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発話について

note更新3日目。坊主としては今日が最終日になる予定です。そこで、今までのメッセージを発信するあらゆるメディアの失敗について思い起こしました。

今までは、発話された言葉が空気にふれ、酸化してしまうことの羞恥に耐えられるかどうかが、鬼門でした。twitterもブログも何もかも結局は会話なので、コミュ絶(コミュニケーション絶無の略。コミュ障の上位概念)としては発話の苦痛に耐えられませんでした。始めた当初こそは「いいね」も押せていたのですが、だんだんとそのいいねが履歴として残ることにも恐怖があります。最近はyoutubeの履歴を残すことでホーム画面におすすめされるという機能を使っているので、少し成長しました。

それはそーと、成長はMTGのマナのように、毎日の量は人によって違うものだと思います。それでも繰り出していけばかなりの上級カードを呼び起こせるようになり、マナを使うことに慣れていくものなんでしょう。負けるな、自分。

詩の様な支離滅裂な言葉遣いでも自分なりのロジックがないと発話できないものなので、これには毎回のように苦労していることです。よく文脈が宇宙に投げ出され、言葉が不通になります。
そういう時に【法人格】キャラクターは便利です。投石器が無機物を礫の武器に換えていくように、とっ散らかっている内的言語を意味のある文章にするのです。

「キャラクター」なるものは法人のように効力を発揮するものであると思う。人々はその法人格に集まり寄り添う。世界観と呼ばれることもある。これはとても表象にされがち。絵に描かれやすいものだ。だからこそ「描けなさ」ノンヒョーシビリティなるものが、アンチラノベなるものが、キャラ化することで損なわれる存在の危うさをとどめることの方が、美しく希少性ある。しかしそれは「表現に堪えられない」。

こうして言葉は口を失い、沈黙の内に停滞してしまっていたのです。

続く。

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