入祭唱 "In voluntate tua" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ93)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 346–347; GRADUALE NOVUM I pp. 335–336.
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【教会の典礼における使用機会】

【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】

 1972年版Ordo Cantus Missae (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,年間第27週に割り当てられている。
 GRADUALE ROMANUM (1974) / TRIPLEXではさらに,教会暦関係なしの「種々の機会のミサ」のうち「迫害に苦しめられているキリスト者のためのミサ」のところにも載っている (複数ある選択肢のうちの一つ)。また,年間第27週の中でも偶数年 (「第2周年」) の火曜日については,ほかの入祭唱も選択肢として挙げられている。

 2002年版ミサ典書では,この入祭唱は年間第27主日にのみ割り当てられており,「迫害に苦しめられているキリスト者のためのミサ」のところには載っていない。

【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】

 1962年版ミサ典書では,聖霊降臨後第21主日に割り当てられている。

 AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書でもこれは同じだが,Rheinau (ライナウ) の聖歌書のみなぜか「第22主日」と記している (聖霊降臨後第17 [18] 主日以降全部が1つずれている。その前は数週ぶん欠落している)。
 あと,「聖霊降臨後」の部分については聖歌書によって何とも書いていなかったり「聖霊降臨の八日間後」と書いていたりといったゆれがあり,特に後者については「聖霊降臨後」と「聖霊降臨の八日間後」とでは普通に考えたら1週間ずれるはずなので大問題のようにも思えるが,たぶんこれは,聖霊降臨の八日間が実際には7日間しかない (土曜日で終わる) ので結局同じことになる,ということではないかと思う。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

In voluntate tua, Domine, universa sunt posita, et non est qui possit resistere voluntati tuae: tu enim fecisti omnia, caelum et terram, et universa quae caeli ambitu continentur: Dominus universorum tu es.
Ps. Beati immaculati in via: qui ambulant in lege Domini.
【アンティフォナ】御意志によってすべてのものは置かれました,しゅよ。そして御意志に抗することができるような者はおりません。というのも,あなたこそが何もかもを――天と地を,また天に覆われているすべてのものを――お創りになったのですから。すべてのものの主でいらっしゃいます,あなたは。
【詩篇唱】幸いである,道において非の打ちどころのない者たち,主の法に則って歩む者たちは。

 アンティフォナはエステル記の,ギリシャ語聖書にのみ含まれている部分に基づいている。詳しくいうと,第4章の最終節である第17節《モルデカイは出かけて行って,すべてエステルが彼に命じたとおりにおこなった》(聖書協会共同訳) の後に (現在のヘブライ語聖書の立場からいえば) 挿入された,モルデカイの祈りの言葉から取られている。
 この部分の章節番号については事情がたいへん複雑である。ドイツ聖書協会版の七十人訳ギリシャ語聖書では,第4章第17節に続く付加ということでここ全体を巨大な第17節扱いしており,ただそれだとあまりに長いので,17a,17b……というふうにアルファベットをつけて区切りを入れている。この方式だと,今回の入祭唱アンティフォナに対応するのは第17b–17c節となる。バルバロ訳はこれを踏襲している (それゆえ,この部分は第4章に置かれている)。
 ほかに,この部分も含め全部で6つある付加部分を別扱いにして,それぞれ大文字のアルファベット (A~F) をつける方式もある。この方式だと,今回の入祭唱アンティフォナに対応するのは付加要素Cの第2–4節となる。聖書協会共同訳や新共同訳 (いずれも「旧約聖書続編付き」版に限る) で採用されているのもこの方式である。ただし新共同訳では第2節が第19節となっており (節番号が飛んでいるだけで,書かれている位置は第2節にあたるところ),また,上述した「小文字アルファベットつき第17節」方式の節番号も併記されているようである (オンラインで見ただけなので不確か)。
 そして,GRADUALE ROMANUM (1974) / TRIPLEXに載っている章節番号はVulgataのそれだが,これはまた全く違う番号になっている。これは,ヒエロニュムスがエステル記をまずヘブライ語から訳した上で,ギリシャ語聖書にのみ含まれている部分はまとめてその後に回してしまったために起きたことである。ヘブライ語聖書は第10章第3節で終わるので,付加部分は第10章第4節以降にまとめられている。この結果,今回の入祭唱アンティフォナに対応する部分はVulgataでは第13章第9–11節となっている

 問題の部分はVulgataでは次のようになっている。

[9] et dixit (そして彼 [=モルデカイ] は言った)
÷ Domine Domine rex omnipotens (しゅよ,主よ,全能の王よ。)
÷ in dicione enim tua cuncta sunt posita (と申しますのも,あなたの権力によってすべてのものは置かれたのです。)
÷ et non est qui possit tuae resistere voluntati (そして,御意志に抗することができるような者はおりません,)
÷ si decreveris salvare Israhel (もしあなたがイスラエルを救おうと決断なさるならば。)
[10] ÷ tu fecisti caelum et terram et quicquid caeli ambitu continetur (あなたは天と地を,また天に覆われているすべてのものをお創りになりました。)
[11] ÷ Dominus omnium es nec est qui resistat maiestati tuae (あなたはすべてのものの主でいらっしゃり御稜威みいつに抗するような者はおりません。)

エステル記第13章第9–11節 (Vulgata)

ごらんの通り,言っていることは入祭唱アンティフォナとだいたい同じだが,使われている語句が異なるので,もとになっているテキストはVulgataではないことが窺われる。"si decreveris salvare Israhel (もしあなたがイスラエルを救おうと決断なさるならば)" が入祭唱に入っていないのも,もしかすると意図的に削ったのではなくて,もとになったラテン語聖書テキストからしてこうだったのかもしれない。
 入祭唱アンティフォナの前半 "In voluntate tua, Domine, universa sunt posita, et non est qui possit resistere voluntati tuae" については,カッシオドルスの詩篇講解 (第103 [104] 篇第27節の講解にエステル記が引用されている) に全く同じテキストが見られる (Patrologia Latina 第70巻 [1865年版] 第738段。段番号は版によって異なると思うので,お手元のPatrologia Latinaで第738段にない場合,上記の篇・節番号 [第103篇第27節] を用いて探していただきたい)。カッシオドルスの引用元となったテキストがこの入祭唱アンティフォナのもとでもあるのではと思いたくなるが,もしかすると実はカッシオドルスのころ既にこの入祭唱のテキストが定まっていて,彼はそれを引用しただけなのかもしれない (いずれにせよ,この件についてそれなりにはっきりしたことが言えるだけの知識は私には今のところない)。

 詩篇唱にとられているのは第118篇 (ヘブライ語聖書では第119篇) であり,ここに掲げられているのはその第1節である。テキストはローマ詩篇書にもVulgata=ガリア詩篇書にもほぼ一致している (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。唯一の違いは "immaculati" が両詩篇書では "inmaculati" となっていることで,これは音便の問題にすぎない。
 

【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】

In voluntate tua, Domine, universa sunt posita,

御意志によって,しゅよ,万物は置かれました,

in voluntate tua あなたの意志によって,あなたの望みによって,あなたの企図によって (voluntate:意志,願望,企図 [奪格],tua:あなたの)
Domine 
主よ
universa
すべてのものが (名詞的に用いられている形容詞,中性・複数・主格)
sunt posita
置かれた (動詞pono, ponereの直説法・受動態・完了時制・3人称・中性・複数の形)

et non est qui possit resistere voluntati tuae:

そして御意志に抗することができるような者はおりません。

et (英:and)
non est
いない,存在しない (non:[否定詞],est:いる,存在する [動詞sum, esseの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形])
qui
(関係代名詞,男性・単数・主格)
possit
~できる (動詞possum, posseの接続法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
resistere
抗する (動詞resisto, resistereの不定法・能動態・現在時制の形)
voluntati tuae
あなたの意志に (voluntati:意志に,tuae:あなたの)

  •  関係詞節に接続法が用いられている理由がよく分からないが,たぶんこれは《日本語では「~のような」「~ほどの」に相当する,事実を事実として断言するよりは傾向,可能性,程度,種類,結果などに言及している場合》(小林,p. 226) に相当するのだろうと思い,「~できるような」と訳した。が,《なんの必要性も感じられない接続法が関係代名詞節に現われることがある》(同,p. 227) そうなので,何も考えなくてよいのかもしれない。

tu enim fecisti omnia, caelum et terram, et universa quae caeli ambitu continentur:

というのも,あなたこそが何もかもを――天と地を,また天に覆われているすべてのものを――お創りになったのですから。

tu あなたが
enim
というのも~なのだ
fecisti
あなたがつくった (動詞facio, facereの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)
omnia
すべてのものを (名詞的に用いられている形容詞,中性・複数・対格) ……上では「何もかもを」と訳したが,この言葉のニュアンスが特にふさわしいからではなく,すぐ後の "universa" とこれとに異なる訳語を充てるためこうしたにすぎない。
caelum
天を
et
(英:and)
terram
地を
et
(英:and)
universa
(次の関係詞節で示される限りの) すべてのものを (名詞的に用いられている形容詞,中性・複数・対格)
quae
(関係代名詞,中性・複数・主格) ……直前の "universa" を受ける。
caeli ambitu
天の範囲で (によって),天の周回で (によって) (caeli:天の,空の,ambitu:範囲で,周回で [奪格])
continentur
含まれる,取り囲まれる,ばらばらにならないよう保たれる (束ねられる);構成される (動詞contineo, continereの直説法・受動態・現在時制・3人称・複数の形)

  •  "caeli ambitu" が何を意味するのかよく分からないのだが,直訳すると「天の範囲で (によって)」「天の周回で (によって)」「天の囲みで (によって)」といったところになる。というわけで "universa quae caeli ambitu continentur" は「天の範囲 (/周回/囲み) に含まれている (/囲まれている/束ねられている) すべてのもの」という意味だということになる。

  •  では,これは空に見えるすべてのもの,つまり天体を指しているのか,と思えるが,結論からいうと,どうやらそうではない。

  •  まず,ギリシャ語聖書に戻ってみる。この入祭唱アンティフォナのもととなっているラテン語聖書テキストは,どうやら七十人訳ではないギリシャ語聖書を訳したものである (エステル記にはもう一つ,A-Text [α-Text] と呼ばれるギリシャ語テキストが伝わっているが,これでもない)。しかし残念ながらそのギリシャ語テキストは残っていないので,とりあえず七十人訳を見ることにする。

ὅτι σὺ ἐποίησας τὸν οὐρανὸν καὶ τὴν γῆν καὶ πᾶν θαυμαζόμενον ἐν τῇ ὑπ᾽ οὐρανὸν (というのも,あなたこそが天と地を,また地上にあり天の下にあるあらゆる驚くべきものをお創りになったのです)

エステル記第4章第17c節前半 (七十人訳 [ドイツ聖書協会2006年版])
  •  このように,はっきり「地上にあり天の下にある」と言っている (「地上にあり」の部分は英語に直訳すると "in/on it" だが,"it" にあたる代名詞の性 [女性] から,これが「天」[男性] ではなく「地」[女性] を指していることが一義的に分かる)。今回問題にしているラテン語テキストと直接のつながりはないとはいえ,"universa quae caeli ambitu continentur" の意味するところは天体ではなく,天という覆いで覆われたすべてのものなのだと推測する一つの根拠を提供するものではないだろうか。

  •  さらに,そもそも "caelum et terram, et universa quae caeli ambitu continentur (天と地を,また天の範囲 [/周回/囲み] に含まれている [/囲まれている/束ねられている] すべてのものを)" というのは "omnia (何もかもを)" の言い換えとして現れている語句であることに注意すべきであろう。つまり,「何もかも」というからには,天を満たしているものだけでなく,天地の間や地上を満たしているものも含まれているはずだということである。

  •  というわけで,「天の範囲 (/周回/囲み) に含まれている (/囲まれている/束ねられている)」というのは,ここでは「天に覆われている」,つまり天・地・天地の間にあるものすべてを指すと考えるのが適当だと思われる。

  •  先人の (Vulgataからの) 訳を見てみると,DRA (Douay-Rheims 1899 American Edition) (当該箇所はこちら) は "all things that are under the cope of heaven (天の覆いの下にあるすべてのもの)",光明社版聖書は「すべ蒼穹おゝぞらうちにある物」としており,やはり (後者は別の意味にも取れるが,少なくとも前者は) 上記のような解釈になっている。

Dominus universorum tu es.

すべてのものの主でいらっしゃいます,あなたは。

Dominus universorum すべてのものの主 (Dominus:主,universorum:すべてのものの) ……補語。
tu
あなたが
es
あなたが~である (動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の直説法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)


【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】

Beati immaculati in via:

幸いである,道において非の打ちどころのない者たちは。

beati 豊かである,祝福されている,幸いである (形容詞) ……冒頭の語だが,意味から考えて主語ではなく補語。
immaculati
汚れのない者たちが (名詞的に用いられている形容詞)
in via
道において (via:道 [奪格])

  •  動詞がない。英語でいうbe動詞を補って考える。

qui ambulant in lege Domini.

[幸いである,] しゅの法に則って歩む者たちは。
別訳:主の法に則って歩む [道において非の打ちどころのない者たちは]。

qui (関係代名詞,男性・複数・主格)
ambulant
歩む,歩く (動詞ambulo, ambulareの直説法・能動態・現在時制・3人称・複数の形)
in lege Domini
主の法に則って,主の法のうちに (lege:法 [奪格],Domini:主の)

  •  これ全体が関係詞節であり,素直に考えれば前の "immaculati" にかかるものだということになるだろう (別訳) が,詩篇というものの構造上 (平行法),修飾しているというより言い換えていると捉えるのがよいのではないかと考えたのが第1の訳である。この場合,先行詞は "immaculati" ではなく,英語の "those who" でいう "those" のような漠然とした先行詞が隠れていると考えることになる。


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