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アンティフォナ "O Radix Iesse" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ64)

ANTIPHONALE MONASTICUM I (2005) pp. 49–50; ANTIPHONALE MONASTICUM (1934) p. 209; LIBER USUALIS p. 341.
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 3番めのオー・アンティフォナ (O-Antiphona) で,12月19日に歌われる。
 オー・アンティフォナ全般についての解説,各アンティフォナの全訳と関連聖書箇所はカトリック中央協議会のサイトにある。最重要の基本事項だけ繰り返すと,オー・アンティフォナにおいてさまざまな言葉 (今回なら「エッサイの根」) で呼びかけられ,「来てください」と願われているのは,イエス・キリストである
 

【テキストと全体訳】

O Radix Iesse, qui stas in signum populorum, super quem continebunt reges os suum, quem gentes deprecabuntur: veni ad liberandum nos, iam noli tardare.
おおエッサイの根よ,諸々の民へのしるしとして立つ方,その前には王たちが口を閉じて開かないであろう方,諸国の民が乞い求めるであろう方よ。来てください,私たちを解放するために。もうこれ以上ためらわないでください。

 

【対訳】

O Radix Iesse,
おおエッサイの根 (切り株) よ,

  •  エッサイはダビデ王の父の名。

  •  gregorien.infoのドイツ語版は「エッサイの根 (から出た芽) よ」と言葉を補って訳しているのだが,これはイザヤ書第11章第1節を見る限り,イエス・キリストを表しているのは「根 (切り株)」自体ではなくそこから出た芽だといえるからであろう。「エッサイの根 (切り株)」は滅んでしまったダビデ王朝の比喩であり,しかしそのダビデの子孫から王が生まれるということが「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる」(イザヤ書第11章第1–2節,聖書協会共同訳) と表現されているのである (参考:大田原キリスト教会のこの聖書箇所についての説教)。

  •  しかし同書同章第10節には「エッサイの根がもろもろの民の旗印として立つ。/国々は彼を求め/彼のとどまるところは栄光に輝く」(聖書協会共同訳) とあり,「エッサイの根」自体の栄光が語られている。そして,この後をお読みになればすぐ明らかになるように,今回のアンティフォナが直接もとにしているのはこの第10節である。それで冒頭の呼びかけも単に「エッサイの根よ」となっているのだろう。

  •  といっても,これはやはり「芽」「若枝」(第1節) の出現により「エッサイの根」(ダビデ王朝,あるいはそれが予型となっているところのメシアの支配) も栄光を回復するという話であって,イエス・キリスト個人を指すのはあくまで「芽」「若枝」なのではないかと私には思われてならず,つまりオー・アンティフォナで「エッサイの根」自体に呼びかけているのは実はおかしいのではと思えてくるのだが,どうなのだろうか。
     ……と書いた後で,この後の部分の解説を書いていて,やはり「エッサイの根」でよいのかもしれない,いやそれどころかこのほうがふさわしいとさえいえる,と思うことができた。"super quem…" のところをお読みいただきたい。

qui stas in signum populorum,
諸々の民へのしるしとして立っている方よ,

  •  関係詞節であり,前の "Radix (根)" を先行詞と考えたくなるが,性が一致しない ("Radix" は女性名詞,この関係代名詞 "qui" は男性形)。これは単に「~である者」と解釈するのがよいだろう (漠然とした先行詞が隠れているということ [英:that who]。ラテン語にはよくある)。
     あるいはもしかすると,イエスは男性だからということで意味上の性に一致させた結果男性形の関係代名詞を用いている,ということなのかもしれない (ドイツ語だとそういう現象がたまにあるが,ラテン語でもあるのかどうかは知らない)。

super quem continebunt reges os suum,
あなたの前では王たちは口を閉じて開かないであろう,そのような方よ,
別訳1:あなたのゆえに (……)
別訳2:あなたについては (……)

  •  前置詞つきの関係代名詞で始まる関係詞節であり,構文的に日本語に訳しづらいが,英訳すれば "before (または:because of / about / on) whom kings keep their mouths shut" というところ。

  •  前置詞 "super" はいろいろな意味に取れるが,「~ゆえに」であろうと「~について」であろうと結局「あなたを前にしたとき」だということに変わりはない。

  •  ここだけイザヤ書第11章ではなく,第52章第15節 (聖金曜日の典礼で朗読される「苦難のしもべ」についての箇所に含まれる) から取られている。このアンティフォナでは「来てください,私たちを解放するために」と願われるが,どのような手段で「解放」が行われるかを暗示するかのようである。また,降誕の文脈で既に受難のモティーフが現れるという点で,バッハの《クリスマス・オラトリオ》のはじめのほうにおいて,アドヴェントのコラール "Wie soll ich dich empfangen" に受難コラール "O Haupt voll Blut und Wunden" のイメージが強い旋律が充てられていることを想起させもする。
     先に「エッサイの根 (切り株)」という言葉でイエス・キリストに呼びかけているのではおかしいのではないかということを書いたが,ここまで考えると,実はかえってまことにふさわしいと思える。切り倒され,切り株だけになってしまったように見えたというのは,ダビデ王朝だけではなく,まさしくメシア (イエス・キリスト) その人にも言えることではないか。

quem gentes deprecabuntur:
諸国の民 (異邦人) が乞い求めるであろう方よ。

veni ad liberandum nos,
来てください,私たちを解放するために,

iam noli tardare.
もうこれ以上ためらわないでください。
 

【逐語訳】

おお (間投詞)

Radix 根よ

Iesse エッサイの

  •  ヘブライ語由来の固有名詞は格変化しないことがあり,これもその一つである。昨日の「モーセ」は格変化していたが。

qui (関係代名詞,男性・単数・主格)

  •  "Radix" を受けていると言いたいところだが,これは女性名詞であり,この関係代名詞の性と一致しない。意味上の性 (イエスは男性だからという) に一致させたか,あるいは "Radix" を受けているのではなく「~である人」(英:that who) という意味 (つまり漠然とした先行詞が隠れているということ。ラテン語にはよくある) であるか。

stas 立っている (動詞sto, stareの直説法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

in ~として (英:as)

signum しるし (対格)

populorum 諸々の民への (属格)

  •  ラテン語の属格は「~の」だけでなく「~への」を意味することもある。

super quem (super:~に近接して,~のゆえに,~について,quem:関係代名詞,男性・単数・対格)

  •  先行詞の問題について,前の "qui" のところに書いた通り。

  •  前置詞 "super" が「~について」の意味で用いられるのは,本来は次に奪格がくるときらしい。しかしBlaiseによれば,教会ラテン語では対格でもこのような意味での用法があるらしい。

  •  この前置詞の基本的な意味は「~の上に」(英:above, upon)。

continebunt (複数のもの・分かれているものを) 離れないように保持するであろう,閉じた状態に保つであろう,(分かれているものを) 結びつけるであろう (動詞contineo, continereの直説法・能動態・未来時制・3人称・複数の形)

reges 王たちが

os suum 自らの口を (os:口を,suum:自らの)

quem (関係代名詞,男性・単数・対格)

  •  先行詞の問題について,前の "qui" のところに書いた通り。

gentes 諸国の民が,(神の民イスラエルの対概念としての) 異邦人たちが

deprecabuntur (恵みを) 願うであろう,こいねがうであろう (動詞deprecor, deprecariの直説法・受動態の顔をした能動態・未来時制・3人称・複数の形)

  •  目的語は2つ前の関係代名詞 "quem"。

  •  手元の辞書ではまず「(災いなどがふりかからないよう) 願う」「(神の怒りなどを) なだめようと試みる」というような意味が載っており,今回の文脈でもそう取れなくはないと思うが,もとの聖書箇所 (イザヤ書第11章第10節) の内容からしてそれはない。

veni 来てください (動詞venio, venireの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

ad liberandum 自由にするために,解放するために (liberandum:動詞libero, liberareをもとにした動名詞,対格)

nos 私たちを

iam (否定詞とともに使われる場合) もう,これ以上長く

noli tardare ためらわないでください,遅れないでください (noli:~するな [命令法で禁止の助動詞として用いられる動詞nolo, nolleの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形],tardare:ためらう,遅れる [動詞tardo, tardareの不定法・能動態・現在時制の形)

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