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ベートーヴェン

不屈の楽聖、運命と第九の作曲家

ジャジャジャジャーン!という音がなると何かとんでもないことが起こったしるしと誰もが認識している「運命」ですが、作曲者自身はこの表題を付けていません。正式名称は交響曲第5番ハ短調作品67です。ソソソミー、ファファファレーという、この動機が何度も反復され、1楽章はソナタ形式で展開されます。弟子のシンドラーが「運命はこのように扉を叩く」とベートーヴェンが言ったと伝記に書いたとおり、苦悩を連想する主題ですが、終楽章で歓喜を感じさせる長調のドミソの分散和音にいたります。
第九(合唱付き)も日本では年末の風物詩となっていて、とても有名です。4楽章にシラーの詩に基づいた合唱を伴います。これも表題はなく、正式名称は交響曲第9番ニ短調作品125です。
ベートーヴェンに耳の疾患があったこともよく知られています。誰よりも鋭敏でなければならない耳が聞こえなくなったとき、当然、ベートーヴェンは苦しみました。その気持ちを親友のヴェーゲラーへの手紙に書いています。ベートーヴェンは突然聞こえなくなったわけではなく、徐々に異変を感じたのでした。その間もピアニストとして活躍して、サロンでの社交をしていました。後にハイリゲンシュタットの遺書で一時は自殺も考えたが、自身の芸術に生きることが使命だという、遺書というよりは決意表明が綴られます。
このような苦しみがあったからこそ、苦悩を越えて歓喜にいたるというテーマにいきついたのかもしれません。

ピアノ音楽の新約聖書

ベートーヴェンはピアノソナタを32曲作曲しています。それを指揮者のハンス・フォン・ビューローはピアノ音楽の新約聖書と言いました。旧約聖書はバッハの平均律クラヴィーア曲集です。
特に有名な3大ソナタは、8番「悲愴」、14番「月光」、23番「熱情」です。ピアノ上級者は必ず弾きますし、多くのピアニストの録音があり、頻繁にコンサートで取り上げられます。
そのほか17番「テンペスト」、21番「ワルトシュタイン」、26番「告別」、29番「ハンマークラヴィーア」も有名です。最後の30、31、32番の3つのソナタは円熟の極みです。
ピアノ変奏曲もベートーヴェンは非常に得意としていました。若い頃はピアノの名手でモーツァルトの再来として期待されました。そのときに聴衆に聴かせたのが即興演奏であり、変奏曲です。変奏曲は装飾的なものにとどまらず、自由な楽想が展開されます。レガート(音をなめらかに繋げる)を使った情感豊かな演奏は当時の貴族を中心とした聴衆を魅了しました。ディアベリ変奏曲が有名です。

ベートーヴェンの出生と修行時代

ベートーヴェンは1770年、ドイツのボンに生まれました。宮廷声楽家の父のヨハンと母マリア、祖父は宮廷楽長のルートヴィヒ、つまりベートーヴェンと同じ名前です。偉大な祖父をベートーヴェンは終生尊敬していました。しかし、この祖父はベートーヴェンが3歳のとき亡くなってしまいました。したがって、ベートーヴェンは祖父に直接指導をされたことはありません。
父のヨハンは幼いベートーヴェンに厳しく音楽を教えました。ベートーヴェンを第二のモーツァルトとして売り出そうと考えたのです。しかし、ヨハンは次第に酒に溺れていきました。ヨハンの代わりにベートーヴェンは家計をささえなければなりませんでした。11歳からはネーフェという優れた師に学ぶことになりました。ネーフェはバッハやモーツァルトを教え、ベートーヴェンにはじめての作品をつくらせ、世に紹介しました。また、ネーフェは啓蒙主義者で思想的にもベートーヴェンに影響を与えたと思われます。16歳のとき、ベートーヴェンは一人ウィーンに旅行し、モーツァルトと面会しました。このとき、モーツァルトの前でピアノを弾き、モーツァルトは「見給え、この少年はいずれ世の注目を集めるよ」と言ったと伝えられています。ベートーヴェンは18歳になるとボン大学で哲学を聴講し、シラーを読み、啓蒙主義に同調し、フランス革命の熱を浴びました。1789年、まさにフランス革命が勃発した年でした。選帝侯に認められたベートーヴェンは、ウィーンへの留学が許されました。
1792年ベートーヴェンはウィーンへ旅立ち、ハイドンの教えを受けることになりました。
しかし、ウィーンでは、忙しいハイドンはあまり教えてくれず、アルブレヒツベルガーやシェンク、後にイタリアのオペラを学ぶため、サリエリにも師事しました。

ベートーヴェンと女性たち

前のあげたピアノソナタのほかに、ピアノソナタ第24番「テレーゼ」があります。とても愛らしく美しい優しさに満ちた曲です。このソナタを捧げられたテレーゼ・ブルンスヴィクは長年ベートーヴェンの不滅の恋人とされてきました。しかし、その後の研究でどうも別の女性のようだということになっています。
その前にベートーヴェンには初恋の人がいました。エレオノーレ・フォン・ブロイニングという少女です。ベートーヴェンがまだボンの宮廷で演奏をしたり、呑んだくれの父親のかわりに一家の家計をささえなければならなかった17歳頃、ブロイニング家のピアノの家庭教師になりました。そこでの生徒がエレオノーレでした。ブロイニング家では未亡人のヘレーネ夫人がベートーヴェンにブロイニング家の本を自由に読ませてくれて、礼儀作法も教えてくれました。エレオノーレは後に親友のヴェーゲラーと結婚しました。しかし、その友情は最晩年まで続きました。
先のピアノソナタ24番を捧げたテレーゼには妹がいました。ヨゼフィーネ・ブルンスヴィクです。この女性こそベートーヴェンの不滅の恋人だと言われています。不滅の恋人とはベートーヴェンが40歳を過ぎた壮年時代に狂しいほどの成熟した恋愛をしたと思われる証拠の恋文に書かれている言葉です。ヨゼフィーネは年の離れた貴族と結婚し、未亡人となりとても不幸な身の上となったようです。それをベートーヴェンは影で支えたと思われます。
その他、不滅の恋人はアントーニエ・ブレンターノだという意見もあります。アントーニエは富裕な銀行家の妻で、非常に高い教養がありました。アントーニエの姉妹はゲーテと親交があり、ベートーヴェンとゲーテが邂逅するきっかけとなりました。そのほかにもベートーヴェンには何人もの女性との関わりがあります。

ベートーヴェンの成長と円熟

ベートーヴェンは幼い頃から晩年まで成長し、変化し続けた人でした。
父のヨハンの厳しく気まぐれな指導にもかかわらず、才能を発揮し、ネーフェという師にめぐり逢いました。ネーフェは啓蒙主義の影響を受け、読書協会というフリーメイソンに似た宗教のしがらみから自由な人間性の発露を重んじる博愛主義の団体に入っていました。またネーフェは、ライプツィヒ出身でバッハの音楽の伝統を引き継いでいました。当時、バッハは一般に忘れられていたにもかかわらずベートーヴェンに教えました。十代のベートーヴェンはブロイニング家で読書の習慣を学び、シラーを始め、シェイクスピアやゲーテにも親しみました。そうした多感な時期にフランス革命の熱狂と出会い、大きな影響を受けました。とりわけナポレオンには感情移入しました。それは交響曲第3番英雄を生み出しました。しかし、後にナポレオンは自ら皇帝を名乗ることになり、革命の精神に共感していたベートーヴェンは裏切られることとなり、怒りをあらわにしました。ベートーヴェンはまた、魅力的な女性たちに惹きつけられました。ほとんどは聡明な貴族の女性でした。ベートーヴェンは結婚と家庭生活を夢見ていましたが、そもそも貴族の女性と平民のベートーヴェンが結婚することは、当時に習慣において不可能でした。
ベートーヴェンは耳の疾患もひどくなり、失恋も重なり、1802年にハイリゲンシュタットの遺書を書きました。これは自殺の誘惑から立ち直った芸術家としての決意表明でした。その後、ベートーヴェンは数々の傑作を怒涛のように生み出していきました。それらは西洋の音楽史において革命的なもので、古典主義を完成させ、ロマン主義へと展開させるものとなりました。
壮年のベートーヴェンは最後の恋をしました。それが「不滅の恋人への手紙」に表されている女性です。この女性が誰かは様々な意見があり、現在ではヨゼフィーネ・ブルンスヴィクということになっていますが、絶対そうだとも言い切れません。ただし、ベートーヴェンがもう40歳を過ぎて(当時の年齢ではけっして若くはありません。)激しい恋をしたというのは、事実です。そこでの恋が成就しなかったことは、(あえて失恋とはいいませんが)大きな精神的な痛手となり、その後、作曲もスランプになってしまいました。長いスランプを抜けたとき、ベートーヴェンは晩年の様式へと進んでいきました。時代はベートーヴェン自身が切り開いたロマン主義へと進んでいましたが、ベートーヴェンはむしろ古典からバロックの技法を参照するようになりました。フーガを作品に大胆に取り入れるようになります。
曲は複雑難解になり、かつての苦悩を突き抜けて歓喜にいたるといった様式美は表されなくなってきました。第九は例外的なもので、これは若い頃からの着想の集大成です。
29番以降のピアノソナタ、12番以降の弦楽四重奏曲が後期の様式を代表します。また、当時のウィーンはナポレオンが失脚した後のウィーン会議以降の反動的なメッテルニヒの独裁体制であり、共和主義者のベートーヴェンには息苦しい時代となっていました。この頃、ベートーヴェンは巨匠とウィーンの人々に認識はされていましたが、忘れられた芸術家でした。台頭した市民階級の聴衆はロッシーニなどの気楽な音楽を求めていました。しかし、ベートーヴェンの精神はそれとは逆行するように深まっていき、インド思想などの本を読んだり、ヘンデルを研究するなど、独自の境地に達していました。その一方、私生活では亡くなった弟の息子で甥のカールに拘泥し、カールの母との間で裁判を繰り返したり、カールに干渉するあまり、カールが自殺未遂を起こし、結局、軍隊に入るなど痛ましいことが続きました。そして、ついにベートーヴェンは死の床に付きました。数々の縁のあった人々がお見舞いに来ました。ロンドンから大好きなワインが届けられましたが、「残念、残念、遅すぎた!」と言って飲めませんでした。「喝采せよ、諸君、喜劇は終わった」という言葉を残しました。これはローマの警句のパロディで、荘重な思想と皮肉なユーモア好きのベートーヴェンらしい言葉です。意識を失ったとき、雷を伴う嵐で、死の床で高く拳を天に突き出しました。1827年でした。葬儀は2万人の人を集め、その中にはシューベルトの姿もありました。

これらの逸話として残っている話は、実際はなかったという研究があります。しかし、広く浸透している逸話はここでは事実として書きました。

ベートーヴェンの主要な作品

交響曲
交響曲第3番 『英雄』変ホ長調作品55 
交響曲第5番 『運命』ハ短調 作品67 
交響曲第6番 『田園 』ヘ長調作品68 
交響曲第9番 『合唱付き』 ニ短調 作品125 

誰もが知っている曲
ピアノ曲
エリーゼのために バガテル WoO 59

ピアノソナタ
ピアノソナタ第8番 ハ短調『悲愴』 作品13
第14番 嬰ハ短調 『月光』 作品27-2
第15番 ニ長調 『田園』
第17番 ニ短調『テンペスト』 作品31-2
第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』 作品53
第23番 ヘ短調 『熱情』 作品57
第26番 変ホ長調『告別』 作品81a
第29番 変ロ長調『ハンマークラヴィーア』 作品106
第30番 ホ長調 作品109
第31番 変イ長調 作品110
第32番 ハ短調 作品111

協奏曲
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調『皇帝』作品73
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61

後期の弦楽四重奏曲
第12番 変ホ長調 作品127
第13番 変ロ長調 作品130
大フーガ 変ロ長調 作品133
第14番 嬰ハ短調 作品131
第15番 イ短調 作品132
第16番 ヘ長調 作品135
弦楽五重奏曲 (全3曲)

ヴァイオリンソナタ(全10曲)
第5番 ヘ長調『春』 作品24
第9番 イ長調『クロイツェル』 作品47
クロイツェルはトルストイの小説にもなった。

チェロソナタ(全5曲)

室内楽曲
ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調『大公』 作品97
七重奏曲 変ホ長調 作品20

その他のピアノ曲
ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲)ハ長調 作品120

序曲
《エグモント》序曲 作品84

オペラ
歌劇『フィデリオ』作品72

宗教音楽
ミサ・ソレムニス ニ長調

歌曲
連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 作品98
アデライーデ 作品46
君を愛す WoO123

所感

わたしはベートーヴェンは、その偉大さからいって人間の中の人間だと思っています。イエス・キリストと似ています。イエスは神の子ですが、ベートーヴェンは人間です。昔は楽聖などと言われていましたが、聖人ではなく、あまりにも人間であろうとした人だと思います。そう言えば、ベートーヴェンはイエスのことを「磔にされたユダヤ人に過ぎない」と言い放ったそうです。ベートーヴェンはキリスト教を否定していたのでしょうか。教会には行きませんが洗礼はカトリックでしたし、葬儀の行われた三位一体教会もカトリックでした。ミサ曲もつくりましたし、第九も神をたたえてはいます。しかし、第九の精神は、強烈に人類愛を謳っていて神よりもやはり人間を見ていると思います。それは、若い頃に受けた啓蒙主義と革命の精神と呼応しています。ベートーヴェンはパトロンのリヒノフスキー侯爵に「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と言いました。芸術家としての不敵な自信。これは絶対王政の時代のモーツァルトでは考えられません。まさに、人間として、芸術家として、唯一無二の存在と自己を認識した個人としての近代人でした。わたしたちも、ベートーヴェンのような偉大さはなくても、一人の人間としてかけがえのない価値を持っていると信じます。


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