見出し画像

実母の晩年・・・

実母と義母は、同い年。(このイラスト、実母に雰囲気似てる!)
実母は、70歳を迎えることなく、この世を去りました。

最期はちょっと気の毒な感じもしましたが、「自分のやるべきこと」は、しっかり認識して、母親としての喜びも噛みしめてこの世を去ることができた事は良かったのではないかと感じています。

娘のうつ病で、自分もうつ病に

実母は、娘二人、息子1人を産みました。

本人曰く「子どもは好きでない」とのことでした。それでも3人産んだんだな・・・

娘が社会人になった時、一人暮らしをしていましたが、うつ病を発症。
自殺未遂になり、自宅に帰ってきました。

その後、壊れ物を扱うように、気を遣って生活をし、母親が口を開くと、父親がそれを制する。という生活が続いたようです。

その生活が辛そうでしたので、体調がよさそうな時に、母を誘って、私の家族(夫・長男・次男)と旅行に出かけました。

うつ病の薬も飲んでいたせいか、思考力が低下しているような感じで、お風呂に入る際、「髪の毛が洗えない」とつぶやいていたので、洗ってあげました。

すると、「ムニカちゃんに、髪の毛を洗ってもらえるようになるなんて・・・」と感慨深げにつぶやきました。

その話を夫に言うと、『え、まだちょっと早いんじゃない』もっと、死期が近い人が言うセリフでは・・・と思ったそうです。(当時60代半ばだった)

精神科病棟に入院

家事の一切を母親が担っていましたが、体調の悪化?うつ病?年齢的なもの?で、家事ができなくなっていきました。

「つらいなら、病院に行くといいよ」と言われ、精神科の病院に入院。

本人の意思を無視して、入院させられてしまったらしく、

「今、病院にいるの。お父さんに入れられちゃった。」
母親から涙の訴え電話がきたのは、私の次男の小学校の卒業式の次の日でした。

家族は、お見舞いに行かず

家事ができない人は「用済み」のような扱いだと感じました・・・

嫁ぎ先の義母は、食事は嫁である私が作っていたから、年齢的には、食事は、作れなくたって、おかしくないんだけどね・・・

しかもよく食べる夫と娘の食事作りは、かなり大変だったのではないかと思います。掃除も洗濯もしない夫と娘の分もやるだけやり、感謝の言葉もなければ、口を開けば『口をきくな』と、夫の睨みを効かされて、生きてる心地がしなかったであろうことが想像できます。

ハンガーストライキ?!

入院生活は、
死んでいるみたいに生きている・・・

そんなふうに見えました。
食事を口にせず、どんどん痩せていきました。

それでも、夜は意識がもうろうとするらしく、何かしら口にしているようでした。(病院の職員の話)

私は、なんとか、日常生活に戻れるように、週に2回往復6時間の道のりをかけて見舞いに行き、色々とお話しするものの、母としては、夫に連れ戻しに来てもらいたい。と思っている様だった。

でも、父は、専門家に任せておくのが一番。と思い込んでいて、医師との面談以外は、行こうともしなかった。

その後2回転院。
私が足繁く通っても、同居していた夫と娘にはそっぽ向かれてしまっているので、もうすでに退院したとしても「居場所」がない。
私も自分の生活とお見舞いの両立は厳しくなり、夫にも義母の目にも明らかに心身ともにボロボロになっていく私を黙ってみているのも限界になり「家族がそっぽ向いているのに、ムニカがやっていることで状況が良い方に向かうとは思えない」と言われ、その通りだな。とお見舞いに行くのをやめました。

最後の老人ホーム


1度位は顔を見に行ったほうがいいかな・・・と、顔を見に行きました。

アイスを食べさせてあげました。
私だとわかったかな・・・

その1週間後に亡くなりました。

最後の荷物の引き上げ時、
「やっとわかる人が来てくれた。もう着られない洋服(痩せていったので)、ベルト(暴れないように抑えておくもの)も、そのまま(前の病院から)持ってきて、持ち帰ってもらえず、困っていたんですよ」と、施設の職員から言われました。

こういうご家庭だから、この様な最期になるんでしょうね・・・お気の毒。

と言われたような気がしました。

夫は言う

「それでも、娘(私)の成長を認め、本人に伝えられた、ということは、お母さんにとって、幸せな人生だったと思うよ。ムニカにとっても。」
※髪の毛を洗った場面のこと

自分の親は、きっと死ぬまで「(息子になんて)負けるもんか」とやっているんだろうな・・・

「子どもの成長の喜び」

を感じられないなんて

虚しい人生だよね~

・・・・・

私はどんな晩年を過ごすのだろうか…
  孫と触れ合えるのかな?

(1849文字)



サポートをいただきますととても嬉しくなります。いただいたサポートは、私の学びのアウトプットの原動力になります。