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なすの迷子



 2022年4月下旬、カーブした長い坂を下っている男がいた。歩道のすぐ脇には青々とした木が生い茂って、日は燦々と降り注いでいる。車はごくたまに横を通るばかり。歩いているのはこの男1人だけ。
 黒い革靴に茶色のセットアップ、グレーのリュックを背負っている。途中で暑くなったのだろう、ジャケットは左腕にかけて袖を捲り上げていた。
 たまに右手のスマホを伺い、少し眉を顰めたまま歩き続ける。かれこれ20分は歩いているだろう。歩き始めた時、地図上では所要時間30分と書いてあった。だが今の時点でまだ残り20分と表示されている。内心思う。
 「あーやっぱり大人しくもとのバス停に戻るべきだったかなー。いや予定より遅かった時点でステンドグラス美術館は諦めた方が良かったかなあ。」と。

 彼は出張で2日前から那須塩原に滞在していた。水曜に前乗りして作業日は木曜の1日のみ、幸いにも金曜は急ぎの用事がない。そこで有給を付けて観光することにしたのである。
 最大の目標は那須テディベアミュージアム。伊豆と那須、2ヶ所にあるかわいいの巣窟。1階と2階にわかれていて、2階にはトトロがいる。これは見事に達成し、ほくほく顔でミュージアムを出た。なお、この時点で予定より40分程遅れていた。
 第二の目標、ステンドグラス美術館にも訪れて、まったり柑橘ケーキまで楽しんだ。おかげで1時間近く押している。

 第三の目標、那須ガーデンアウトレットには、那須塩原駅からシャトルバスで向かわねばならない。その前に那須塩原駅へは黒磯駅から電車に乗る必要がある。さらに黒磯駅へはバスで30分かかるし、来た時のバス停へ戻るにも30分はかかる見積もり。
 バスは30分に1本のペースだし、電車はデッドラインに設定しているものを逃すと2時間近く来ない。これはカフェで調べてようやく発覚した。田舎を舐めすぎた報いである。このデッドラインのバスまであと25分。急いでも間に合うかは微妙なところ。

 男は考える。行きに使ったバス停ではなく、もう一つのバス停ならどうかと。行きのバス停より4〜5分かかる予測ではあるものの、停留所2つ分黒磯駅に近い。交通案内を見る限り、行きのバス停に比べて10分ほど猶予があるはずなのだ。問題はきつい陽射しの中、革靴で見知らぬ土地を歩くということ。もし逃した時にどんな環境で待つことになるかさっぱりわからないこと。

 そうして賭けに出た結果が冒頭である。時間的にかなり厳しく、かつ問題ばかり引いてしまった形だ。耳をすませば革靴に押し込められた足からうめき声が聞こえる。ステンドグラス美術館でカフェに入ったとはいえ、ミュージアム2つは歩き回っているわけで、朝から4時間は歩いている。諦めたようにスマホをポケットへ戻すと、そのままイヤホンを外してリュックにしまった。



 歩く速度を半分に落として軽く伸びをする。改めて、底無しに明るい透き通った空が見えた。不意に笑いが込み上げてくる。抑えきれずに口元は緩み、目尻は垂れていることだろう。でも周りには誰もいない。だから本当は抑える意味も無い。にも関わらずなんとなく抑えようとしてしまう。それがまたおもしろい。
 他人からは真面目で几帳面、計画的にこなせると思われることが多かった。本当はずぼらで無計画なのに。夏休みの宿題なんて計画を立てたこともない。最後の1週間で終わらないこともあった。きっと昨日まで一緒にいた先輩や同僚はそういう部分をわかっていないだろう。後輩だけは、なんとなく気づいていそうではあるが。
 ずぼらさや無計画さをわかっていても、知らない土地で半分迷子になることを予想できた人はいないだろう。きっと私のことを知っている人ほど、バスに間に合わせるか間に合わなくても元のバス停に戻ると思うはずだ。ステンドグラス美術館を諦めるかは微妙だが、何年か前なら元のバス停に戻ったに違いない。元来私は小心者でもある。

 それなのに、なんでだか少しはしゃいでいる。アウトレットを楽しむことはもはや絶望的なのに。見知らぬ地で、コンビニも自動販売機も一切見えない中を彷徨っているのに。
 たぶん、無計画に彷徨っているのが滑稽なのだ。そんなことができる自分がいたことに驚きながら、微笑ましくも思っている。久しぶりに見た近所の子どもが、いつの間にか極端な腰パンで歩いている姿を見かけたような。ちょっとしたお馬鹿感と、でも大きくなったなーという感慨の間。自分のことなのにそういう喩えを思いつくのも、なんだかおもしろい。どんどん坩堝にはまっていく。

 その内大きな道路にぶつかって、車はそれなりに通るようになった。あとは道なりに降っていくだけ。もうプチ迷子も終わったと見て良いだろう。
 この後黒磯駅についても1時間40分くらい時間がある。それなら駅前の図書館に入ろう。やたらおしゃれで優しい灯りの図書館。前日入りした時に気になったけど満足には見られていない。ここ、絶対に居心地が良い。チャンスがあれば3時間でも4時間でもいたい場所だ。
 確か実家で読んでいた漫画の続編が置いてあったはず。読んでいないのはたぶん3巻分で、これならちょうど読み切れそう。それから電車で那須塩原に移動して、シャトルバスでアウトレットに行こう。30分くらいしか周れないけど、どうせ買いたい物が無いかもしれないし。

 どんどん下って、再び少し寂れた何もない所にバス停は現れた。既に歩道は無くて白線だけ。その白線にも生い茂った草花がかなり侵食している。轢かれないように、停留所を盾にする形で佇む。
 2時間前に見たからか、なんだかミニトトロになった気分だった。


 しばらく経ってバスが停まる。やってきたのはごく普通のバスでネコバスのように飛んだり跳ねたりはしない。その代わり、男が跳ねるように飛び込んでいった。

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