入祭唱 "Nos autem gloriari oportet" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ72)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 162–163; GRADUALE NOVUM I pp. 128–129.
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更新履歴
2023年10月18日
第1文と関係があるかもしれない聖書箇所をもう一つ挙げた (対訳の部)。
2023年6月20日
「教会の典礼における使用機会」の部において,Ordo Cantus Missaeの年代を修正し (1970→1972),また,ほかに細かいことを少し書き加えた。
2023年4月3~5日 (日本時間4~6日)
全体訳における第1文の訳を変更し,解説も書きかえた (対訳の部)。これまで掲げていた訳が誤っていたわけではない。
「教会の典礼における使用機会」の部中,この入祭唱が聖木曜日の晩に歌われるようになった経緯のところに加筆した。
対訳の部の第1文のところに,この文から連想されるある現代史の話を書き加えた。
2023年3月14日 (日本時間15日)
投稿
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版Ordo Cantus Missae (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXおよびGRADUALE NOVUMはこれに従っている) では,聖週間の火曜日,主の晩餐の夕べのミサ (聖木曜日の晩),十字架の掲揚 (十字架称賛) の祝日 (9月14日) に割り当てられている。
また,詩篇唱は今回扱うものとそれぞれ異なるものの,アンティフォナに関しては,アッシジの聖フランチェスコの記念日 (10月4日) やアンティオキアの聖イグナティオスの記念日 (10月17日) にもこの入祭唱が割り当てられている。それぞれ,典礼改革以前の詩篇唱がそのまま用いられるようになっている。
さらに,典礼暦関係なしに,「聖なる十字架の神秘について」の随意ミサでも用いられることになっている。
(「聖週間」「聖木曜日」「祝日」「記念日」とは何であるかについてはこちら。)
2002年版ミサ典書では,上記のうち,聖週間の火曜日・アッシジの聖フランチェスコの記念日・アンティオキアの聖イグナティオスの記念日には別の入祭唱が指定されている。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版Missale Romanum (現在,伝統的な形で,すなわち第2バチカン公会議後の典礼改革が行われる前の形=「特別形式」でミサを挙行する際に用いられる典礼書) では,この入祭唱は聖週間の火曜日,主の晩餐の夕べの盛儀ミサ (聖木曜日の晩),聖十字架の掲揚の祝日 (9月14日) に割り当てられているほか,「聖十字架について」の随意ミサでも用いられることになっている。ほかに,地域によっては祝われる「聖十字架の発見」の祝日 (5月3日) にも割り当てられている。
こちらではアッシジの聖フランチェスコやアンティオキアの聖イグナティオスの日には用いられないわけだが,これらの日のミサの入祭唱は同じ聖書箇所をもととするものになっている。
以上のさまざまな使用機会のうち,最も重要なものは聖木曜日の晩であるが,もともとはこのミサには入祭唱がなく (そればかりかミサの前半部である「ことばの典礼」部分がなく),あるときから聖週間の火曜日のそれを改めて歌うようになった結果が現在の形だそうである (参考:Volksmissale, p. 380 T)。いつから聖木曜日の晩にも歌われるようになったかだが,AMSにまとめられているすべての聖歌書 (そもそも一切の入祭唱を含まない「モンツァのカンタトリウム」を除く) がこの入祭唱を聖木曜日の晩のところに記しているので,遅くとも8~9世紀にはもうこうなっていたことが分かる。
聖木曜日の晩のミサで朗読される福音書箇所はイエスが弟子たちの足を洗ったことについての箇所 (ヨハネ13:1–15) だが,これも聖週間の火曜日から持ってきたものである (8世紀)。それからしばらくはそういうわけでヨハネ13:1–15が2回読まれていたのだが,そのうちに火曜日には受難物語 (マルコ) が朗読されるようになってゆき (9世紀),洗足の話はすっかり聖木曜日のものとして定着するに至った。(参考:Feiern im Rhythmus der Zeit I, pp. 101–104。)
聖十字架の発見/掲揚の各祝日については,AMSでは1つないし2つの聖歌書にしか (祝日そのものが) 記されていない。
【聖木曜日の晩のミサの入祭唱として歌われることの意味について】
一連の使用機会からは,この入祭唱がイエス・キリストの受難と,その中でも特に「十字架」という要素と強い関係があるらしいことがうかがえ,実際,内容的にもそうである。
ただ「聖木曜日の晩」はその点どうなのかとお思いの方もいらっしゃるかもしれない。聖木曜日の晩といえば最後の晩餐や洗足式であって,十字架は聖金曜日ではないのかと。それはたしかにそうなのだが,聖木曜日の晩から復活の主日まで (過越の聖なる三日間) は一続きの典礼として祝われるので,聖木曜日の晩の入祭唱はこの三日間全体の序曲とみることができ,したがって,その中心テーマが十字架であること,さらには「復活」(「われわれの」ではあるが) という語までも現れていることは何らおかしくないし,むしろふさわしいことだといえるのである (オペラの序曲がその劇全体の内容を暗示するのと似ている)。あと,聖金曜日の典礼には入祭唱がない (沈黙のうちに始まるため) ので,過越の聖なる三日間中に入祭唱で十字架に言及するとしたらこのタイミングしかない,というのもある。
【テキストと全体訳,元テキストとの比較 (詩篇唱)】
Nos autem gloriari oportet in cruce Domini nostri Iesu Christi: in quo est salus, vita, et resurrectio nostra: per quem salvati, et liberati sumus.
Ps. [1] Deus misereatur nostri, et benedicat nobis: illuminet vultum suum super nos, et misereatur nostri. Ant.
[Ps.] 2. Ut cognoscamus in terra viam tuam: in omnibus gentibus salutare tuum. Ant.
[Ps.] 3. Confiteantur tibi populi, Deus: confiteantur tibi populi omnes. Ant.
【アンティフォナ】しかし私たちは,私たちの主イエス・キリストの十字架に拠って誇るべきである。この方に私たちの救いと生命と復活とがあるのだし,この方を通して私たちは救われ解放されたのだ。
【詩篇唱1】神が私たちを憐れみ,私たちを祝福してくださいますように。彼が御顔を私たちの上に輝かし,私たちを憐れんでくださいますように。(アンティフォナを繰り返す)
【詩篇唱2】私たちが地にあってあなたの道を見分けるために,すべての異邦人たちの間であなたの救いを見分けるために。(アンティフォナを繰り返す)
【詩篇唱3】あなたに諸々の民が (讃美を/感謝を/信仰を) 告白しますように,神よ。あなたにすべての民が (讃美を/感謝を/信仰を) 告白しますように。(アンティフォナを繰り返す)
アンティフォナのテキストはかなり自由に作られている。普段ならここで元テキストとの比較を行うのだが,このアンティフォナは比較したい聖書箇所が一文ごとに大きく異なる (互いに離れた箇所である) ため,一文ずつ順に見てゆく部すなわち対訳の部で比較を行うほうがよいと判断し,その通りにする。
詩篇唱のほうについては簡単なのでここでまとめて記す。出典は詩篇第66 (ヘブライ語聖書では第67) 篇第2–4節であり,テキストはすべてVulgata=ガリア詩篇書のそれに一致している。ローマ詩篇書もほとんど同じだが,異なるのは,詩篇唱1 (もとの詩篇の第2節) の "benedicat nobis (与格)" が "benedicat nos (対格)" となっていること,"misereatur nostri (属格)" が "misereatur nobis (与格)" なっていることの2点である。いずれも動詞の目的語のとる格についての感覚の違いからきたものにすぎず,内容的な相違はないと考えられる。(「Vulgata=ガリア詩篇書」「ローマ詩篇書」とは何であるかについてはこちら)
GRADUALE ROMANUM/TRIPLEXにおいて,いつもは1節しか載っていないのに3節載っているのがなぜなのかは,私には分からない。なお,この点に関して今回の入祭唱が唯一の例外というわけではない。GRADUALE NOVUMでは,いつものように1節だけ掲げられている (第2節)。
【対訳,元テキストとの比較 (アンティフォナ)】
Nos autem gloriari oportet in cruce Domini nostri Iesu Christi:
しかし私たちは,私たちの主イエス・キリストの十字架に拠って誇るべきである。
別訳:しかし私たちには,(……) 誇ることがふさわしい。
別訳:しかし私たちには,(……) 誇ることが適切である。
別訳:しかし私たちには,(……) 誇ることが必要である。
直訳:しかし,私たちが主イエス・キリストの十字架に拠って誇る (という) ことがあるべきである/ふさわしい/適切である/必要である。
「あるべきである/ふさわしい/適切である/必要である」と訳される "oportet" は非人称動詞で,何が「あるべきである/ふさわしい (……)」のかは,この動詞の目的語で示される。そしてその目的語というのが "Nos […] gloriari (私たちが誇る [という] こと)" だというわけである。
「私たちが誇る (という) こと」というと,英語ならばthat節を用いて表しそうな内容であり,ラテン語でもそのような形にすることもできる。しかし同じことを「名詞の対格 + 動詞の不定法」で表すことができ,ここではそれが用いられている。つまりこの "Nos (私たち)" は対格,"gloriari (誇る)" は不定法である。AMSを見ると,"Nos" (対格) でなく "Nobis" (与格) としている聖歌書もある。
まず間違いなく,ガラテヤ人への手紙 (パウロ書簡の一つ) 第6章第14節の前半に基づいていると考えられる (GRADUALE TRIPLEXなどもこの箇所を挙げている)。
「しかし」とあるのは,この聖書箇所では,直前の文「実際,割礼のある者自身,律法を守っていないのに,あなたがたに割礼を望んでいるのは,あなたがたの肉を誇りたいからです」(同章第13節,聖書協会共同訳) を受けてのものである。これは,「割礼 (要するにユダヤ教の入信式) を受けなければキリスト者になったことにならない」と言ってガラテヤの信徒たちを惑わしていた人々を念頭に置いて言われた言葉である。
だが,割礼が必要か否かというのはパウロの時代には大問題だったろうが,今のわれわれにも中世の人々にも関係ない話である。この聖書箇所を自分に引きつけて読むとしたら,「割礼」を「律法」の象徴と考え,掟を守ることや自分の道徳的正しさを誇る (あるいはそれを頼りにする) のではなく,十字架 (神の恵み) を誇る (頼りにする) のだ,と考えるのがよくありそうな読み方である。
とはいえ,この入祭唱アンティフォナのテキストには割礼の話は含まれていない。それでも「しかし」という接続詞を省かず残してあることをどう考えたらよいだろうか。
もちろん,もとのガラテヤ書を念頭に置き,たとえば上述のように考えるのもよい。が,せっかく (?)「しかし」の前が書かれていないのだから,しかもこのアンティフォナのテキストはガラテヤ書そのままではないのだから,自由に考えてもよいのではないかと思う。何に対して「しかし私たちは」と宣言するか。このように考えるとき興味深いと私が思うのは,コリント人への第1の手紙 (これもパウロ書簡) 第1章に見られる次の3つの言葉である。世の中からはイエス・キリストの十字架 (を頼りにして生きること) は馬鹿げたこと・理解できないことと思われているかもしれないが,「私たち」はその十字架によってこそ生きるのだ,という意味合いの「しかし」だと考えるのである。
ここで,もとのガラテヤ書の「私には」が入祭唱では「私たち (に) は」と変えられていることに注意したい。これにより,入祭唱アンティフォナのテキストは,個人の話ではなく教会/キリスト者全体のアイデンティティが語られるテキストになっているといえる。このことがまた,「しかし」を上記のように捉えることはこの入祭唱アンティフォナによく合っているのではないかと,私には思わせるのである。
関連する現代史の話を一つ。ナチス時代の1936年,ドイツ西部のOldenburger Münsterlandという地域で,国や地方自治体に属するすべての場から宗教的シンボル,特に十字架を取り除くことが命ぜられた。その対象にはカトリック学校も含まれていた。人々はこれに怒り,あの時代にありながら大規模な抗議行動を起こし,ついには学校に十字架を残すことを当局に認めさせた。さらにそれだけでは満足せず,学校で人種理論などナチズムに基づく教育を行うことをやめるよう要求して抗議行動は継続・激化し,11人が逮捕され,うち1人は強制収容所送りとなった。(参考:ドイツ語版Wikipediaの "Kreuzkampf" の項。)
特殊な形ではあるが,これは実行に移された "Nos autem gloriari oportet in cruce Domini nostri Iesu Christi" であるともいえ,まことに力強く勇敢な "autem (しかし)" であったといえるだろう。関連しているかもしれない聖書箇所をもう一つ挙げる。まさに "nos autem" という言葉が出てくる。
in quo est salus, vita, et resurrectio nostra:
この方 (の中) に私たちの救いと生命と復活とがある。
ヨハネによる福音書第11章第25節をもとにしていることが考えられる (参考:Ruedi Stäuble氏作成の資料) が,決定的ではない。
これはラザロの復活の話 (ヨハネ11:1–44) の一部であり,「彼女」というのはラザロの姉妹の一人マルタである。ラザロを復活させるにあたり,それができると信じるかどうか,イエスがマルタに問いかける前に言った言葉がこれである。つまり,ここで言われている「復活」や「生命」はイエスひとりの話ではなく,ラザロという普通の人に関係するものであるから,同じく普通の人であるわれわれにも関係する話だということになる。その意味で,入祭唱アンティフォナの "nostra (私たちの)" という語をもこの福音書箇所に基づくものと考えることも可能だろう。
per quem salvati, et liberati sumus.
この方を通して私たちは救われ解放された。
テモテへの第2の手紙第4章18節をもとにしている可能性がある (参考:Stäuble氏による上掲の資料) が,これもあまりはっきりしない。
「この方 (イエス・キリスト) を通して」といえば,ほかには,ローマ人への手紙第5章第12–21節が思い浮かぶ (コリント人への第1の手紙第15章第21節にも同内容の言葉あり)。
何にせよ,「イエス・キリストを通して私たちは救われ解放された」というキリスト教そのもののような内容なので,特に聖書のどこをもとにしたというわけではないのかもしれない。
【対訳 (詩篇唱1)】
Deus misereatur nostri, et benedicat nobis:
神が私たちを憐れんでくださいますように,また,私たちを祝福してくださいますように。
illuminet vultum suum super nos, et misereatur nostri.
彼が御顔を私たちの上に輝かし,私たちを憐れんでくださいますように。
【対訳 (詩篇唱2)】
Ut cognoscamus in terra viam tuam:
私たちが地においてあなたの道を見分けるために,
in omnibus gentibus salutare tuum.
すべての異邦人たちの間であなたの救いを (見分けるために)。
【対訳 (詩篇唱3)】
Confiteantur tibi populi, Deus:
あなたに諸々の民が (信仰を/感謝を/讃美を) 告白しますように,神よ。
confiteantur tibi populi omnes.
あなたにすべての民が (信仰を/感謝を/讃美を) 告白しますように。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
nos 私たちが (対格!!)
対訳のところで説明した通り,「私たちが誇ること」というのを「名詞の対格 + 動詞の不定法」という形で表す中での「名詞の対格」に当たるのがこれであり,「私たちが」なのに対格なのはそのためである。
autem しかし
gloriari 誇ること (動詞glorior, gloriariの不定法・受動態の顔をした能動態・現在時制の形)
oportet ふさわしい,適切である,必要である,そうあるべきだ (非人称動詞oportet, oportereの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
in ~において,~によって
cruce 十字架 (奪格)
Domini nostri 私たちの主の (Domini:主の,nostri:私たちの)
直前の "cruce" にかかる。
Iesu Christi イエス・キリストの
直前の "Domini nostri" と同格で,同じく "cruce" にかかっている。
in quo (英:in whom) (quo:[関係代名詞,男性・単数・奪格])
直前の "Domini nostri Iesu Christi" を受ける。"cruce" ではない (こちらは女性名詞なので)。
est ある (動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
salus 救いが
vita 生命が
et (英:and)
resurrectio 復活が
nostra 私たちの
"salus" "vita" "resurrectio" すべてにかかっていると考えるのが自然であろう。
per quem (英:through whom) (per:~を通して,quem:[関係代名詞,男性・単数・対格])
この関係代名詞も "Domini nostri Iesu Christi" を受ける。先ほどと同じ理由で "cruce" ではない。
salvati [sumus] 私たちが救われた (動詞salvo, salvareの直説法・受動態・完了時制・1人称・男性・複数の形)
"salvati" はすぐ後の "liberati" と並列されており,いずれも完了受動分詞である。この両方に "sumus" (英語でいうbe動詞sum, esseの直説法・能動態・現在時制・1人称・複数の形) が関わっている。ラテン語では,受動態・完了時制は「完了受動分詞 + 動詞sum, esseの現在時制」で表すのである。
et (英:and)
liberati sumus 私たちが自由にされた,私たちが解放された (動詞libero, liberareの直説法・受動態・完了時制・1人称・男性・複数の形)
【詩篇唱1】
Deus 神が
misereatur 憐れんでくださいますように (動詞misereor, misereriの接続法・受動態の顔をした能動態・現在時制・3人称・単数の形)
nostri 私たちを (属格)
動詞misereor, misereriが属格目的語 (与格目的語のこともあるが) をとる性質を持っているため,属格になっている。
et (英:and)
benedicat 祝福してくださいますように (動詞benedico, benedicereの接続法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
nobis 私たちを (与格)
動詞benedico, benedicereは与格目的語をとることも対格目的語をとることもあり,今回は与格になっている。
illuminet 明るくしてくださいますように,光を当てて見えるようにしてくださいますように (動詞illumino, illuminareの接続法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
vultum suum 自らの顔を (vultum:顔を,suum:自らの)
super nos 私たちの上で (super:~の上で,nos:私たち [対格])
et (英:and)
misereatur nostri (同上)
【詩篇唱2】
ut ~ために (英:so that, in order that) (接続詞)
cognoscamus 私たちが認識する,見分ける,知覚する,(知らなかった対象を) 知るようになる (動詞cognosco, cognoscereの接続法・能動態・現在時制・1人称・複数の形)
目的を表すut節の述語動詞には接続法を用いることになっている。
in terra 地上において,地において (terra:地 [奪格])
viam tuam あなたの道を (viam:道を,tuam:あなたの)
in ~の間で (英:among)
omnibus gentibus すべての異邦の民 (複数・奪格) (omnibus:すべての,gentibus:民族,[神の民イスラエルの対概念としての] 異邦人,諸国の民)
salutare tuum あなたの救いを (salutare:救いを,tuum:あなたの)
【詩篇唱3】
confiteantur 告白しますように,感謝しますように,讃美しますように (動詞confiteor, confiteriの接続法・受動態の顔をした能動態・現在時制・3人称・複数の形)
tibi あなたに
populi 民 (複数) が
Deus 神よ
confiteantur tibi (同上)
populi omnes すべての民 (複数) が (omnes:すべての)