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ある記憶 ー父との思い出ー

私が生まれたのは東京都の国分寺市ですが、その後神奈川の海老名、小田原を経て、5歳の時に移住した相模原で結婚するまで約20年間過ごしました。記憶を辿ってみて最も古い記憶は小田原の頃になります。そこはとある建設会社の独身寮で、母がそこの管理人をやっていました。管理人と言っても主に賄いと掃除、雑用などをこなしていました。

私は第一子だったので、出掛ける時はたいてい妹か弟も一緒でした。なので父と二人きりで出掛けたことが数えるくらいしかありません。自分の中で幼少期に父と二人で出かけた場所を三か所記憶しています。

まず小田原城址公園の遊園地、おそらく母が忙しくて時間潰しに連れて行ったのでしょう。次に何故か教会に連れて行かれました。 
そして、もう一か所はプレハブのような大きな建物の中に入って行きました。畳敷きの広い部屋に、ちょっと怖い顔をした男の人がたくさんいて、その中で一番偉そうな人の前に父がかしこまって正座して、私もその隣にかしこまって座っていました。
その時はなんとも思わなかったのですが、後々思い返してみる度に、父はヤクザと関りがあったのではないかという疑問がどこかに燻ぶっていました。


両親が離婚する話が持ち上がったのは、私が結婚して上の子どもを身籠っていた頃です。うちの親は仲が良かったので寝耳に水でした。
父は今風のことばで言うと、元ヤンキーだったので、真面目ではありません。酒、煙草はもちろんのことギャンブルや浮気もやっていました。

それでも母はなんやかや文句を言いながら、父のことを労わって世話を焼いていました。子ども達がいるから離婚はできない、などと母は言ってましたが、傍から見ても父は母にぞっこんで、日本の男の人には珍しく愛情表現をあからさまに示す人でした。そんなだから母から見て父は可愛い男だったのでしょう。

浮気というのは文字通り気持ちが浮ついた状態で、インフルエンザにでも罹ったようなもの、時期がくれば醒めるものなのです。つき合ってくださった女の人達には申し訳ないのですが、父の浮気もそんなものだったと思います。

「なんかパパ、その人のこと本気で好きになっちゃったみたいよ。あれ、最後の恋だね」
家に遊びに来た妹から最初にその話を聞いた時は正直ショックでした。それでも、そういうことは当事者間の問題なので、私も妹も特に何も言いませんでしたが、当時高校生だった弟には納得がいかなかったようで、最後まで反対していたようです。

私が出産のために実家に帰った時には、既に両親は離婚して、父は新しい奥さんと暮らし始めていました。そのあとは私は初めての育児であたふたして、母も慌ただしい日々を送ってました。当時の母には入院している祖父の看病と、時折うちの娘の顔を見る来ることが糧となっていたのだと思います。

「厄介払いが出来て良かった」
母がそう語ったのは決して負け惜しみではなく、本音だったと思います。父は悪い人ではないけれど生活感覚が乏しく、お金の面で母は苦労が絶えませんでした。それだけでなくガキ大将がそのまま年を取っちゃったような人で、少々面倒なところもありました。

私は、父は離婚するに辺り元の家族とはもう会わずにひっそりと新しい暮らしに臨むとばかり思っていて、それが当然だと思っていました。ところが父としては、母とは離婚したけれど私達子どもとは変わらず親子だという態度でいるのです。

しかしながら親子の縁はそうそう簡単に切れるものでなく、母からも父の所へ行ってやりなさいと諭され、それ程頻繁ではないけれど行き来はしていました。

新しい奥さんのK子さんには特に恨んだり憎んだりする気持ちはありませんでした。ただ、私は父に向ってずけずけものを言うので、向こうは私が怖かったようです。小姑みたいな存在だったのでしょう。

父とK子さんは仲が良いのですが、時には落語に出てくる長屋の夫婦みたいに喧嘩をします。K子さんが父と互角に言い争って喧嘩する様子を見ていると何だかとても有難い気がしました。父と母は喧嘩はしませんでした。というより、いつも父が一方的に捲し立てて、母が黙って聞いているだけで、喧嘩になってなかったのです。母はこの人には何を言ってもしょうがない…と諦めていました。でも、もしかしたら、父は母とも喧嘩をしたかったのかもしれません。向き合ってほしかったのでしょう。

私は子どもの頃から母の愚痴を聞かされていたので母の苦労は理解できます。でも、父にも何か言い分があったのだろうと今は思えます。


父の声を最後に聞いたのは入居していた介護施設でした。妹、弟、K子さん、私の4人で見舞いに行きましたが、もうかなり痴呆が進んでいて私達子どものことはすっかり忘れてしまっているようでした。父はタクシーの運転手でありながら何か大きな事故を起こして免停処分になったことがあったようです。その時の事故のことを繰り返し謝り、あとはK子さんと新婚時代を過ごしたアパートの話、そればかりを繰り返していました。

小田原にいた頃の父が私は一番好きでした。夕方背広を着た父が帰って来る姿が何故か印象に残っています。住み込みの仕事だったので、そこに居れば食べる物と住む所は保証されていて暮らしに困らなかったのに…と時折母がこぼしていました。しかし父が嫌がったそうです。確かにそこでは母は管理人ですが、父はおまけのような存在でしたから。しかし後々思い返してみると父がそこに居るのを嫌がったのは他にも理由があったのかもしれません。

タクシーの仕事は朝出て行ったら翌朝戻り、その日は一日家にいるような生活なります。私は何故かそれが嫌で、お父さんが朝出勤して夜返って来るお宅が羨ましく思えたものです。しかし父にとってはそれがルーティンで小田原にいた頃が逆にイレギュラーだったのです。

ちょうど小田原にいた頃免停になって土木作業現場の仕事をしていたようです。きちんと背広を着ていたのでイメージが結びつませんでした。思えばタクシーの仕事をする時も制服があるので何を着て出勤しても構わないのに、いつも背広を着て行く人でした。

小さい頃見たヤクザの事務所のような所は土木作業の事務所だったのでしょう。おそらく最後の給料でも貰いに行く時で、私を連れて行ったのはお酒や賭け事の誘いを断るためだったのだと思います。

私にとって父の印象が一番良かったのは小田原にいた頃でしたが、父にとってはその頃が一番辛い時期だったとは何とも皮肉なものだと思います。


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