来るべきよき時代のため,困難な時代のさなかに準備することについて

 13年も前,日本で大学生だったときに課題レポートとして書いたものを公開します。主な内容(そして原題)は「ハンガリー音楽教育・幼児教育近現代史概観」ですが,言いたいことは本稿のタイトル通りです。そういうのは大学の課題レポートとしてはどうなのかと言われそうですし,今は自分でもそう思いますが,そこは大目に見てください。引用文献の表示も不十分ですが,すぐ再調査するのも難しいので,当時書いたまま出します。
 太字による強調は原文にあるものではなく,現在の私によるものです。

ハンガリー音楽教育・幼児教育近現代史概観

 
 《諸井〔三郎〕は「私は自分自身の長い作曲活動の展開の後に」,「音楽の社会化と高度な音楽的社会の形成の必要を痛感した」〔と述べている〕》(原注1)

原注1 菅道子「昭和二十二年度学習指導要領・音楽編(試案)の作成主体に関する考察」『音楽教育学』第23号,1990。

 《日本の国民全体の広さにおいて,その音楽的性格を考えた時,やはり日本は東洋の一国であるという感を深くするのである。極く普通の家庭の中に一歩入れば,また都会を離れて農漁村に行けば(…)そこでは音楽は未だ発達した段階ではないにしても,本来の日本人をあらわす土台があり,学校教育の都会的な教養として教え込まれた西洋音楽のよそよそしさはみじんもない。ところが逆に都会のインテリの音楽の方はどうだろう。(…)それらはあくまで教養として,知識として,ある自己満足的趣味として受動的に享受されているといった情況である。筆者の経験では西洋音楽しか知らない日本の音楽インテリは,少くとも自分の音楽を本当には持っていない人びとであるとさえ断言できる。(…)実はもっと生産的であるべき音楽文化が一口でいえば,その生命力の担い手〔である田舎の人々〕と,創造的感性〔をもつ都会の人々〕の分離という,まことに根本的欠陥を不可避的に持っていることがわかるのである》(原注2)

原注2 小泉文夫『日本の音――世界のなかの日本音楽』pp. 96-97。

 以上はいずれも日本人が日本の音楽状況について述べたものだが,これとほとんど同じ問題意識をもって自国の音楽教育の改革に当たった人がハンガリーにいた。高名な作曲家・民俗音楽学者コダーイ・ゾルターンである。彼とその協力者たちの労苦は実を結び,ハンガリーは自らの民族的伝統に立脚しつつ高い芸術性に達した民衆をもつ素晴らしい音楽社会となり,その音楽教育の理念・方法も多くの国によって学ばれるようになるに至った。

 冒頭の2つの引用にあるような状況が今も続いていると思われる日本で(編注1),このコダーイを中心として改革されたハンガリーの音楽教育に学ぶ価値はなお大きいだろう。実際,1960年代ごろから日本でも多くの音楽教育関係者がこれを熱心に研究・紹介している。ただ,その中では理念的なこともしくは実践的な方法論のみが扱われることが多いので,本稿ではこのハンガリーの音楽教育を歴史という面から見てみたいと思う。

編注1 諸井三郎のほうはともかく,少なくとも小泉文夫の言葉についていうと,何を根拠に私が当時こう書いたのか,よく分からない。が,私はもともと18歳まで作曲を専攻していた人間であり,それゆえ明治以来の日本の作曲家たちの考えに触れる機会が比較的多く,その中で「日本独自の音楽を」というような論によく出会って影響されていたために,小泉のこのような論調に特に疑問を差しはさもうという気にならなかった,ということは考えられる。ともかく,ここで「音楽インテリ」について言われていることは,現在の日本の人々について現在の私が考えるところとは一致しない。

 ところで,ハンガリーの音楽教育の日本における主な研究機関である「コダーイ芸術教育研究所」は,ハンガリーの幼児教育をも研究・紹介している。私は,ハンガリーの幼児教育がその音楽教育のように特に優れたものであるのかどうかは不勉強にして知らない。が,次のような点で,この国の幼児教育を音楽教育と合わせて考えるのは有益であると考えられる。まず,コダーイが就学前の音楽教育こそ決定的に重要であるとし,彼の教育システムにおいて6歳までの教育は不可欠な部分を成していること。そしてそれゆえに,第二次大戦後にいよいよコダーイの理念がハンガリーの教育において実現していったことはこの国の幼児教育の整備ということを抜きにしては語れないこと,である。そこで,この国の音楽教育の歴史を述べてゆく中で幼児教育の歴史をも織り込んでゆくことにする。(原注3)

原注3 以下,幼児教育の歴史についてはOttó Vág, Public Preschool Education in Hungary : a Historical Survey, “Paedagogica historica” 1980に,音楽教育の歴史についてはラースロー・エウセ著/谷本一之訳『コダーイ・ゾルターン 生涯と作品』およびコダーイ著/中川弘一郎編訳『コダーイ・ゾルターンの教育思想と実践 生きた音楽の共有をめざして』に拠る。

 1867年の「妥協」によってハプスブルク帝国内における自治を獲得したハンガリーは,翌1868年,「学校法」において音楽を必修教科と定め,音楽教育においては民族の伝統を大切にすることを強調した。ハプスブルク家の支配下に置かれて以来,西欧化一辺倒のエリートのみが高度な音楽を楽しみ,教育はそのようなエリートによって担われ,マジャル民族の真の伝統を担う一般民衆(コダーイはそのように見なしていた)は取り残されている,という状況だったハンガリーの音楽と音楽教育が,「音楽は万人のもの」「民族の伝統に根差した,しかも高度な音楽文化」というコダーイの理念に近づいてゆく第一歩だったといえる。しかし民謡に基づく優れた教材がまだなかったため,成果は上がらなかった。

 幼児教育においても1867年は転換期の一つだった。自治獲得以来,経済と市民生活との進歩は幼児教育の需要を急激に拡大し,関連する施設や協会が次々に設立された。フレーベルの教育学などの研究も進んだ。1891年になると幼児教育は制度的にも整えられ始める。この年,ハンガリー議会は最初の「就学前教育法」を可決した。これ以降,それまでは慈善家などによって散発的に行われていた幼児教育が,だんだんと国によって行われてゆくことになる。なお,政府が幼児教育の整備に乗り出したことの背後には次のような思惑があった。当時のハンガリーでは労働運動や少数民族の運動など,体制に反発する動きが盛んになっており,政府はそれがハプスブルク帝国の完全な瓦解につながることを恐れていた。それを防ぐには社会階層や民族の多様性からくる敵意を抹殺してしまうのが有効であり,そのためには幼い頃からマジャル民族精神に基づく画一的な教育を行うのがよいと考えられた,というわけである。施行後,統一的カリキュラムをもつ公立幼児教育施設の充実が図られるとともに,3歳から6歳までの子供をこれに通わせることが義務づけられた。政治的意図に問題があったとはいえ,この体制はよい結果ももたらした。それまで整っていなかった幼児教育のカリキュラムがともかくも整い,またそれに伴って教員養成のシステムも整ったのである。そして実質的に初めて幼児教育が制度化されたことは,この分野に関する研究・議論をさらに活発にした。ただ,義務教育となったにもかかわらず,幼児教育施設への就学率は実際には第一次大戦直前の時点で15%にすぎなかった。

 ハプスブルク帝国の瓦解はついに避けることができず,まず1918年にプロレタリア革命政府が成立した。この政府の時代はハンガリーの教育にとっては希望ある時代で,政府は3歳から18歳までを義務教育とし,この一貫した義務教育の制度によりいよいよ幼児教育は教育上不可欠の位置を占めることになるかと思われた。一方音楽教育界では,この時代にコダーイがバルトークらとともに音楽教育上の要職につけられている。彼が就任したのは最高教育機関であるリスト音楽院(ブダペシュト高等音楽院)の副院長だったが,専門家教育の改革を考えるだけでなく,既に小学校の音楽教育にも取り組もうとしていた。

 しかしこの政府がすぐに倒れ反動政府が成立するとともにコダーイは解任され,さらに革命協力のかどで告発された。コダーイはほぼ無罪となったものの悪意ある工作によって2年間停職となった。この間コダーイは,体制の外で黙々と仕事をした。第一次大戦下においてさえ可能な限り続けていた民謡の採集のほか,自然と自宅に集まってきていた学生たちの教育もしていた。また,児童合唱に触れてこの世界への関心を高めたコダーイは,1925年,子供たちのために作曲することを始めるとともに,学校における音楽教育の重要性をはっきりと意識し始めた。価値ある教材による組織的な音楽教育が学校においてなされなければよい聴衆は育たない,と彼は述べている。その同じ1925年,学校での音楽教育の新カリキュラムが決定され,そこでは「自立した意識的な歌唱を基礎として」「永遠に価値あるハンガリーの歌」を教えることが目指されていたが,教科書は旧態依然であり,教師養成にも問題が残っており,その理念の実現にはまだ至らなかった。この体制下で,コダーイは音楽教育に関する論文の執筆,青少年のための民謡集の出版,教育用作品の作曲,といった仕事を着々と進めていた。また,コダーイのもとを巣立って熱心な音楽教師となった弟子たちは,ハンガリー各地で「歌う若者たち」という合唱運動を始めたり,合唱関係の雑誌を発行したりした。

 幼児教育界でも同じような過程がみられる。反動政府は幼児教育に無関心で,プロレタリア革命政府時代の夢は一旦破れた。幼稚園の教育方法は旧態依然で,しかも教育環境は悪化していた(1教師当たりの子供の数の急増など)。そうした中,研究者の中には,フレーベルやモンテッソーリといった優れた幼児教育家たちの著作を翻訳するなど,研究・紹介事業に努めた人々もいた。しかしファシズム政権の時代には,幼稚園は政府の道具にされて荒廃した。

 1945年,解放後のハンガリーは新しい学校システムの整備を進め,6歳から14歳までの義務教育制度を設けた。また,幼稚園の建て直しおよび新規建設を精力的に行なった。1953年に新しい「就学前教育法」が出され,そこでは幼児教育は小学校以降の教育への準備という位置づけを与えられ,発展していった。就学前教育を受ける子供の割合は増加してゆき,戦時中23%だったのが1979年には83.2%となっている。1948年以来学校がすべて公立とされていたこともあり,以上の諸改革は,統一カリキュラムによる一貫した教育を可能にし,実際ハンガリーの教育はそのようになっていった。そしてその中で,既にハンガリー文化のための著しい業績が認められ戦後すぐ科学アカデミーの会員(まもなく会長)や国会議員に選出されていたコダーイは,弟子とともに音楽教科書改訂やカリキュラム整備に尽力し,1950年には彼の理想に基づく「音楽小学校」も始まった(1956年正式に制度化)。こうしてコダーイとその弟子たちを中心にハンガリーの音楽教育はいよいよ進歩し,1964年にブダペシュトで開かれた国際音楽教育会議(ISME)の大会以来世界的注目を集めるほどになった。

 以上,「妥協」から戦後しばらくまでのハンガリー音楽教育・幼児教育史を概観した。私が現在参考にできる資料は先ほど脚注3(編注2)に示した3冊のみであるため,この歴史そのものの正確さなどについては今は論ずることができない。そこで,一応以上の概観を踏まえた上で,この歴史から我々が学びうることとして一点だけ考えてみたいと思う。

編注2 ここでは「原注3」。

 それは,不遇の時代において来るべきよき時代のために準備することの重要性ということである。音楽教育にとっても幼児教育にとっても大きな希望の時代だった1918-19年のプロレタリア革命政府時代の後,反動政府のもと一旦その夢は破れ,音楽教育も幼児教育も国レベルで本格的に整えられ発展していったのは第二次大戦後(ただし音楽教育についてはもう少し早くから始まっていた)ということになったわけだが,この発展を可能にしたのは戦間期における準備であったろうということを見逃すわけにはゆかない。体制と折り合いがあまりよくなかったコダーイを始めとする人々が,黙々と教師を養成し,民謡を収集し,教材を作り,論文を執筆していなかったら,1945年以降も,1868年のとき同様,せっかく制度がよくなっても効果は上がらなかったに違いない。幼児教育についても,音楽教育以上に不遇であった戦間期にフレーベルやモンテッソーリなどの研究・紹介を行なうことを通じて,いわば「ハンガリー幼児教育の良心」の命脈を保ち第二次大戦後につなげる役割を果たした人々が存在したということこそ,その後の発展のために重要だったのではないだろうか(こちらは音楽教育のほうと異なりあくまでも全くの推測である。確かなことを言うためにはなお研究を要する)。

 現在の日本にも,熱心に音楽教育の研究や学校外活動を実践している研究者や教師がたくさんいる。その集まりに出てみると,彼らの多くが教育行政への不安・不満を持っており,またそれに関与できないことのもどかしさもしばしば感じているらしいことが分かる。実際,授業時間の大幅な削減などに表れているように,現在の日本の音楽教育は不遇時代を通っているのかもしれない。しかしハンガリーの音楽教育・幼児教育,少なくとも音楽教育,の歴史は,そのような時代にも地道に仕事を続けて機会の到来に備えるべきことを我々に教えている。現在体制外において主に行われている彼らの地道な研究および教育実践がいつの日かさらに多くの実を結ぶことを願いつつ,本稿の結びとする。

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