入祭唱 "Misereris omnium" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ29)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 62–63; GRADUALE NOVUM I pp. 52–53.
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更新履歴
2024年1月28日 (日本時間29日)
対訳の部と逐語訳の部とを統合した。
「教会の典礼における使用機会」の部を整理した。
「対訳・逐語訳 (アンティフォナ)」の部の最後に,この文脈において "Dominus" の語に感じ取ってもよいかもしれない特別な意味についての説明を加えた。
訳文中「人間たち」を「人間ら」に, 「私たち」を「われわれ」にそれぞれ改めた。
2022年2月7日 (日本時間8日)
読みづらいところを少し手直しするなどした。内容はほとんど変わらない。
2019年3月2日
投稿
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版ORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,灰の水曜日 (四旬節の最初の日で,復活祭の46日前) と年間第31主日 (C年のみ) とに割り当てられている。後者については,この日の第1朗読において読まれるのがまさにこの入祭唱のもとになった聖書箇所だからこうなっているだけのことだと思われ,基本的にはなんといってもまず灰の水曜日の聖歌だといってよいだろう。ほかには, 「種々の機会のミサ」のうち「罪のゆるしのため」のミサで用いることができる入祭唱の一つともなっている。
(「四旬節」「年間」「C年」といった用語の説明はこちら。)
2002年版ミサ典書では,年間第31主日 (C年) には割り当てられていないが,あと2つの使用機会は同じである。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版ミサ典書では,灰の水曜日に割り当てられているほか,随意ミサのうち「罪のゆるしのため」のミサの入祭唱ともなっている (こちらではほかの選択肢は与えられていない)。
AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書では,灰の水曜日のところに載っている (第37欄)。
【四旬節のミサ固有唱について】
四旬節最初の日の入祭唱についての記事ということで,この季節全体に関することをここで書いておく。
グレゴリオ聖歌に関係する四旬節の一つの特徴として,入祭唱,昇階唱などのミサ固有唱が毎日替わるということが挙げられる (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXの指示に従う場合,ほかの季節にはたいてい,主日に歌われたものがだいたいその週じゅう歌われる)。参考までに,GRADUALE ROMANUM (1974) / TRIPLEXにおけるアドヴェント (待降節)・四旬節・復活節・年間のそれぞれ第2~3週の実質的なページ数を比較してみると,
アドヴェント第2~3週:6ページ
四旬節第2~3週:20ページ
復活節第2~3週:7ページ弱
年間第2~3週:8ページ
と,四旬節だけだいぶ多いのが一目瞭然である (ただし,第1週に限っては復活節も同じくらい充実している。ほかに,アドヴェントの最後の8日間と復活節第6週後半~第7週もけっこう充実している)。一年中で「四旬節第○週の○曜日」にしか用いられない聖歌というのもけっこうある。神の言葉の栄養を与えるという点において,四旬節はそれくらい大切にされている季節だともいえそうである。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Misereris omnium, Domine, et nihil odisti eorum quae fecisti, dissimulans peccata hominum propter paenitentiam, et parcens illis: quia tu es Dominus Deus noster.
Ps. Miserere mei Deus, miserere mei: quoniam in te confidit anima mea.
【アンティフォナ】あなたはすべてのものをあわれんでくださいます,主よ,そしてお創りになったものを何ひとつお嫌いになりません,人間らの諸々の罪を悔悛のために (=人間らが悔悛できるようにと) お見逃しになり,人間らを (こわれたり傷ついたりしないよう) 大切にしてくださって。それは,あなたこそ主,われわれの神でいらっしゃるからなのです。
【詩篇唱】私をあわれんでください,神よ,私をあわれんでください。あなたを私の魂は信頼しているのですから。
アンティフォナの出典は知恵の書第11章第24–27節 (Vulgataでの節番号。もとのギリシャ語聖書では第23–26節) であり,詩篇唱には詩篇第56 (ヘブライ語聖書では第57) 篇が用いられている (ここに掲げられているのは第2節前半)。
詩篇唱のテキストは,ローマ詩篇書にもVulgata=ガリア詩篇書にも完全に一致する (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。
アンティフォナのもとになっている「知恵の書」というのは,いわゆる「旧約聖書続編」に入っている文書の一つである。成立年代は普通の旧約聖書の諸文書より後で,ヘブライ語でなくギリシャ語で書かれた。読んでみると,普通の旧約聖書とは確かに調子が違う。私は親しみやすい・分かりやすいと感じるし,内容も好きである。
カトリックと東方教会では正典 (第二正典) 扱いだが,プロテスタントでは外典 (アポクリファ) 扱いであるため,この文書を収録していない聖書も多い。新共同訳や聖書協会共同訳であれば, 「旧約聖書続編付き」のものには入っている。
この知恵の書の上記箇所にある言葉が,このアンティフォナでは要約されたり言い換えられたりしている。
まず,知恵の書の同箇所のVulgataのテキストを訳とともに示す (元がVulgataではなくもっと古いラテン語訳聖書テキスト [Vetus Latina] である可能性もあるが,どうせそのまま引用されているわけではないので,とりあえずVulgataを載せる)。
次に,入祭唱との比較表 (入祭唱のほうの言葉の順序によるもの) を示す。
このように並べて見てみると,第1に,入祭唱でいうはじめの部分 (上の表における上2段) では,知恵の書の言葉の一部だけ取って短くまとめる傾向が目立つ。その中で特に目を引くのは,知恵の書の「あなたは存在するすべてのものを尊び愛してくださり,お創りになったものを何ひとつお嫌いにならない」という言葉のうち, 「尊び愛する」という積極的な表現ではなく,「お嫌いにならない」という消極的な表現のほうが採用されていることである。
上述の通り,この入祭唱の使用機会は何よりまず灰の水曜日である。灰の水曜日のミサ特有の要素として,参列者一人一人が灰を額に塗られる (小さい十字の形に) というものがある。このとき悔い改めを促す言葉がかけられるのだが,その言葉には2通りあり,そのうち一つは「人よ思え,おまえは塵であり,ふたたび塵に返る者だということを」(創世記第3章第19節 [禁断の実を食べたアダムに対して神が言った言葉の一部] に基づく) である。このように,人間 (被造物) がそれ自身では何の価値もない,また存在することができない (しかも神に背く) 者であるということを特に強く意識させられるのが灰の水曜日である。すると「お嫌いにならない」という消極的な (一見弱く感じられる) 表現は,そのような背景をしっかりと踏まえた上でなお神の人間肯定 (被造物肯定) を語っていることを感じさせ,それゆえかえって強いメッセージたりえているのではないだろうか。
第2に,知恵の書では「なぜなら」あるいは「というのも」という理由説明の接続詞 ("quia", "quoniam", "enim") が合計4回出ているのに対し,入祭唱ではほとんどの要素がただ並列され,最後の一文だけ「なぜなら (quia)」という接続詞で導入されている,というところに,両者の論理構造の違いが見て取れる。
これが印象の上でもたらす結果として,入祭唱の一回きりの「なぜなら」とそれに続く文がより重く響くということが挙げられる。なお,旋律がつくとこれはさらにはっきりする。"quia" 以下の文に,特に長いメリスマが現れるのである。
第3に,終わりの部分において,入祭唱では「一般的な内容を自分たちのことに引きつけて考える」姿勢が見られる。
まず,知恵の書で「あなたはすべてのもの (「者」とも「物」ともとれる) を (こわれたり傷ついたりしないよう) 大切にしてくださいます」と言われているものが,入祭唱では「あなたは彼ら (人間ら) を (……)」と言い換えられ,はっきりと人間のことに話題が限定されている。
そして,このような傾向がより明瞭に出ているのは何といっても最終文である。知恵の書が「それら (すべてのもの) はあなたのものだからです」と言っているものを,入祭唱は「あなたが主,われわれの神でいらっしゃるからです」と表現している。前者がごく一般的に「すべてのもの」を話題にしているところで,後者はこの一般論 (すべてが「主」の所有であること, 「主」の支配下にあること) が「われわれ」に関わるものであることを鮮明にしているのである。しかもこの一文は,上述のように入祭唱では一回きり現れる「なぜなら」に続いて印象深く述べられるのである。最後の一語が「われわれの (noster)」であることが,以上のような強調点をさらにはっきりしたものにしている。
【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】
対訳は上の比較表の中にも含まれているが,必要に応じて解説をつけつつ改めて一文ずつ見てゆく。
Misereris omnium, Domine,
あなたはすべてのものをあわれんでくださいます,主よ,
et nihil odisti eorum quae fecisti,
そしてあなたは,あなたがお創りになったものを何ひとつお嫌いになりません。
"eorum (英:of those)" が "nihil (英:nothing)" にかかり,これで "nothing of those" の意味になる。そしてこの指示代名詞 "eorum" は既出の語を指しているのではなく,直後に続く関係詞節 "quae fecisti (あなたがつくった[もの])" によって限定されることで初めて意味をなしている。全体で "and you hate nothing of those which you have made" ということになる。
第1文と異なり,この文は ("nobody" ではなく) "nothing" を意味する "nihil" と,一義的に中性である関係代名詞 "quae" とのゆえに, 「人」ではなく「もの」が話題になっていることが明確である。といっても,全体からみてそのことが特に重要な意味を持つわけではないが。
dissimulans peccata hominum propter paenitentiam,
悔悛のために (=人間らが悔悛できるようにと) 人間らの諸々の罪をお見逃しになって,
別訳:悔悛のゆえに (……)
現在能動分詞 (英語でいう-ing形) "dissimulans" による分詞構文により,付帯状況を言い添えている。
前置詞 "propter" は基本的には「~ゆえに」(原因・理由) という意味であり (もとはといえばまた別の意味だが,それは今は関係ない),それに従ってこの部分全体を読むならば「悔悛のゆえに (=人間らが悔悛した/するので,それをよしとして) 人間らの諸々の罪をお見逃しになって」ということになるだろう (別訳)。
ところが,ここで言われていることは実はそうではないらしい。知恵の書の対応箇所 (Vulgataでは第11章第24節,もとのギリシャ語聖書では第23節) がさまざまな聖書でどう訳されているかを次に示す。
つまり,人間の回心は神が罪を「見逃す」条件ではなく,目的であるとここでは言われているのである。人間が悔い改めたから「赦す」のではなく,まさしく「見逃す」のである。まだ回心していない人間をすぐ痛い目に遭わせたり滅ぼしたりするのでなく,大事にして将来の回心を忍耐強く待つのである。
この認識を持って,ラテン語の "propter" にもそういう (原因・理由ではなく目的を示す) 用法がないものかと改めてさまざまな辞書を引いてみると,果たしてあった。ただし中世ラテン語辞典 (それもイギリスで書かれたラテン語に基づくもの) にである。"Dictionary of Medieval Latin from British Sources" (DMLBS) に "for the sake of" という訳語が載っている。
何しろ中世ラテン語辞典 (もとにしている用例は最も古いものでも6世紀半ばのもの) なので,4世紀にまとめられたVulgata (あるいはさらに古いラテン語聖書) に由来するテキストを読むのに用いるのは本来適切でなく,あくまで「もしかしたら,実は4世紀の段階でもこういう用法もあったかもしれない」という仮説を立てさせてくれるにすぎない。しかし,ここは普通の諸々の聖書に (それを通して,ギリシャ語原典が言っているであろうところに) 従い,かつ文脈上いっそうぴったりくる解釈を採るという意味でも (「赦す」ではなく「見逃す」という語が用いられており,それによく合うという点で),敢えて「悔悛のために (=人間らが悔悛できるようにと)」と訳したいと思う。なお,Vulgataからの英訳聖書であるDRA (Douay-Rheims 1899 American Edition) もここは "for the sake of repentance" としている。
et parcens illis:
また,彼ら (人間) を (こわれたり傷ついたりしないよう) 大切にしてくださって。
ここも,現在能動分詞 "parcens" による分詞構文である。
quia tu es Dominus Deus noster.
それは,あなたこそ主,われわれの神でいらっしゃるからなのです。
基本的には「なぜなら~から」という意味をもつ接続詞 "quia" だが,この文脈で「なぜなら」はどうもしっくりこないので,意味は一応そのままに保ちつつ別の言葉を用いようと試みた結果こうなった。
個人的には,直前に「どうしてそうしてくださるのでしょう」という一文を補うと,この文への接続がスムーズになると思う。やりすぎかと思ったので結局やめたものの,初め全体訳で本当にそうしていたくらいである (もちろん括弧つきで)。われわれを大事に扱ってくださる神,ほかならぬわれわれの神,というこのような文脈を考えると,意識してもよいと思うことがある。旧約聖書的に考えるならば,"Dominus (主)" となっているところは本来神の名 (YHWH) が書かれているところだ,ということである。どういうことかというと,ヘブライ語聖書において神の名YHWHが記されているところは,それをそのまま発音するのを避けるために「アドーナイ」(「(わが) 主」という意味) と読み替えられるのだが,この読み替えのほうの意味がギリシャ語やラテン語の聖書に引き継がれた結果が "Dominus" (本来「主人」という意味の一般名詞) という語なのである。とにかく,ラテン語旧約聖書で "Dominus" を見たら,一般名詞「神」とは違って,名前を持っている特定の神,ほかならぬわれらの神だ,という意識を持ってもよいのである。
この入祭唱のもとになっている「知恵の書」はギリシャ語で書かれた文書 (第二正典) であるとはいえ,旧約聖書の伝統の中で書かれたものであるから,このくらいのことは考えるのも許されると思う。
【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】
Miserere mei Deus, miserere mei:
私をあわれんでください,神よ,私をあわれんでください。
quoniam in te confidit anima mea.
あなたを私の魂は信頼しているのですから。
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