拝領唱 "Qui biberit aquam" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ110)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 99; GRADUALE NOVUM I pp. 81–82, II p. 51.
gregorien.info内のこの聖歌のページ
GRADUALE ROMANUM (1974) / TRIPLEXの上記ページには,この拝領唱について2つの旋律が載っている。旋律が2つあるというだけでなく,よく見るとテキストも少し異なっている。
以下,便宜上,ここで上に印刷されているほうを「第1旋律」,下に印刷されているほうを「第2旋律」と呼ぶ (テキストも少し異なっている以上,十分に適切な言い方ではないかもしれないが)。
GRADUALE TRIPLEXでは第2旋律においてだけ四線譜の上下にネウマが記されていることから分かるように,第1旋律より第2旋律のほうが古くからあると考えられる。
GRADUALE NOVUMでは,第I巻に第2旋律が,第II巻に第1旋律が載っている。
第2旋律は一部の地域では聖務日課 (それも同じ日の) でも用いられていたことが,antiphonale synopticumを見ると分かる。
同じ日に聖務日課とミサとで同じ旋律が現れるのを嫌って,あるとき拝領唱専用バージョンとして第1旋律が作られたのではないか,と私は推測する。昔のGRADUALE ROMANUM (1908年版や1961年版) には第1旋律しか載っていないことから,ますますそう思う。
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版ORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,四旬節第3主日 (福音書としてサマリアの女の話 [ヨハネ第4章] が朗読される場合) に割り当てられている。この福音書箇所が読まれるのは基本的にはA年だが,その年の復活徹夜祭に洗礼を受けることになっている人がいて,その人のため「洗礼志願者のための典礼」を含むミサを行う場合,A年でなくとも朗読してよいことになっている。
(「四旬節」「A年」など教会暦の用語についてはこちら。)
2002年版ミサ典書での使用機会も同じである (PDF内で検索をかけて調べた限りでは)。テキストは第1旋律のそれになっている。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版ミサ典書では,PDF内で検索をかけて調べた限りでは,この拝領唱は四旬節第3主日後の金曜日に割り当てられている。テキストは第1旋律のそれになっている。
AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書でも使用機会は同様だが,テキストは第2旋律のそれになっている。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
【第1旋律】
Qui biberit aquam, quam ego dabo ei, dicit Dominus, fiet in eo fons aquae salientis in vitam aeternam.
「"私が" 与えることになる水を飲む人,」と主は仰せになる, 「その人の中でその水は,永遠の生命へと噴き出る水の泉となるでしょう。」
【第2旋律】
Qui biberit aquam, quam ego do, dicit Dominus Samaritanae, fiet in eo fons aquae salientis in vitam aeternam.
「"私が" 与える水を飲む人,」と主はサマリアの女に仰せになる, 「その人の中でその水は,永遠の生命へと噴き出る水の泉となるでしょう。」
こなれた訳文ではないが,なるべく原文に忠実にしようと私なりに試みたところこうなった。
原文に忠実にしようと試みたと書いたが,ほかの解釈も考えられるので (言われていることが大きく変わるわけではないが),対訳・逐語訳の部もお読みいただきたい。
ヨハネによる福音書第4章第13–14節が用いられているが,いくぶん短くまとめられている。イエスがユダヤからガリラヤへの帰り,両地域の間にあるサマリアを通過する途上井戸のほとりで休んでいるとき,水をくみにやってきた女と問答があった。その中でイエスが語った言葉の一部である。
なお,福音書のギリシャ語原文では「井戸」にあたる語は「泉」と同一であり,今回扱うイエスの言葉の伏線になっているといえるだろう。
もとの聖書テキストを次にVulgataで示す。太字で強調した語句は,今回の拝領唱に対応する部分である。本来は第1旋律・第2旋律それぞれのテキストと比較すべきところだろうが,それほど違いが大きくないので煩雑を避けるためまとめて比較する。つまり,少なくとも一方のテキストに入っている要素に対応する語句であれば太字強調する。
拝領唱が福音書テキストと違うところのうち,最も目立つのは「この水 (井戸の水)」に関する言葉がすべて省略されていることである。これは話の取っ掛かりにすぎず,本題はそれとの対比で語られる「私が与えることになる水」なので削られたものと考えられる。
ほかには次のような相違がある。
「イエス」が「主 (Dominus)」になっている。
これは拝領唱ではよくあることだという感覚があったので,逆に「イエス」のままになっているケースはあるだろうかと思ってgregorien.infoで "Iesus" をキーワードにして検索をかけたところ,なんと (拝領唱以外も含め,このサイトに登録されているグレゴリオ聖歌全体の中で) 1件もヒットしなかった。"Iesu" や "Iesum",さらに念のためIをJに替えたものでも試してみたが,やはり0件ヒットであった。畏れ多いと感じたのか何なのか,事情は分からないが,どうやら典礼歌でイエスの名をそのまま出すのは避ける感覚・考え方があったようである。「彼女に」が「サマリアの女に」となっている。
もとの福音書ではもっと前に登場しているため代名詞で指されているサマリアの女だが,この部分だけ切り取って歌うときに「彼女」では誰だか分からないので明示しているもの。「仰せになった (dixit)」が「仰せになる (dicit)」に変えられている (完了時制→現在時制)。
もとになったラテン語聖書テキストの問題かと思い,BREPOLiSのデータベースでVetus Latina (Vulgataより前の諸々のラテン語訳聖書テキスト) をざっと見てみた (量が多かったこともありあまり丁寧には見ていない) が,"dixit" ばかりだった。それもそのはずで,もとのギリシャ語では直説法・アオリストという,過去の一回的なできごとを述べる形 (物語文における一般的な形) が用いられているのである。
これは拝領唱とはいえ物語文の一部を取ってきたものには違いない。物語文においては臨場感ある叙述のために敢えて現在時制を用いることがあり (歴史的現在),それをここでも採用しただけのことだと言おうと思えば言えるだろう。しかし,福音書テキストでは完了時制であるものがわざわざ現在時制に直されているということを考えると,やはり,ここで語られているイエスの言葉の「現在性」を重く見たほうがよい可能性がある。
イエスの与える救いが洗礼や聖体という形で (あるいは秘跡という形を通す通さないにかかわらず,とにかく聖霊によって) 今ここにあるものとなっていることを示すために,このような変更が行われたのかもしれない。ただし,この件に関しては別の考え方もできる。そもそも原文の "Iesus … dixit" をもとにして "dicit Dominus" という言葉を置いたのではなくて,原文関係なしに "dicit Dominus" を挿入しただけだ,と考えるのである。こう考えるならば, 「完了時制をわざわざ現在時制に変えた」というようにことさら重大視はしなくともよいだろう。とにかく現在時制が選択されたということには変わりないが。
第2旋律に限り,イエスの言葉の「現在性」を強調する要素がもう一つある。「与えることになる (dabo)」が「与える (do)」に変えられているのである (未来時制→現在時制)。
サマリアの女の話の時点ではイエスがまだ受難・復活しておらず,したがって聖霊はまだ降っていなかったので未来時制なのだが,この拝領唱が歌われるときにはそれらはすべて既に成っており,イエスはまさに今「水」を与えることができるので現在時制が選択されたのだ,と考えることが可能である。
【対訳・逐語訳 (第1旋律)】
Qui biberit aquam, quam ego dabo ei,
「"私が" 与えることになる水を飲む (ことになる) 人,」
直訳1:"私が" その人に与えることになる水を (主節 ["fiet" 以下] の時点で) 飲み終えている人,
直訳2:"私が" その人に与えることになる水を (主節 ["fiet" 以下] より前の時点で) 飲む人,
ラテン語では (ギリシャ語でも) いちいち出さなくてよい (ので,出されるときには強調の意図があることが多い) 一人称代名詞 "ego" がここで出されているのはなぜなのかは,もとの福音書に戻って考えると理解できると思う。
既に示したように,もとの福音書では「この水 (井戸の水) を飲む人は再び渇くが,私が与える水を飲む人は永遠に渇かない」という対比構造になっている。いわば井戸が与える水vs「私」(イエス) が与える水ということであるから,対比ポイントは「井戸」/「私」にほかならず,それで「私」が強調されているのだろう。というわけでここの「私が」を強調することは (この拝領唱内でのことにとどまらず,そもそもキリスト教の立場で考えると) 重要だと判断したので,訳文にもそれを反映させようと思った。しかし, 「この私が」あるいは「ほかならぬ私が」などとイエスに語らせるのも違うと感じ,ちょっと反則かもしれないが引用符をつけて強調を示すという手を使うことにした。
dicit Dominus,
と主は仰せになる,
fiet in eo fons aquae salientis in vitam aeternam.
「その人の中で,それ (=「"私が" その人に与えることになる水」) は永遠の生命へと噴き出る水の泉になるでしょう。」
より平明な解釈 (もとの福音書は無視):「その人の中に,永遠の生命へと噴き出る水の泉ができるでしょう。」
前のqui節を受けている。主節 (この部分) とqui節とをつなぐ役目を果たしているのは "in eo" で,これが主節の最初ではなく少し後に置かれているので,つながりが少し分かりづらくなっている。
(以下の説明はかえってややこしいかもしれないので,読まないのもよさそう。) どう分かりづらいかというと,今回のような "Qui … , (以下主節) …" という形のとき,qui節を受ける代名詞が主節にない場合,qui節が主節の中で主語の働きをするのが普通なので,主節の最初に "fiet" という述語動詞があるのを見た瞬間,主語はqui節であるように見えてしまうのである。ところが実際には,qui節を受ける代名詞 "eo" が少し遅れて現れ,真の主語はほかにあることが分かる。
しかもその真の主語がまた分かりづらいのだが,それについては次項で述べる。述語動詞 "fiet" が3人称単数形であり,単数・主格の名詞 "fons" があるので,この一文だけ読むと "fons" が主語かと思ってしまうし,しかも,実際そう読んだところで文法的にも意味的にも問題ない。
それにもかかわらず基本的にはこの解釈を採らず,"fons" は補語として扱うことにしたのは,もとの福音書テキストに基づく判断である。既に示したように,福音書のほうではここにあたる部分で「私が与えることになる水」が主語であることが明示されているのである。とはいえこの拝領唱のテキストを読んだり聞いたりするとき,直感的にそういう意味を受け取るのは難しいのではないかと思う。そこで,"fons" を主語と取った場合の訳を「より平明な解釈」として掲げておいた。
【対訳・逐語訳 (第2旋律)】
画面上で行ったり来たりして読むのは不便だと思うので,第1旋律のところに書いた事項も省略せず書く。
Qui biberit aquam, quam ego do,
「"私が" 与える水を飲む (ことになる) 人,」
直訳1:"私が" 与える水を (主節 ["fiet" 以下] の時点で) 飲み終えている人,
直訳2:"私が" 与える水を (主節 ["fiet" 以下] より前の時点で) 飲む人,
ラテン語では (ギリシャ語でも) いちいち出さなくてよい (ので,出されるときには強調の意図があることが多い) 一人称代名詞 "ego" がここで出されているのはなぜなのかは,もとの福音書に戻って考えると理解できると思う。
既に示したように,もとの福音書では「この水 (井戸の水) を飲む人は再び渇くが,私が与える水を飲む人は永遠に渇かない」という対比構造になっている。いわば井戸が与える水vs「私」(イエス) が与える水ということであるから,対比ポイントは「井戸」/「私」にほかならず,それで「私」が強調されているのだろう。というわけでここの「私が」を強調することは (この拝領唱内でのことにとどまらず,そもそもキリスト教の立場で考えると) 重要だと判断したので,訳文にもそれを反映させようと思った。しかし, 「この私が」あるいは「ほかならぬ私が」などとイエスに語らせるのも違うと感じ,ちょっと反則かもしれないが引用符をつけて強調を示すという手を使うことにした。
dicit Dominus Samaritanae,
と主はサマリアの女に仰せになる,
fiet in eo fons aquae salientis in vitam aeternam.
「その人の中で,それ (=「"私が" 与える水」) は永遠の生命へと噴き出る水の泉になるでしょう。」
より平明な解釈 (もとの福音書は無視):「その人の中に,永遠の生命へと噴き出る水の泉ができるでしょう。」
前のqui節を受けている。主節 (この部分) とqui節とをつなぐ役目を果たしているのは "in eo" で,これが主節の最初ではなく少し後に置かれているので,つながりが少し分かりづらくなっている。
(以下の説明はかえってややこしいかもしれないので,読まないのもよさそう。) どう分かりづらいかというと,今回のような "Qui … , (以下主節) …" という形のとき,qui節を受ける代名詞が主節にない場合,qui節が主節の中で主語の働きをするのが普通なので,主節の最初に "fiet" という述語動詞があるのを見た瞬間,主語はqui節であるように見えてしまうのである。ところが実際には,qui節を受ける代名詞 "eo" が少し遅れて現れ,真の主語はほかにあることが分かる。
しかもその真の主語がまた分かりづらいのだが,それについては次項で述べる。述語動詞 "fiet" が3人称単数形であり,単数・主格の名詞 "fons" があるので,この一文だけ読むと "fons" が主語かと思ってしまうし,しかも,実際そう読んだところで文法的にも意味的にも問題ない。
それにもかかわらず基本的にはこの解釈を採らず,"fons" は補語として扱うことにしたのは,もとの福音書テキストに基づく判断である。既に示したように,福音書のほうではここにあたる部分で「私が与えることになる水」が主語であることが明示されているのである。とはいえこの拝領唱のテキストを読んだり聞いたりするとき,直感的にそういう意味を受け取るのは難しいのではないかと思う。そこで,"fons" を主語と取った場合の訳を「より平明な解釈」として掲げておいた。
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