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産土さまの不思議な話

鏑木浅間神社かぶらきせんげんじんじゃ

私が子供の頃、住んでいた街の近くに浅間神社が鎮座しています。

浅間神社せんげんじんじゃは数多くあるので、○○浅間神社せんげんじんじゃのように地名を前につけるのが、普通です。こちらの浅間神社せんげんじんじゃ鏑木浅間神社かぶらきせんげんじんじゃとおっしゃいます。

鏑木浅間神社かぶらきせんげんじんじゃは、建立は貞享2年(1685)以前と伝えられており、明治初年まで佐倉城内の浅間坂上に鎮座していたそうです。明治の中頃、佐倉藩の最後の藩主であった堀田正倫ほったまさとも邸(現:さくら庭園)近くの現在地に遷座せんざされました。
なので、今でも旧佐倉藩主の堀田家の参拝が続けられているとのことです。


せんげんさま

7月1日は富士山の山開きです。そして富士山の神様である木花咲耶姫命このはなさくやひめをお祀りした浅間神社せんげんじんじゃの祭礼日でもあります。

木花咲耶姫命このはなさくやひめは、子育ての神様であるいることから、数え7歳までの子供は家族と浅間神社せんげんじんじゃへおまいりするならわしがあります。それを通称「せんげんさま」と呼んでおり、お誕生初のお詣りのことを|初浅間《はつせんげん》と言います。

私は、幼い頃、体が弱くすぐに熱を出してしまう子でした。せんげんさま(7月1日)は、梅雨時ということもあり、家から近いにも関わらず、一度も行ったことがありませんでした。

前の年の暮れに肺炎で生死の境をさまよいました。(参照:鵺に乗って
あのような目に合いたくないと、数え7歳であるこの年は、どうしても行きたいと、子供ながらも決心していました。ですから母に連れて行ってほしいと、頼んで約束を取り付けたのでした。

どころが、当日の朝になって、祖母の具合が悪くなってしまったのです。母は、80歳を過ぎてる具合の悪い祖母を残して、出かけることが出来ずに困っていました。
私は、意外と調子が良かったので、
母に「一人で行ってくる。」と言うと、
母は心配そうでしたが「気を付けていくのよ。」送り出してくれました。

鏑木浅間神社かぶらきせんげんじんじゃは、厚生園という病院の近くの小高い丘の上にありました。階段を登った境内には、的屋てきやさんの屋台が立ち並び、大勢の人で賑わっています。

あまり人の多い場所には、行きつけていなかったので戸惑ってしまいました。早くお参りをして、帰りたかったのですが、人混みをかき分けて進まないとお社にはたどり着けません。


黄泉よみけがれを祓ってもらう

しばらく空くのを待とうと、境内の木陰でたたずんでいました。
すると、いつ現れたのか、神主さんとは少し違う白いころもを身にまとった方が後ろに立っています。

頭に響く言葉で「こちらへ来なさい。」と
その方は、まばゆい光に包まれて、私もその中に入って
浮びながら滑っていくと、いえば伝わるでしょうか。

光が近づくと、人が自然とよけて、お社の裏手の大きな木の下に移動しました。すると、その方は、注:1い竹ぼうきにしめ縄についている白い紙をつけたもので、私の身体中をバサバサっと祓っていきました。

注:1 後で考えると稲穂に御幣をつけたものでした

終わると、やはり頭に響く言葉で「これで黄泉よみけがれはすっかりなくなった。」というとそばの大きな木に吸い込まれるように消えていきました。

あっけにとられて呆然としていると、いつの間にか神社の階段の下にいました。階段の下から浅間神社せんげんじんじゃの神様にお礼を言って、家路に着きました。

日本の神話

家の帰って、どうせ信じてもらえないだろうなと、思いつつも母に浅間神社せんげんじんじゃでの出来事を話しました。やはり、話全体は信じてもらえませんでしたが、黄泉よみの国とけがれについては、説明してくれました。

昔々、イザナギノミコトとイザナミノミコトという夫婦の神様がいて、日本の国を作った。2柱(母は私がまだ幼いので2人といったお記憶しています)の神様は、日本の国を作った後、いろいろな神様を産んだ。奥さんのイザナミノミコトは、火の神様を産んだ時に火傷をして死んでしまった。

奥さんのイザナミノミコトが死んだことをとても悲しんだイザナギノミコトは、死んだ人の国へ行くことに決めた。この死んだ人の国を、黄泉よみの国というんだよ。イザナギノミコトは、黄泉よみの国で会ったイザナミノミコトは、とても醜くなっていた。イザナギノミコトは、怖くなって、逃げて帰って来てしましった。

母の話を要約するとこのようなものです。そして、けがれついては次のように説明してくれました。

お父さんがお葬式に行くと、家へ帰ってきた時にお塩をかけるでしょ。あれは死んだ人のそばに行くとけがれるから、それをお塩でお清めしているの。女の人も赤ちゃんを産んだ後、30日は神社にお参りしてはいけないの。

そう説明してくれました。
当時は、死んだ人の国へ行ったり、死んだ人のそばに行くとけがれるというのは、怖いところへ行くとけがれるくらいの認識でした。赤ちゃんを産んだ後というのは、いまいちピンときませんでした。

日本の神話に興味を持った私は、調子の良い時に本屋へ出かけて、イザナギ、イザナミの載っている絵本や子ども向けの本を買ってもらい、読み漁りました。子どもながらに国産みの神話や、黄泉よみの国の神話に詳しくなりました。

その当時鏑木浅間神社かぶらきせんげんじんじゃで起こった出来事を子どもなりに考察しました。私がぬえに乗って行ったところは、黄泉よみの国だった。黄泉よみの国で会ったお坊さんは、この世に返してくれただけで、怖い思いをした穢れを神社で会った神様が祓ってくれた。そのようなものでした。

子どもなりには、一生懸命考えていたと思いますが、今思い出すと笑ってしまいます。

麻賀多まかた神社

月日は流れ、私は中学生になりました。
私の家から通っていた中学校へ行く途中に、私が住んでいた町の氏神様である麻賀多まかた神社があります。

10月の第二金曜~日曜は、麻賀多まかた神社の例大祭です。
祭礼期間中は人形山車と御神酒所おみきしょと呼ばれる囃子屋台が佐倉囃子ばやしを奏でながら市中を練り歩きます。私が住んでいた町会は、所帯数が少なかったので、私も中学に入った頃から御神酒所おみきしょで太鼓を叩いたりしていました。

初日と最終日は、麻賀多まかた神社の大神輿が珍しい「明神祭りさらば久しい」の掛け声で各町会を巡幸されます。「明神祭りさら、さら、さらば久しい」と神輿を左右に大きく振る「揉み」は、とても興奮しました。

祭礼の興奮がまだ冷めきれない翌日、通学の途中でに麻賀多まかた神社の境内に入ると、小学校1年の時に鏑木浅間神社かぶらきせんげんじんじゃで出逢った神様がいらっしゃいました。ああ、この方は麻賀多まかた神社の神様だったのか、妙に納得しました。

ふと、神様に目を戻すと、口元をほころばせ、静かに消えていきました。神様もお祭りの興奮が冷めきれずにお姿を現したか、と思うと人間臭さを感じて、微笑ましく感じました。

そして、小1の時に、このような温かみのある神様が、黄泉よみけがれを祓ってくださったのかと、思うと有難く、目頭が熱くなりました。

麻賀多まかた神社で神様にお目にかかってから、あんなに病弱だった私が、中学を卒業するまで、無遅刻無欠席の皆勤賞でした。

私は、物心ついたときから佐倉に住んでいます。ですから麻賀多まかた神社で神様が産土うぶすなさまだといっていいでしょう。今回は、心優しい産土うぶすなさまに助けていただいた不思議なお話でした。

人は、一人では生きていけないとよくいわれます。家族、友人、神様、仏様、ご縁のあった方に助けていただいて生きていることを忘れずに、感謝の気持ちを心の中心に置き、生きて生きたと思います。

貴重な時間を割いて、最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。







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