見出し画像

マーティン・ファクラー著 『日本人の愛国』(角川新書、2021年)

安倍前首相が「五輪に強く反対する」人々のことを「反日」と呼んだのは、まだ記憶に新しい。私は招致の段階から東京五輪に反対だったのだが、自分に「反日」のレッテルを貼られる日が来ようとは驚いた。福島の放射能汚染は「アンダーコントロール」といえる状態には見えないし、東北が東京に電力を供給するために犠牲になった以上、「復興五輪」は東京ではなく東北で開催するべきと思っていた。ましてや世界的なパンデミックで医療を受けられずに亡くなる人が後を絶たない中での開催は、人道的かつ倫理的観点からみても、あってはならないことだと思っている。自分のこうした思いは国土とそこに住む人々への愛情なしには生じ得ないため、強いていうなら愛国心に近いものと感じていた。だから著者ファクラー氏の「日本の愛国は、時代とともにさらに多層化、複雑化している」との見解にいっそう興味を抱くに至った。

ファクラー氏はアメリカ南部の出身で、「敗戦」をどう評価するかのコンセンサスがまだ得られていない点において、負けた側の日本人と同じ地平に立って論を進めておられる。零戦パイロットや元特攻隊員の方々を丹念に取材して、「国民の家族や故郷を守りたいという良心から生まれる思いを利用して、狂信的な愛国心を作り上げた」と述べ、「上からの愛国心教育は、戦争を美化して、戦争の過ちから目をそらす危険性がある」と指摘。「健全な愛国ははたして可能なのだろうか」と問題提起している。(P.66)

ジャーナリストであるファクラー氏の文章はとてもわかりやすいので、この先はぜひご自身で読まれることをお薦めしたい。外交に疎い私は、氏の説明で初めて尖閣諸島問題が整理でしたし、遺骨収集における日本の特異性についても知ることができた。ここ10年程、国家が上からの愛国心を植え付けようと働きかけていることを肌に感じながらも、愛国心を語ることはどこかタブー視しているところが私自身にもあった。戦後生まれの多くは、先の戦争の精算はおろか、先代からの記憶や記録の継承も十分にできないまま、ただ無為に時間を過ごしてきたような気がしてならない。

日本人にとっての「愛国」とは何かを決めるのは日本人自らであると断った上で、ファクラー氏は上からのお仕着せの愛国心とは異なる、日本人の新たな愛国心の萌芽を示してくれている。それは氏の国境を越えた日本への愛国心であるとともに、私たちへの大きなエールとして心に響くものだった。


☘️追記☘️
伝吉さまが当記事を素敵なマガジンに追加してくださいました。遡ってご覧くださり、どうもありがとうございます。東京五輪の開催が近づくにつれ、道路がより美しく舗装され、バス停に電光掲示板が整備されていきました。歩道に埋め込まれた点滅灯を見る度に、この予算をなぜ東北のために使おうとしないのかと思えてなりませんでした。東京出身の一人として、今でも大変申し訳なく思っております。