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導き、導かれて

こんばんは。

ずっと前に、誰かの記事を引用しやすい機能が追加されました!みたいなアップデートがあったのは知っていたのですが。書くばかりであまり読むことのない人間なものですから、その機能を使う日はなかなか来なかったんですよね。

面白い機能だとは思っていて、いつか使いたい機能だとも思っていたのだけれど。

今日は木曜日で、最近の私の習慣的にはパソコンをつけることすらなかったかもしれない日だったのですが、あまりにも暇すぎたのでパソコンをつけました。

それで、noteを開いてみました。

おすすめ記事で出てきた『素直でいきたい』のタイトルに惹かれて、ある記事をひとつ、読んでみました。

それだけのお話です。


寄り道の多い生涯を送ってきました。

太宰治風。

高校を辞めて通信制へ移ったり、新卒で入った会社を半年くらいで辞めたり。
生きたくて、死にたくなくて、それなのにODして救急車で運ばれたり。
新しい夢を持ったかと思えば、学校へ行くことができない自分の境遇に絶望して、自傷して、またまた救急車で運ばれたり。

『素直でいきたい』という記事を書いた高野さんに負けず劣らず、私の人生も、寄り道ばかりの人生です。
いや、私のものは寄り道、というよりも、単なる遠回りかもしれません。

まあ、なんとなく、自分と似ているものを感じました。
自分と学校が合わない、と感じる部分とか、特に。

私が高校を辞めたのだって、学校でやることと自分のやりたいことの方向性がずれてきてしまったからで。
そこに至るまでには、自分の視野が広がったとか、もっと別のことをやりたくなったとか、色々ありましたけれど。

高校とはいえ工業高校だったので、専門的なことを学ぶという点については、大学に近い部分があったと思います。それから、考え方がちょっと古臭いような感じはしました。職人気質が強い、というか。
そういうのも含めて、最終的には、私にとって『やり難い場所』になってしまったのかもしれません。


私の『素直』

私は、自分のことを、理屈っぽくて面倒臭い捻くれ者だと思っています。
けれど周りは、私のことを『素直』と評価します。

何故だかよく分からない。

あらゆる物事には理由があって、紐解けば思慮は必ずあるはずで。
無駄は省くべきで、誰もが正当に評価されるべきで、そのための変化は好ましく思っていて、変化を嫌う人は退屈だと思っていて。
いつでも自分の心に従うべきで、強制されて動くのは癪で、例え誰かに言われたことでも、必ず自分で決めて行動したくて。

日頃から、いろいろ考えてはいます。考えているという自覚があります。
けれども、その考えたこと全てをアウトプットしなければいけないわけではないので、思っているけど言わない、気づいたけど気づかないフリをする、そういうことは、私の中では”よくあること”になります。
ちょっと、寂しい気もしますがね。

些細なことにいちいち突っかかっていたら、自分も疲れるし、相手も疲れる。コミュニケーションが円滑には進まなくなるし、相手からえられたかもしれない何かを見す見す逃すことになってしまう。
それほどまでに、馬鹿らしいことはないでしょう、と。

私は主に、知的好奇心と探究心で構成されている、快楽主義な生き物なので、何かが得られるかもしれないという可能性の芽は潰したくないわけです。

面白く、豊かに、そして思慮深く生きていたい。
きっとこれこそが、私のことを『素直』と評価する理由なのだろうと思います。

純粋に面白さを求める自分。純粋に豊かさを求める自分。
あらゆる物事に対し、思慮深く向き合う自分。
そういう真摯さこそが、素直の本質なのかもしれない。


自分のことは、自分が一番よく分かってる。

私は自信を持って、こう言うことができますよ。
少なくとも、自分しか知らない自分を知っている分、周りの誰かよりもよっぽど、自分のことをよく知っている。

ジョハリの窓、なんて話がありますね。
『自分は知らなくて、周りは知っている自分』の部分。
これって、自分と周りの認識のズレが大きいと思うんですよね。例えば、自分は話し上手だと思っているけれど、周りの人は説明下手で冗長なだけだと思っている、とか。
だから、『自分は知っていて、周りは知らない自分』と対になっているのではないかなぁなんて、勝手に思っています。

閑話休題。
最近の私には、友達って距離感で頻繁に関わりを持っている人がいませんからね。
認識がずれることもなく、そもそも誰かに知ってもらう機会もほとんどなく。自分しか、今の自分のを知れる人が存在しない、くらいに一人ぼっち。

さて、ここからが本題。

“自分のことは自分にしかわからないと思っていた。でも、周りの方が私のことをよっぽどよくわかっている。”

私はこの部分を読んでまず初めに、これを書いた高野さんはやっぱり、自分のことはよく分かっていそうだなと思いました。

ただ、視野が足りないのではないか、とも思いました。

どこでなら生きていけるのか。
どうすれば望む方向へ自分が進んでいけるのか。
どんなやり方が向いているのか。

そういう、自分自身に対する問いの答えを自分で決めるには、少しだけ視野が狭い、あるいは、視野は十分だけれど、自分の見えている世界の外側に、自分が見るべき世界が広がっている。

周りには、自分と違う視野を持った人が居ます。居て当然です。
だから、自分が出せない答えを与え、自分を導いてくれる。

高野さんの言う『素直さ』は、誰かに『導かれる』ことに近いように思いました。

自分が自分を知るには限度があり、また、自分が自分に与えることのできる答えにも限度があります。
いつだって自分一人では、自分の領域外にはたどり着くことができない。

けれどそんなことは、当たり前のことなのです。
自分の知らない世界、自分の領域よりも向こうへ行きたければ、誰かに連れていってもらえばいい。導いてもらえばいい。

そこでつまらない意地を張ってしまうことこそが、自分にとって最大の損失。
次に大きな損失は、自分の領域の外へ出ようとしないこと、でしょうか。


導かれて、導く?

最後のまとめに入りましょう。

今更言っても遅いかもしれませんが、高野さんを責めるつもりは全くありません。

視野が狭いのは誰しもですし、それぞれにそれぞれの見えている世界があることも当たり前でどうしようもないこと。
その上で、周りの声に耳を貸すか否か、というのは確かに、本人ができる選択で。
結果、周りの言う通りだったとしても、まずはやってみたことに価値がある。そして、やったことから何かを考え学ぶことで、その価値は意味を持つようになる。

意味も価値もあるのだから、間違っているはずがありません。

逆に、周りの意見に流されすぎることも、あまり良くないですしね。
負けん気が強い、我が強い等々、色々な言い方があるかもしれませんが、自分の決めたことに対し一生懸命な姿勢も、突き進むことのできる勢いも、生かし方が分かれば素晴らしい武器になるはずです。

もしかしたら今は、『導かれる』ことを知る時期なのかもしれない。
けれども、今こうして『導かれる』という経験を得ることができたのならば、いつかは誰かを『導く』ことができると、私は思います。

一生懸命になれて、一気に突き進むことのできるタイプなのですから。
少年漫画の主人公っぽいですよね。とても格好いい。

まあしかし、誰かを『導く』となれば、今度は相手を知る必要も出てきますからね。そこが苦手なら、これは答えではないのかもしれない。

私の視野では、そういう答えしか出ない、ということです。
ただ、それだけのこと。


誰かの記事からの引用でも、意外と面白いものがかけたような気がします。
かいていて、とても面白かったから。

週末、投稿できるかなぁ。
期待せずにお待ちくださいね。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。