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拝領唱 "Passer invenit sibi domum" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ109)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 306–307; GRADUALE NOVUM I p. 82.
 gregorien.info内のこの聖歌のページ

 カバー写真:シュトゥットガルト詩篇書, f. 99v上部。左記リンク先で示したサイトから入手したPDFより抜粋 (PDFでのページ番号:204)。 


【教会の典礼における使用機会】

【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】

 1972年版ORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,四旬節第3主日 (福音書としてサマリアの女の話 [ヨハネ第4章] が朗読される場合を除く),年間第15週に割り当てられている。年間第15週については,ほかの選択肢も与えられている。また,教会献堂式 (およびその記念日) のミサで共通に用いることができる歌 (Commune) の一つともなっている。

 2002年版ミサ典書では,PDF内で検索をかけた限りではやはり四旬節第3主日 (上記と同じ条件) と年間第15主日 (やはりほかの選択肢あり) とに割り当てられている。こちらでは第15「週」ではなく第15「主日」となっているが,この相違は「年間」の季節においては実際上あまり気にしなくてよい。
 こちらでは教会献堂式一般ではなく,祭壇の聖別をするミサの拝領唱として載っている (ほかの選択肢あり)。なお,Communeの部ではなく「他の儀式を伴うミサ (Missae Rituales)」の部に載っている。

【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】

 1962年版ミサ典書においては,PDF内で検索をかけた限りでは,四旬節第3主日にのみ割り当てられている。

 AMS (第53欄) にまとめられている8~9世紀の諸聖歌書でも同様である。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Passer invenit sibi domum, et turtur nidum, ubi reponat pullos suos: altaria tua Domine virtutum, Rex meus, et Deus meus: beati qui habitant in domo tua, in saeculum saeculi laudabunt te.
雀は自らのために住まいを見つけ,きじばとは自分の雛たちを置くための巣を見つけました。すなわちあなたの祭壇をであります,万軍のしゅよ,わが王よ,わが神よ。幸いだ,あなたの宮に住む者らは!  彼らはとこしえにあなたをほめたたえることでしょう。
別訳:雀は自らのために住まいを見つけ,きじばとは自分の雛たちを置くための巣を見つけました。――あなたの祭壇!  万軍のしゅよ,わが王よ,わが神よ。幸いだ,あなたの宮に住む者らは!  彼らはとこしえにあなたをほめたたえることでしょう。

 詩篇第83篇 (ヘブライ語聖書では第84篇) 第4–5節が用いられており,テキストはローマ詩篇書に一致する (「ローマ詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。ただし,本来は第4節のはじめにある接続詞 "etenim (というのも~なのだ)" は省略されている。
 この第83 (84) 篇は,神の家 (神殿) への切なる憧れが歌われている詩篇である。
 

【対訳・逐語訳】

Passer invenit sibi domum,

雀は自分のために住まいを見つけた,

passer すずめ
invenit 見つけた (動詞invenio, invenireの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
…… 現在時制も同じ綴りだが,アクセントの位置が異なる。現在時制なら "in" にアクセントがくるのだが,現代の聖歌書や典礼書を見ると "ve" にアクセント記号が書かれており,これにより完了時制であることが分かる。
…… 完了時制は「過去のできごと・行為の結果が現在に及んでいること」を表すのに用いられる場合もあり,ここはそう訳すほうがよいかとも思ったのだが,七十人訳ギリシャ語聖書を見たら対応する語が直説法・アオリストという形になっており,これは単純に過去の一回的なできごと・行為を表すものなので,このラテン語もそう解釈することにした。
sibi 自身に,自身のために
domum 家を,住居を

et turtur nidum, ubi reponat pullos suos:

きじばとは自分の雛たちを置くための巣を (見つけた)。

et (英:and)
turtur きじばと
nidum 巣を
ubi (英:where) (関係副詞) …… 直前の "nidum" を受ける。
reponat (もとの所に) 置く (動詞repono, reponereの接続法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
pullos suos 自身の雛たちを (pullos:雛たちを,suos:自身の)

altaria tua Domine virtutum, Rex meus, et Deus meus:

(すなわち) あなたの祭壇を,万軍のしゅよ,わが王よ,わが神よ。
別訳:あなたの祭壇! (……)

altaria tua あなたの祭壇を;あなたの祭壇! (複数・対格) (altaria:祭壇を,tua:あなたの)
…… この2語は主格でも対格でもありえ,ギリシャ語でもそうなのだが,ヘブライ語までさかのぼると目的語を示す前置詞がついているので,対格に取るのがよい。なお,このヘブライ語前置詞は「~の傍らに」という別の意味にも取れるのだが,この部分をヘブライ語からギリシャ語に訳した人々はそうは解釈しなかったことが明らかなので (そう解釈していたならギリシャ語でも「~の傍らに」あるいはそれに近い意味の何らかの前置詞をつけていたはずだが,何の前置詞もつけていないから),そのことは考えなくてよい。
…… "altaria" は複数形でのみ用いる名詞として辞書に載っていることもあるが,実際には (少なくとも聖書では) そんなことはない。ヘブライ語テキストやギリシャ語テキストでも複数形になっている (いずれの言語でも, 「祭壇」にあたる語は単数形でも現れる) ので,ここは本当に複数だと考えてよいだろう。
Domine しゅ
virtutum 力の;軍勢の (複数形)
Rex meus 私の王よ (Rex:王よ,meus:私の)
et (英:and)
Deus meus 私の神よ (Deus:神よ,meus:私の)

  •  "Domine" 以下はすべて呼びかけの言葉なので文構造を考える上では無視することになるが,するとここには "altaria tua" が残るだけとなり,これだけでは文にならないので解釈が問われることになる。

  •  逐語訳の中で述べたように,この "altaria tua" は対格と取るのがよいと考えられるが,対格の最も基本的な意味は「~を」である。すると,前の文 (前の2文)「雀は住まいを見つけた,雉鳩は巣を見つけた」に含まれている「~を」の要素,すなわち「住まいを」および「巣を」を言い換えている,というのが一つのありうる解釈となる。つまり,雀や雉鳩が見つけた「住まい」あるいは「巣」とは「あなたの祭壇」なのだ,ということになる。

シュトゥットガルト詩篇書 (820–830成立), f. 99v上部。使用したデータはカバー写真と同じ。
  •  あるいは,ラテン語では詠嘆・感嘆を表すのに対格が用いられることがあり,ここもそう読もうと思えば読めるだろう。例えば「鳥も自分の住まいを見つけているというのに,どうしてわれわれはあなたの祭壇に帰ることができずにいるのだろう」などというような思いをこめての「あなたの祭壇!」というわけである。ただ,ヘブライ語テキストやギリシャ語テキスト (少なくとも前者) は考慮しない解釈となる (あまり詳しく知らないが,少し調べてみた限りではそう思う)。

  •  Septuaginta Deutschはこの「あなたの祭壇」という部分に次のような註をつけている。
      《ここの前後関係 (Bezug) は――マソラ本文 [←要するにヘブライ語テキスト] においてもそうだが――いくぶん不明瞭である。おそらく「祭壇」はこの [たとえの] イメージの中で捉えるべきではなくて,つまり第4ab節で言及されている鳥の巣のための場所として捉えるべきではなくて,言葉の省略を伴って (elliptisch) 表現されたSachhälfte [=たとえを通して示されている現実の事物] として捉えるべきものであろう。すなわち,鳥にとっての巣のようなもの,それは祈る人にとって神の祭壇 (ここで「祭壇」は神殿を表すpars pro toto [=部分でもって全体を暗示する修辞] として出ているのかもしれない) である,というのもそれは避難所であり守りであるから,というわけである》(同書p. 838, 筆者訳・補足)。
     分かりづらい文章だが,要するに「鳥 (雀や雉鳩) が自分たちの住まい/巣として神の祭壇を見つけた,という話ではない。鳥が住まい/巣を見つける云々はあくまでもののたとえであって,鳥にとっての住まい/巣という言葉でたとえられているのが,祈る人にとっての祭壇 (あるいは祭壇に象徴される神殿) なのだ」という話である。では「(鳥が住まい/巣を見つけるように) 祈る人はあなたの祭壇を見つけます」とでも書かれていればそれが明瞭だったのだが, 「祈る人は」とか「見つけます」などという言葉は省かれて「あなたの祭壇を」だけでそれが表現されている,という解釈である。
     これはこれで説得力があると思うが,ではこの解釈に従って訳すとして,ただ「あなたの祭壇を」とだけ書いたところで上記のような意味が伝わるとは私には思えない。が,先ほどのように詠嘆として訳し「あなたの祭壇!」とでもすれば,神の祭壇/神殿に憧れている人の心の叫びだということが伝わるので,結果的に上記のような意味を伝えることができるのではないかと思う。

  •  アウグスティヌスは, 「雀」や「雉鳩」を人間の心や体を表す比喩と捉えている。この拝領唱には含まれていないが,もとの詩篇で直前に「私の魂は主の前庭を熱望して絶え入り,私の心と私の体は生ける神にあって喜び躍りました」とあるのを受けてのものである (参考:『アウグスティヌス著作集』第19巻II [詩編注解4], 教文館, 2020, p. 210)。
     こう考えると,雀が見つけた 「住まい」や雉鳩が見つけた「巣」というのは実は人間にとっての安住の場所のことを言っていることになるので,これを無理なく (先ほどと異なり言葉の省略など想定せずとも)「あなたの祭壇」と同一視することが可能になる。
     この解釈を採るならば,訳文は素直に「すなわちあなたの祭壇を」でよいだろう。ただ,説明なしでは誰も雀や雉鳩を人間の心・体のことだとは思わないだろうから,真意が伝わらないのが難点だが。

beati qui habitant in domo tua,

幸いだ,あなたの宮に住む者らは!

beati 幸いだ (形容詞,男性・複数・主格)
qui (英:those who) (関係代名詞,男性・複数・主格) …… 直前の "beati" を受ける,と言いたいところだがそうではなく,漠然とした先行詞 (英語の "those who" における "those" にあたるもの) が含まれていると考える。ここでは "beati" と "qui" 以下とが文の中で異なる構成要素となっている ("beati" が補語, "qui" 以下が主語) ので,切り離して考えなければならないからである。
habitant 住む,留まる,ホームとする (動詞habito, habitareの直説法・能動態・現在時制・3人称・複数の形)
in domo tua あなたの家に,あなたの宮に (domo:家,住居,宮殿 [奪格],tua:あなたの)

  •  英語でいうbe動詞が隠れている。上述の通り,"qui" 節全体が主語,"beati" が補語。

  •  普通に「幸いです」などと訳してもよかったのだが,イエスの山上の垂訓のはじめ (真福八端) など聖書のさまざまなところに現れる「幸いなるかな」(記憶が正しければ,塚本虎二訳の真福八端では「ああ幸いだ」) の一例,つまり詠嘆あるいは祝福の形であると判断し, 「幸いだ,……!」と訳すことにした。

in saeculum saeculi laudabunt te.

彼らはとこしえにあなたをほめたたえるでしょう。

in saeculum saeculi 永遠に …… 秦剛平氏による七十人訳ギリシャ語聖書からの訳では「未来永劫の未来永劫まで」(『七十人訳ギリシア語聖書 詩篇』青土社, 2022年, p. 279)。
laudabunt 彼らがほめたたえるであろう (動詞laudo, laudareの直説法・能動態・未来時制・3人称・複数の形)
te あなたを

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