デザインは「する」のではなく「ある」もの。

2018.8.13
ぼく自身も気をつけていることですが、なにかの専門家になると自分の専門分野が特別なことのような錯覚を覚えます。
そして、仕事の打合せなどで自分の貢献度を示すために、特別なように話すでしょう。
学会のように、その専門分野のことを話す場ならこれで構わないでしょうが、打合せの席などで、この視点しか持っていないと会話にならないことが多いです。
とにかく自分の専門分野を特別なことにしなければならないので、専門技術や知識を発揮することが、どれだけのコストがかかるかの話をしがちです。
みんなお金が欲しいからね。


でも、すべては習熟度でしょう。
慣れてればいいモノが早く作れるし、時間をかける必要があるところで時間をかけるでしょう。
不慣れであれば大変なので、慣れているヒトに頼む。
すべての専門分野はただこれだけの話です。

 
そして、生活のなかで未来永劫、必要とされない専門分野があるでしょうか?
答えは否です。
たとえ、ニッチな世界でも必要とされるはずです。
つまり、専門分野は生活のなかで「当たり前にある」ことなのです。

 
これは私の専門分野であるクリエイティブやデザインも同じです。

 
このように考えると、「デザインをする(しない)」という議論が盛んに行われているけれど、これは間違っていて、「デザインは当たり前にある」のです。
身の回りの椅子や車、店舗、建物の動線、話し方からお辞儀の仕方まで、生活のいたるところにデザインはあります。
飾り立てることは飾り立てるデザインがあるだけで、飾り立てないことは飾り立てないデザインがあるだけです。
これは、飾り立てる派手なヒトと内面を美しくする素朴なヒトがいるのと同じであり、そういったデザインがあるだけです。
華やかな席では素朴すぎるデザインは効果的ではないでしょうし、老舗の味を脈々と伝えている席では派手さは不似合いになります。
派手や素朴のデザインが、それぞれの場で、効果的に機能していないということです。
つまり、デザインはどんなものにも存在していて、これが効果的に機能しているかどうかなのです。

 
そういう意味では、デザインは、人間が備えている器官に近いでしょう。
目における網膜や水晶体、視神経など「見る」という機能にかかわる器官が効果的に働いていなければ、ボヤけて見えたり、見えなかったりすることと同じです。
胃が調子悪ければ、食べることが難しくなりますし、膝が悪ければ歩くことが難しくなります。

 
デザインも同じなのです。
デザインの良し悪しというのは、すべてのモノゴトが内包しているデザインという性質が、効果的に機能しているか、していないかの違いなのです。
これが分からずに「デザインをする(しない)」で話していると、どうしても飾り立ててしまわないと不安になってしまうものです。
この不安に勝つことが、デザインを効果的に機能させる、はじめの一歩のように思えます。

これは江口克のブログ「キャッチボールをするような」の2018.8.13の記事からの転載です。オリジナルで読みたい方はこちら

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