目指すとか。

まあ、いくつかある科目の中から数個を選び、他を捨てるという意味では取捨選択なのかもしれませんけれど。

受験において、入試において全く必要とされていないでもない限り、完全に『捨てる』という選択はありませんから、やはり『何にどれくらい重きを置くか』という選択をしているという方が、私個人としてはしっくりくるのです。


選ばなければいけない

先ほどまでのは前置きです。
ここからが、多分、きっと、本題。

人って、『選ぶ』ということからは逃げられないんですよね。

『選ばなければいけない』ということです。

目の前には、膨大な選択肢があります。

それを、『時間』というふるいにかけて。
『自分の意思』というふるいにかけて。
自分や自分を取り巻く『都合』というふるいにかけて。

それでもまだ、膨大な選択肢であることに変わりはないこともあります。

その中から、選ばなければいけないんです。

私たちには、選ぶ自由がある。
どうするか、迷う自由がある。

しかしそれは、自由であると同時に、『選択』という檻に閉じ込められているのと同じだと思います。

皮肉ですね。


自由に不自由する

江戸から明治への移り変わりの時代。

今までは、親の仕事を継ぐのが当然だったのに、文明開化によって、自分の生き方は自分で『選ぶ』ことができるという時代へと変化したそうです。

仕事も、学業も、結婚も。
身分に囚われず『選ぶ』ことができるようになったのです。

そうなった時、初めて、『自分の在り方』を問い直したんだとか。

その話を聞いて、定められた人生というものよりも、定められていない人生の方が不自由が多いような気がしました。

だって、何もかもを自分で切り開いていかなければいけないのですから。

もちろん、誰もがそうというわけでもなかったでしょう。

古き良き風習に従って親の後を継ぐ人もいたでしょうし、今の時代だって、そういう人がゼロではありません。

選択の自由がある上でそれを選んだというだけではありますけれど、膨大な選択肢の中から自分の道を一つ選ぶよりかは、目の前に見える道を選ぶ方が簡単な気がします。

相応の努力は必要でしょうけれど、逆を言えば、相応の努力さえすれば良いんです。

場合にもよりますが、『選択』するより、『相応の努力』をするだけの方が、簡単でしょう。

選択をする人は、選択をした先でさらに、相応の努力をしなければいけないわけですし。

ここまで長々と書いて、結局のところ何を言いたかったのかというと、『自分の在り方』って大切だよねって、それだけです。

自分がどう在りたいかという『理想』
自分が今、どう在るのかという『実情』
自分がこれから、どう在るべきかという『計画』

そういうものを含めてた在り方。
それを見失っては、この世界はさぞ生き辛いでしょう。


私が生き辛い理由も、その辺が上手くいっていないからなのでしょうね。

『理想』はあるけど、『計画』が行き当たりばったりすぎるとか。
『計画』に『実情』が考慮不足だとか。

多分、そういうことです。

あーなんかスッキリするようなモヤモヤするような、でも、確実に一歩前進することのできたような記事が書けて、とても嬉しいな。

今日はよく眠れそうです。





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