恥の本質

昨夜、必要に迫られていない場面で、自分の個人的な話をしすぎた。


その場にいるときから、居心地の悪さ、恥ずかしい感情、自責の感覚が沸いた。帰りも、夜中も、今朝も、今も、薄く続いている。


私にとってこの感覚は、子どものころから、大変におなじみのものだ。古くは3歳ごろに母親に戒められたことがこの原罪感の心当たりではあるが、その後、学校の帰り道、飲み会の帰り道、こうした感覚に陥っては、かなりの頻度で死にたくなっていた。


もちろん、黙っていれば、こういうことは起こらない。賢さを発揮した場面の私は、ずっと黙っていることができた。ある特定の条件下で私と付き合っていた人にとっては、私は寡黙で分別のあるミステリアスな人間であるはずだ。


それでも、賢さは私の全てでも常でもないため、どうしても、ゆるんでしまう。話してしまう。なんらかの場面で、私はうっかり自分の話をして、そして、自分にがっかりすることを繰り返して生きてきた。


去年から今年にかけて、この長く自分を痛めつけてきた感覚を、自分の中から取りだして眺めるというチャレンジをした。かなりの強烈なプロセスだったが、最も驚いたのは、この辛苦の本質は意外にも、不健全な自己承認欲求の発露ではなかったということだ。


長くなったので一回投稿。つづく。のか?

あなたに、かならず、いいことがあるよ