拝領唱 "Qui meditabitur" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ105)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 67; GRADUALE NOVUM I p. 59.
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【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版ORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,灰の水曜日に割り当てられているほか,教会博士や教育者の聖人を記念するミサで共通に用いることができる歌 (Commune) の一つともなっている。
個別の聖人の記念日の中では,次の日に割り当てられている。
聖アンセルムス,司教・教会博士 (4月21日)
聖ベーダ・ヴェネラービリス (尊者ベーダ),司祭・教会博士 (5月25日)
アレクサンドリアの聖キュリロス (チリロ),司教・教会博士 (6月27日)
聖ボナヴェントゥーラ,司教・教会博士 (7月15日)
聖イグナツィウス (イグナチオ)・デ・ロヨラ,司祭 (7月31日)
聖ロベルト・ベラルミーノ,司教・教会博士 (9月17日)
聖大アルベルト (アルベルトゥス・マグヌス/マーニュス),司教・教会博士 (11月15日)
2002年版ミサ典書でも灰の水曜日に割り当てられていることと教会博士のCommuneに入っていることとは同じだが,教育者のCommuneには入っていない。
個別の聖人のところでは拝領唱がいちいち記されず「~のCommune」とだけ指定されていることが多いので,つまり「教会博士のCommune」と指定されている日に用いられることになる。上に挙げた記念日だけどうなっているか見てみたところ,聖イグナツィウス・デ・ロヨラのところにはほかの拝領唱が記されていたが,あとはどれも教会博士のCommuneを指定していた。ただし唯一の可能性として指定しているのではなく,その聖人の属性により,ほかのCommuneを用いることもできるようになっていた。
上に挙げた記念日以外でも教会博士のCommuneを指定している日がいくつもあるが,いちいち記すのはやめる。Commune指定という形でなくその日のところにこの拝領唱が記されているケースは1つあり,それは聖アンブロジウス (司教・教会博士) の記念日 (12月7日) である。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版ミサ典書では,この拝領唱は灰の水曜日に割り当てられている。
AMSにまとめられている8~9世紀の聖歌書でも同様である (第37欄)。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Qui meditabitur in lege Domini die ac nocte, dabit fructum suum in tempore suo. T. P. Alleluia.
主の律法のうちにあって昼も夜も深く考えてゆく人は,自らの時に自らの実りをもたらすであろう。(復活節には) ハレルヤ。
別訳:主の律法を昼も夜も自らのつぶやきとしてゆく人は,時が来たら自らの実りをもたらすであろう。(復活節には) ハレルヤ。
動詞 "meditabitur" と前置詞 "in" の解釈がいろいろ考えられる。対訳・逐語訳の部で検討するのでそちらも是非お読みいただきたい。
詩篇第1篇第1節から第3節前半までを,第2節の一部と第3節の一部 (あと第1節にある関係代名詞 "qui") をうまくつなげて要約したような内容になっている。
この第1節から第3節前半までのテキストはローマ詩篇書もVulgata=ガリア詩篇書もほとんど同じで,特にこの拝領唱に直接用いられている上記の部分は全く同じである (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。
比較のため,次に第1節~第3節前半の全体を示す。
この部分についてアウグスティヌスが示している解釈の一つは (本来は文ごと・句ごとに論じられており,その中に複数の解釈が示されているところがあるのだが,それらの一部をつなぎ合わせると),要するにこれをイエス・キリストについて述べていると捉えるものである。
その中で特に特徴的なのは「彼はあたかも木のようになるだろう」以下についてである。まず,ほかの聖書箇所 (ヨハネの黙示録第17章第15節) で「水」が「人々」を表すものとして現れていることからここでも「水」を「人々」の意味に取り,また,川の「流れ」は下へと落ちてゆくものであることからこれを「罪」の意味に取る。その「ほとりに植えられた木」であるイエス・キリストは,人々を,罪人たちを,自分の根に引き入れる。「時がくると」というのは彼の復活・昇天を経た時を指し, 「実を結ぶ」というのは教会 (この場合建物のことではなく,イエス・キリストに結ばれた共同体,彼の生命に与る人々の群れ) を建てたことを指すという (参考:『アウグスティヌス著作集』第18巻I (詩編注解1), 教文館, 1997年, p. 15 [今義博訳])。
【対訳・逐語訳】
Qui meditabitur in lege Domini die ac nocte,
アウグスティヌスによる解説を考慮した訳:主の律法のうちにあって昼も夜も深く考えてゆく人は,
(以下3つの「別訳A」は "in" の意味をめぐってのもの)
別訳A-1:主の律法を (……)
別訳A-2:主の律法をめぐって (……)
別訳A-3:主の律法でもって (……)
(以下3つの「別訳B」は動詞 "meditabitur" の意味をめぐってのもの)
別訳B-1:(……) 瞑想してゆく人は,
別訳B-2:(……) 企ててゆく人は,
別訳B-3:(……) つぶやいてゆく人は,
別訳B-4:(……) 練習してゆく人は,
直訳 (時制に関して):(……) 深く考えるであろう人は / 瞑想するであろう人は / etc.
平たい訳 (時制に関して):(……) 深く考える人は / 瞑想する人は / etc.
ここの "in" はいろいろな解釈が考えられるが,アウグスティヌスは最も基本的な意味 (「~のうちに」) に取っているようで,それは詩篇のこの箇所を解説する言葉の中で次のように述べていることからうかがえる。
しかしもとはといえば,この "in" は次のようなことに由来するといえる。
この聖書箇所のヘブライ語原典において "meditabitur" のもとになっている動詞はהגה (ハーガー) といい, 「唸る」「つぶやく (小声で音読する)」「沈思する・瞑想する」などという意味を持つ。目的語は単体で現れることもあるが,特に「つぶやく (小声で音読する)」「沈思する」という意味で用いられるときには「前置詞בְּ + 目的語」という形が用いられる。
そしてこの前置詞בְּというものは,どうも意味・用法にかかわらずギリシャ語訳聖書では "ἐν" と訳され,それがラテン語聖書では "in" となっているようなのである (私がこういうことに関わってきた経験がごく浅いので控えめな言い方にしたが,今まで見てきた限りでは実際こうである)。
このようなことから,ただ目的語だけ置いておけばよいものを習慣的に前置詞つきにしただけだ,と考えることもできるのかもしれず (実際,Sleumer p. 415右段の下から7行め以下で "in" についての説明の片隅にそのような記述がある),そうであれば,あまり "in" の語にとらわれすぎずに考えてもよいのかもしれない。要するに「主の律法をつぶやく (小声で音読する)」(別訳A-1) とか「主の律法をめぐって深く考える」(別訳A-2) といった意味だろう,と考えるわけである。そうはいっても動詞הגהの目的語が前置詞בְּを伴うことには何らかの意味があると思われ,ではどういう意味合いなのか考えてみたい。
まず,前置詞בְּの基本的な意味の一つにも「~において」「~のうちで」というのがあり,これに基づくと,今回の場合であれば「主の律法の世界に沈潜して瞑想する」「主の律法から外れないようにして考える」「主の律法 (の書) の世界に入りこんでつぶやく」といったイメージが考えられる。
これもよいだろうが,この前置詞にはほかにもさまざまな意味があり,その中でここに特によく合うと思うのは「~でもって」「~によって」(道具・手段) というものである (別訳A-3)。「主の律法でもってつぶやく」「主の律法でもって考える」。つぶやいたり考えたりするときには何らかの言葉を用いるわけだが,その言葉として主の律法を用いる,ということである。自分のつぶやく言葉を主の律法にする (具体的には主の律法を小声で音読する,あるいは暗唱する) のである。ここの動詞 "meditabitur" のもとであるヘブライ語動詞הגה (ハーガー) の意味を上にいろいろ挙げたが,基本的なものは「唸る」「つぶやく (小声で音読する)」であり,つまり本来は身体的な要素 (口を動かす・声を出す) を含んでいることに注意したい。
同じ動詞が出てくる入祭唱 "Os iusti meditabitur sapientiam" では主語が「口」なのでさらにはっきりしているが,この拝領唱のもとになった詩篇第1篇も,本来は単に主の律法について深く考えることだけでなく,それを繰り返し (小声で) 唱えて自分の身体の一部にしてゆくことについて述べていると考えられる (聖書協会共同訳は「唱える」と訳しており,また「口ずさむ」という別訳も載せている)。この動詞 "meditabitur" は未来時制なのでそのまま訳せば「~であろう」となるし,もとの詩篇ではそれでもそうおかしくないのだが,テキストがこの拝領唱のように編集されてしまうと文脈上なんとも不自然になる。「主の律法のうちにあって昼も夜も深く考えるであろう人は,自らの時に自らの実りをもたらすであろう」。つまり,今のところは主の律法のうちにあって深く考えていないかもしれないが将来そうするであろう人,という実にあやふやな条件設定になってしまうのである。
さすがにおかしいと思うので,現在既に主の律法にあって深く考えており将来にわたってもそうしてゆく,という「現在 + 未来」くらいの意味が出るようにするという妥協案を採ろうと思い, 「深く考えてゆく」(あるいは「つぶやいてゆく」etc.) と訳してみた。
さらに言ってしまうと,私はそもそもここが未来時制になっていることに特に意味はない気がしてならず (ヘブライ語に未来時制はないので,これはギリシャ語に訳されたときの問題である),単純に無視して現在時制のように訳してもよいのかもしれないと思う (この考え方によるものを「平たい訳」として掲げた)。「昼も夜も」について,アウグスティヌスは2通りの解釈を示している。「中断なく」という (よくある) 解釈と, 「歓喜のうちにあるときも苦難のうちにあるときも」という解釈とである (参考:上掲書p. 14)。
dabit fructum suum in tempore suo.
自らの実りを自らの時にもたらすであろう。
意訳:自らの実りをふさわしい時にもたらすであろう。
「自らの時」は「自らに定められた時」「自らに合う時」つまり「ふさわしい時」ということらしい。
「実りをもたらす」という言葉についてアウグスティヌスが示している特徴的な解釈は「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部の終わりで紹介した。
T. P. Alleluia.
(復活節には) ハレルヤ。
この拝領唱は何よりまず灰の水曜日のためのものだが,上述のようにさまざまな聖人の記念日に用いられることもあり,その中には復活節 (復活祭から50日間) 中にあたりうるものもある。復活節には何でもかんでも「ハレルヤ (alleluia)」をつけて歌うので,そのときのためにこの部分がついているわけである。
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