奉納唱・拝領唱 "Scapulis suis" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ107)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 76–77 (奉納唱), p. 77 (拝領唱); GRADUALE NOVUM I p. 68 (奉納唱), p. 69 (拝領唱).
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テキストがほとんど同じである上,歌われる機会も同じなので,奉納唱 (奉献唱) と拝領唱とをまとめて扱う。
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版ORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,奉納唱・拝領唱とも四旬節第1主日に割り当てられている。
2002年版ミサ典書では拝領唱が同じく四旬節第1主日に割り当てられているものの,最後の一文 ("scuto" 以下) は記されていない。また,こちらでは "Non in solo pane vivit homo (人はパンだけで生きるのではなく)" という別の選択肢も与えられている。
奉納唱は,この版のミサ典書では (この日に限らず) 指定されていない。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版ミサ典書では,この奉納唱・拝領唱は四旬節第1主日に割り当てられている。
AMSにまとめられている8~9世紀の聖歌書でも同様である (第40b欄)。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Scapulis suis obumbrabit tibi (Dominus), et sub pennis eius sperabis: scuto circumdabit te veritas eius.
彼は (/主は) あなたをその背をもって陰に隠してくださるだろう,そして彼の翼のもとであなたは希望を抱くだろう。盾でもってあなたを彼の真理が囲むだろう。
別訳:彼は (/主は) あなたを御翼の陰に隠してくださるだろう,そして彼の羽のもとであなたは希望を抱くだろう。盾でもってあなたを彼の信実が囲むだろう。
分析などするのでない限りは,個人的には別訳を採りたい。理由は後述する (2か所)。
詩篇第90篇 (ヘブライ語聖書では第91篇) 第4節全部と第5節前半とが用いられており (節番号はVulgataやローマ詩篇書でのもの。ヘブライ語聖書 [BHS] や七十人訳ギリシャ語聖書では全体が第4節),テキストはだいたいローマ詩篇書に一致している (「ローマ詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。違いは,同詩篇書にはない "Dominus" が奉納唱において付加されていることと,同詩篇書で "pinnis" となっているものがここでは "pennis" となっている (意味は同じ) こととである。
拝領唱のほうでは "Dominus" の付加は行われていない。ただし,ややこしいのだが,少なくとも1962年版と2002年版のミサ典書では拝領唱にも "Dominus" がある。また興味深いことに,AMSにまとめられている8~9世紀の聖歌書のうちコンピエーニュ (Compiègne) の聖歌書では,奉納唱が "Dominus" なし,拝領唱が "Dominus" ありと,われわれが現在用いている聖歌書とは逆になっている。
【対訳・逐語訳】
Scapulis suis obumbrabit tibi Dominus,
主はあなたをその背をもって陰に隠してくださるだろう,
別訳:主はあなたを御翼の陰に隠してくださるだろう,
七十人訳ギリシャ語聖書に従うと「背」だが, 「陰に隠す」というと「翼」のほうがよさそうだし,ヘブライ語原典では実際「翼」「羽」である。
旋律と言葉との関係を考えたりするのであれば,この聖歌が成立したころどういう意味だと思われていたかが問題となるのでどちらかというと前者の意味に (あるいは「双肩」の意味に) 取るのがよさそうだが,典礼の中で実際に歌ったり聴いたりする上では後者でもよいだろう。
個人的には,この箇所を読むと聖グレゴリオの家 (東京都東久留米市) の創立者ゲレオン・ゴルトマン神父の自伝を思い出す。というのは,この本はまず英語で出版されたのだが,そのときのタイトルが "The Shadow of His Wings" (邦題『翼の影』) だったのである。この連想からも,私の気持としては「御翼の陰に」と訳したい。
et sub pennis eius sperabis:
そして彼の羽のもとであなたは希望を抱くだろう。
scuto circumdabit te veritas eius.
盾でもってあなたを彼の真理が囲むだろう。
別訳:(……) 彼の信実が (……)
"veritas" は「本当のこと」という意味で,ここではそこに「彼の」がついており,この「彼」は「主」すなわち神であるから,まずは「真理」と訳したくなる。実際,そのようなニュアンスつまり「宗教的真理」などといった意味でも用いられる語である。
しかし,七十人訳ギリシャ語聖書でこれに対応する語ἀλήθεια (アレーテイア) を手元の七十人訳特化辞書で引くと,"fidelity, faithfulness (忠実,信義,貞節)" という意味も載っている。さらに,おおもとのヘブライ語אֱמֶת (エメト) の基本的な意味は「揺るぎないこと,続くこと」で,ここからやはり「信頼できること,忠実」という意味にもつながる。
ラテン語 "veritas" がそのような意味で用いられることはありうるのかだが,いろいろな辞書を引いてゆくと辛うじてDMLBS (イギリスで書かれた文献に基づく中世ラテン語辞典) のこの語の項 (リンクをクリック後 "DMLBS" を選択していただきたい) の片隅に "loyalty, faithfulness" とあるのを見つけることができた。
なんにせよこの解釈は,ここの文脈においては捨てがたいものがあると思う。「彼の (揺るぎない) 忠実・信義があなたを囲むだろう」。神は決して裏切りも見捨てもせずに守ってくれる,ということになる。上掲の「別訳」はこの解釈に基づいたものだが,ここで私が「信実」という訳語をあてたのは,直接には秦剛平氏がこれを用いているのを借りたものである (秦剛平訳『七十人訳ギリシア語聖書 詩篇』青土社, 2022年, p. 302)。しかしなんといっても,太宰治『走れメロス』のキーワードとしてこの語が現れているというのが大きい (秦氏も同じ連想からこの訳語をお採りになったのかもしれない,と個人的には思っている。ふつうあまり用いられない語だからである)。インターネット上の辞書でこの語を引いてみたらどうもピンとこなかったのだが,とにかくこの小説においてはこの語が約束を守る・友の信頼に応えるといった意味で用いられているのは間違いなく,それがかくも印象的なストーリーを伴って日本の人々の多くに知られているのであるから,この意味でこの訳語を選択することは十分に可能であると考えたのである。