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22年前の両親へ、その子どもを殺せ

 1月23日は、私にとって特別な日、私の誕生日です。
 きっかり何年か前に私は生まれたらしくて、今年の場合は、22年前ということになるそうです。

 当然、生まれた時の記憶なんてありませんからね。
 それを証明する書類がいくらあったところで、5分前仮説の前では無意味ですし。

 本当に22年生きてきた実感とか、今の自分が22歳なんだとか、そういう感覚はまるでありません。

もし、未来が決まっていたのなら

 何故、自分が生まれてきたのかがわかりません。
 少なくとも、両親が愛し合っていたその一瞬だけは、望まれていたのでしょう。できればそうであってほしい。

 でも、私が10歳の頃には、家庭は崩壊しましたし、それ以降、父は私たちが生きるために必要なお金を、一切寄越しませんでした。
 誕生日プレゼントとかお年玉とかはもらっていましたがね。それくらい。それって、私が生きていくためのお金というよりかは、愛情表現のお金ですよね。
 私が生きようが死のうが、苦しもうが泣こうが、どうでもいいんですよ、きっと。

 家庭が壊れたことで、家庭なんて、家族なんて、いくら血が繋がっていてもそんなもんだと、私の中には大きな失望があります。これはもう、何もかも全てにおいて、『不信感』という形で私の中に深く根付いています。

 また、中2の頃は家庭関係のトラウマでPTSDを発症していますから、自分がどれだけ頑張ったところで、いつまで経っても過去は過去になってくれないと、生きる気力を根こそぎ枯らすような絶望と自棄があります。

 そして、ちょうどその頃、PTSDとは少し別件ですが、助けを求めたのにその手を取ってくれなかった人たちがいました。大人なんて、親でさえも、助けてくれなかった。クラスメイトにも酷いことを言われたってことだけは覚えている。何言われたかは忘れたけど、その時の感情だけは覚えています。
 ただただ、深い失望、それから無力感。それらがずっと、私を苛む。

 こういう人生が決まっていたのならば、最初から生まれてこない方が、自分にとっても、周りにとっても、幸せだったと思いません?

どうせ育てられない

 今の私の生活を、『人間が生きている』と言えるのなら、死体や人形だって生きていると言っていいんじゃないかって思うんです。

 なんていうんですかね。
 生きていると死んでいるの境界線が、よくわからないんです。

 人形は、美しく着飾られて、そこに立っているということで、十分に役割を果たしています。死体は、そこに転がっているだけで、死体という役割は成立しているので、十分ですよね。
 人形は人形らしく生きていて、死体は死体らしく生きていると思うんです。それはとても自然なことですよね。

 人間のはずの私は、働きもせず、学びもせず、何も進歩せず、とりあえず毎日なんとか死なないように生きています。
 それって人間なんですか?とても不自然でしょう?

 こんな大人に育つくらいなら、初めから育てなければよかったんです。
 だから、22年前のご両親に、今すぐその子を殺せと伝えたい。

 災厄しか招かないし、そのうち本人も生きることを望めなくなる。
 お金がかかるし、健康ではなくなるし、とても普通に生きることなんてできはしない。親の期待になんて、何一つとして応えられないから、殺した方が幸せになれるよ、って。

 まあ、私が生きたくないだけの方便ですけど。

🎂アンハッピーバースデー🎂

 こんな私の22歳を、どう喜べと?
 未来に、なんの期待を抱けと?

 どうせ無理。どうせ無駄。どうせどうにもならない。
 こんな人生、さっさと終わらせてしまいたい。

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