自由という不自由

自由であることが、一番の不自由なのかもしれないですね。

おっ!いいところに気づいたな!
という、後輩との会話。もちろん、前者が後輩であります。

「ウマ娘」のミスターシービーが「納得できない事はやらない、実は人一倍不器用なウマ娘」と紹介されていましたが、ミスターシービーはまわりから「自由人」と思われるような存在。

現実で似たようなことをやっているのが私です。会社であれどこであれ、納得のできない事はやらない。逆らう。
だから、一見すると自由気ままに見えるのですが、孤独と隣り合わせだったりして本人は(現実問題として)実は自由といえるか怪しかったりする。

そこが、フィクションと現実の違いです。
ルフィのようにふるまいたい人はいっぱいいるけど、あれはルフィの強さと「無秩序な世界」というフィクションベースの前提があるから成り立つ。
現実にできないからこそ、ああいう主人公に憧れるんですよね。

私がしんどい時、やっぱり「軸」がブレそうになるんですけど、だいたい精神がしんどい時は身体もしんどいんですよね。
6月に入って、書くことも特にないんで、何を書こうかなと思ってたんですけど、そうそう、上岡龍太郎さんが亡くなりました。

実はこっそり、彼の話芸を何度も聞き返して自分流にアレンジできないかな、とか参考にさせてもらってた一人だったのでちょっと寂しかった。
絶対に、「本人」にはなれない。私には私のテンポ、やり方、向き不向きがあって、様々な「名人」の技を盗んで今に至ります。

だから「コミュコミュの実のコミュ力人間」なんて最近は自分の事を評することもあるんですけど、言葉の力だけで人を引き寄せたり、一緒に行動しようとするように仕向けたりするのってこれ、なかなかの快感なんですよね。
自由である私、次は何をしたいんだろうか。日々、模索中の毎日です。

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