入祭唱 "Laetare Ierusalem"(グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ34)

 GRADUALE TRIPLEX (GT) pp. 108-109; GRADUALE NOVUM (GrN) I pp. 83-84.
 gregorien.infoの該当ページ

 昔も今も,四旬節第4主日に歌われる。
 冒頭 "Laetare"「喜べ(歓べ)」と歌われるこの主日は,四旬節のただなかにありながら,復活祭の喜びを少し先取りする性格を持っている。ちょうど,入祭唱 "Gaudete"(これも「喜べ」という意味)が歌われるアドヴェント第3主日が,降誕祭の喜びを先取りするものであるのと同じである。
アドヴェントも四旬節も,司祭が着る祭服の色は基本的に紫(悔悛を表す色)なのだが,この両主日のみはバラ色の祭服を着用してもよいことになっている。(ところで,「バラ色」と書いてふと,バッハのカンタータ第182番を連想した。この曲に用いられているコラールに,「私の魂は薔薇の上を歩む」という言葉が〔喜びを歌う文脈で〕出てくるのである。これは四旬節第4主日ではなく棕櫚の主日のためのカンタータだし,「私の魂が薔薇の上を歩む」理由はここではイエスの復活ではなく受難〔!〕となっているので,いろいろとずれてはいるのだが,とにかくこれを連想した。)
 冒頭の語 "Laetare" の部分の旋律は,復活徹夜祭のアレルヤ唱(GT p. 191; GrN I p. 159)の最後の部分の先取りである。単に復活祭(復活祭には復活徹夜祭とその後の日中ミサとの2つがある)の聖歌の先取りだというだけでなく,ほかならぬアレルヤ唱,しかも復活徹夜祭のそれを先取りしているというのが味わい深い。四旬節には,主日であろうが祭日であろうがアレルヤ唱が一切歌われない(アレルヤ唱に限らず,典礼全体で「アレルヤ〔ハレルヤ〕」という言葉が避けられる)からである。そういう時期を抜けてついに再び「アレルヤ(ハレルヤ)」と歌うことができるのが,復活徹夜祭なのである。やがて来る喜びを予告して四旬節の半ばにある者たちを励ます旋律として,これ以上のものはあるまい。

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

LAetare Ierusalem : et conventum facite omnes qui diligitis eam : gaudete cum laetitia, qui in tristitia fuistis : ut exsultetis, et satiemini ab uberibus consolationis vestrae/eius.
Ps. Laetatus sum in his quae dicta sunt mihi : in domum Domini ibimus.
【アンティフォナ】歓べ,エルサレムよ。集会を催せ,彼女(エルサレム)を尊び愛するすべての者たちよ。歓び喜べ,悲しみのうちにあった者たちよ。あなたたちが喜んで跳び上がりますように,あなたたちの慰めの乳房から/彼女(エルサレム)の慰めの乳房から飲んであなたたちが満ち足りますように。
【詩篇唱】私は歓んだ,こう言われて。「主の家に行こう。」

 アンティフォナの最後の語は,写本によって "vestrae/vestre"(あなたたちの)となっていたり "eius"(彼女の)となっていたりする。GTにネウマが書き写されているLaonランとEinsiedelnアインジーデルンとの2写本においては,前者で "vestre",後者で "eius" となっている。Antiphonale Missarum Sextuplexにまとめられている8-9世紀の写本(この箇所が載っているのは4写本)ではいずれも "vestrae/vestre"。

 アンティフォナの元テキストはイザヤ書第66章第10-11節だが,Vulgataと比べると同じようなことを違う語で表現している箇所が次々と出てくるため,Vulgata以前のさまざまなラテン語訳聖書テキスト(Vetus Latina)をもとにしているのかもしれない。Vetus Latinaは現在校訂版がだんだん出版されているところだが,イザヤ書の分は既に出ているので見てみたいところである。しかし手元にもすぐ行ける範囲の図書館にもないので,そのうち,うちの町の図書館が提供している遠隔貸出(というより取り寄せ貸出)サービスを(初めて)利用しようと思う。アンティフォナとイザヤ書との比較はそういうわけで後でこのページに追記することにする。そのときにはSNSでお知らせする。(なお,この作業は来年に回す可能性も大いにある。)
 詩篇唱は詩篇第121(一般的な聖書では122)篇第1節の引用で,ローマ詩篇書Psalterium RomanumともVulgata/ガリア詩篇書Psalterium Gallicanumとも完全に一致している。

【対訳,解説,考察】

【アンティフォナ】

Laetare Ierusalem :
歓べ,エルサレムよ。

et conventum facite omnes qui diligitis eam :
そして集会を催せ,彼女(エルサレム)を尊び愛するすべての者たちよ。
解説:
 
"qui" 以下は「彼女(エルサレム)を尊び愛する」を意味する関係詞節で,それが "omnes"(すべての者たちよ)にかかっている。呼びかけの対象なので,動詞 "diligitis" は2人称の形である。

gaudete cum laetitia, qui in tristitia fuistis :
歓び喜べ,悲しみのうちにあった者たちよ。
解説:
 
「歓び喜べ」と訳したところは,文字通りには「歓びをもって喜べ」。
 ここの "gaudete" も冒頭の "laetare" も「喜べ」という意味なのだが,辞書を引くと前者は「内面的に喜ぶ」,後者は「喜びを表す」という違いが一応あるようなので,それを汲んで「歓」と「喜」との漢字を使い分けてみた(今回は両方の動詞が一つのテキストに出てきたからそうしたが,ほかのテキストで動詞laetor, laetari〔>laetare〕が出てきたときに「歓」の字をわざわざ使うとは限らないことを断っておく)。
 "qui" 以下は関係詞節だが,関係代名詞の先行詞にあたるものは出ていない。「~という者たち」「~する者たち」と言いたいとき,英語ならば "those who" と,とりあえず "those" を置くところだが,ラテン語ではこういう漠然とした先行詞は省略でき,実際たいてい省略されている。

ut exsultetis, et satiemini ab uberibus consolationis vestrae/eius.
あなたたちが喜び跳び上がり,あなたたちの慰めの乳房から飲んで/彼女(エルサレム)の慰めの乳房から飲んで満ち足りますように。(祈願)
別訳:(……)満ち足りるように。(目的)
直訳:(……)乳房によって満ち足らされますように/満ち足らされるように。
解説:
 "vestrae"(「あなたたちの」)を採る場合,この語は "consolationis"(「慰めの」)にかかる。"eius"(「彼女の」)であれば "consolationis" にも "uberibus"(「乳房」)にもかかりうる。詳しくは逐語訳のところをごらんいただきたい。

【詩篇唱】
 
Laetatus sum in his quae dicta sunt mihi : 
私は歓んだ,こう言われて。
直訳:私は歓んだ,私に言われたこれら(のこと)について。
解説:
 "quae" 以下は "his"「これら(のこと)」を受ける関係詞節。

in domum Domini ibimus.
「主の家に行こう。」
解説:
 
「主の家」とはエルサレム神殿のこと。

【逐語訳】

Laetare 歓べ(よろこびを外に表せ)(動詞laetor, laetariの命令法・受動態の顔をした能動態・現在時制・2人称・単数の形)
● 対訳のところで述べた通り,この動詞は「よろこびを外に表す」ことを,後に出るgaudeo, gaudere (>gaudete) は「内面でよろこぶ」ことを表すが,この差異はここでは重要でない可能性も十分ある。よろこべ,よろこべと繰り返し書くにあたり,単に同じ語を繰り返すことを嫌ってこうしただけかもしれないということである。
 とはいえ,上述のようにここの旋律が復活徹夜祭のアレルヤ唱の先取りであることを思うならば,「よろこびを外に表す」というニュアンスを意識する意味もあるかもしれない。アレルヤ(ハレルヤ)とはもともと「主をほめたたえよ」という意味の語(ヘブライ語)だからである。

Ierusalem エルサレムよ
● 手元の2つの辞書のうち1つでは中性名詞とされ,もう1つ(教会ラテン語辞典)では中性または女性とされている。ここでは女性名詞扱いになっていることが,後で出てくる代名詞から分かる。

et(英:and)

conventum 集会を

facite 行え(動詞facio, facereの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)

omnes すべての者たちよ
● 全人類のことではなく,ある条件を満たす者「すべて」であり,その条件は次の関係詞節で示される。

qui(関係代名詞,男性・複数・主格)
● 男性形だが,話題を男性の人間に限っているわけではない。男性女性両方を指したいときには男性形を用いることになっているだけである。

diligitis
尊び愛する(動詞diligo, diligereの直説法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
● 呼びかけの対象である "omnes" を受ける関係代名詞を主語とする述語動詞なので,2人称の形をとっている(呼びかけというものは常に「あなた」に対するものである)。

eam 彼女を
● エルサレムを指す。

gaudete(内面で)喜べ(動詞gaudeo, gaudereの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
●「内面で」という点は今回は気にしなくてよいかもしれないということについては,上の "Laetare" のところで述べた。

cum laetitia 歓びをもって(cum:英with,laetitia:歓び〔奪格〕)

qui(関係代名詞,男性・複数・主格)
● 対訳のところで述べた通り,先行詞が省略されている。英語なら "those who" と書くところ。

in tristitia 悲しみのうちに(tristitia:悲しみ〔奪格〕)

fuistis あった(動詞sum, esse〔英語でいうbe動詞〕の直説法・能動態・完了時制・2人称・複数の形)
● ここも,呼びかけている対象を受ける関係代名詞を主語とする述語動詞なので,2人称の形をとっている。

ut(英:接続詞that / so that)
● さまざまな働きをする語だが,今回は「目的」あるいは「願望(祈願)」を表す文を導く接続詞であると考えられる。

exsultetis あなたたちが喜んで跳び上がる(ということ)(動詞exsulto, exsultareの接続法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
● 目的や願望(祈願)を表すut節では,述語動詞は接続法をとる。

et
(英:and)

satiemini あなたたちが満ち足らされる(ということ)(動詞satio, satiareの接続法受動態・現在時制・2人称・複数の形)

ab ~によって(前置詞)
● 受動態をとっている動詞 "satiemini" を補い,「何によって」満ち足らされるのかを示している。

uberibus 乳房(中性・複数・奪格)

consolationis 慰めの(女性・単数・属格)
● 直前の "uberibus" にかかる。

vestrae/eius
あなたたちの/彼女の
● ラテン語で「~の」ということを表現するとき,文法的にみて2つの場合がある。所有形容詞(所有限定詞。英語でいうmy, your, his, her, its, their)を用いる場合と,名詞の属格(敢えて英語でいえば「of + 名詞」)を用いる場合とである。
 ラテン語において,形容詞は,それがかかる名詞の性・数・格と同じ性・数・格をとる。これは所有形容詞でも同じである。したがって,たとえば「私の父が」であれば "pater meus"(pater:父が,meus:私の。いずれも男性・単数・主格の形)となり,「私の母を」であれば "matrem meam"(matrem:母を,meam:私の。いずれも女性・単数・対格の形)となるわけである。「~の」という意味だからといって,所有形容詞が属格をとるわけではないということに注意が必要である。
● 今さらながらこの説明をしたのは,ここの "vestrae/eius"「あなたたちの/彼女の」のすぐ前に2つの名詞 "uberibus"「乳房」(中性・複数・奪格) と "consolationis"「慰めの」(女性・単数・属格)とがあり,"vestrae" "eius" それぞれがどちらの名詞にかかりうるのかを考えるために必要だからである。
● まず "vestrae"「あなたたちの」だが,これは所有形容詞である。したがって,性・数・格において,この形容詞がかかる名詞に一致していなければならない。そしてこれは女性・単数・属格ではありうるが中性・複数・奪格ではありえない形なので,間違いなく "consolationis" にかかることになる。
● 次に "eius"「彼女の」は,代名詞の属格である。したがって,かかる名詞の性・数・格には何ら影響されないことになる。それゆえ,形の上では,どちらの名詞にかかるのかは決定できない。「彼女の慰めの」ととってもよいし,「彼女の乳房」ととってもよいことになる。

【詩篇唱】

Laetatus sum 私が歓んだ(動詞laetor, laetariの直説法・受動態の顔をした能動態・完了時制・1人称・単数の形)

in his これら(のこと)において,これら(のこと)について(his:これら〔のこと〕〔中性・複数・奪格〕)
●「これら(のこと)」が何であるかは,続く関係詞節で初めて明らかになる。
● "his" が中性である(したがって「人」ではなく「もの・こと」である)ことはこれだけでは決定できないが,次の関係詞節から分かる。

quae(関係代名詞,中性・複数・主格)
● 前の "his" を受ける。

dicta sunt
言われた(動詞dico, dicereの直説法・受動態・完了時制・3人称・複数の形)
● この過去受動分詞 "dicta" が一義的に中性・複数であることにより,主語 "quae" が中性・複数であることが分かり,したがってその先行詞 "his" も中性であることが分かる。

mihi 私に

in domum Domini
主の家へ(domum:家〔対格〕,Domini:主の)
●「in + 対格」は方向を示す(英:into)。

ibimus(私たちが)行こう(動詞eo, ireの直説法・能動態・未来時制・1人称・複数の形)
● 意志未来。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?