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何者かになること、自分ではいられなくなること

この記事は、私の推しのVtuber 神崎メイサ様の活動方針「変身願望を叶える」を軸に、ライブに行った体験とフランス現代思想を少し混ぜて、何者かになることについて考えたことを書いたものです。
可能な限り専門用語を控え、日常生活で経験しやすい例を挙げています。
最終的には神崎メイサ様や元の思想家から離れていきますが、この文章自体が何者かになろうとした結果を表現していると読んでくれると嬉しいです。

変身前夜の現在

まず、自分ではない何者かになる、あるいはなろうとする人とは、どのような人だろうか。
例えば、歌手や俳優、声優といったテレビや映画、Youtubeなどの動画配信といったメディアで触れる人々に憧れ、憧れている人のようになろうとする人がいる。あるいは、仕事やプライベートを充実させるために、資格を取ったり言葉を身につけたり、行ったことない場所へ旅行したりする人もいる。
深刻な場合には、自身の劣等感の克服や置かれている苦境の脱却のために自分を変えねばならない人もいるだろう。
つまり、憧れの想像の世界へ没頭するために自分を変える人もいれば、目の前の現実に抵抗するために自分を変える人もいるということ。

ここで挙げた例は、言ってみれば意識して自分を変える人だと言える。逆に、意識しなくても人は自分を変えている。さらに、意識して自分を変えない人もいる。

次に、意識して自分を変えること、あるいは変えないことに注目してみよう。
最初に断っておきたいのは、自分を変えないこと=ガンコ者であるということではない、ということ。こだわりを捨てないことも変化を拒むことではある。しかし、もっと広く行われているのは、未知のものに手を出さないこと、あるいは自分にはできない(であろう)ことから目を背けることである。
「わからないからやらない」、「わからないから関わりたくない」、「自分は〇〇な人間だからそれは無理かも」といった具合に。
自己防衛のあり方としての変化の拒絶が、意識して自分を変えないことの例である。こだわりは自己防衛ではなく、むしろ世界や物に対する積極的で閉鎖的な参加だと言えるかもしれない。

この自己防衛の瞬間こそ、変身前夜の現在である。
今まで自分が生きてきた、過去の先端にいる今。これまでの過去の延長線のように変わらず伸びていく今を、変わらない生き方を選択することがほとんどであろう。
一方で、これまでに生きてきた過去を裏切るように、あるいはそのような過去はなかったかのように、自分が壊れることも恐れずにふるまうことこそ、変化だといえよう。
コスプレは、明確に自分であることを拒絶する。
あるいは、Vtuberのように自分ではないものの姿を纏うことは、もっとわかりやすく自分ではない生を生きることである。
さらには、新たな言語を話せるようになること、イラストを描けるようになること、他者の思考を借りて考えること、これらも自分のこれまでの動きや思考、あり方を壊していく能動的な変化である。

その変化を引き起こす瞬間に立つこと、変化を招き入れることは、過去と未来の間に立っている今の自分を、自分が予想する姿に近づけることであるはず。
しかし、実際に変化を起こした瞬間には、今だったはずの過去と決別しなければならなくなる。また、予想していた未来とも決別しなければならない。

変身後の過去


ガラケーからスマホに乗り換えた瞬間を体験した人も多いことだろう。ボタンを押す感覚から画面の上で指を滑らせる感覚へと移り変わる、あの瞬間。日本語の場合は特に、同じキーを複数回押す必要があったが、最近ではフリック入力によって「押す」よりも「滑らせる」方に動きは変わってきている。
以前、昔使っていたガラケーのデータをスマホに移行させようとした時に、久しぶりにボタンを「押した」。タップに慣れてしまったせいで、親指でボタン押す瞬間に乱暴さを感じた。

自転車や箸を使いこなせるようになった瞬間を覚えている人は少ないはず。あるいは覚えていても、それまで使いこなせなかった時の感覚を思い出せる人は滅多にいないだろう。

何かができるようになる、あるいは今まで触れていたものを手放して新しいものにまるっきり移行してしまう。この移行によって、人はできなかった状態を忘れていく。

コスプレによって今までとは違う自分の姿で歩くことも、一時的に大きな変化を生じる。衣装が脱げなくならない限り、元の自分を忘れることはない。しかし、それでも今までの自分を少しずつ忘れるのである。
自分の身体を作り変える、あるいは自分の身体で装うということは、元の素のままの姿でしか生きてこなかった過去に対して拒絶となっていく。
私は女装して化粧したこともあるが、男としての生以外に開かれていく自分の身体を見た瞬間に、男としてのみ生きる道以外の選択肢を取ることも可能だと気づいた。別に容姿が可愛かったわけでも、美しかったわけでもないが、自分の考えもつかなかった姿を自分が取りうるという、素のまま生きることを拒む選択肢を手に入れたのである。

話を戻そう。変化によって生じる、自分が何かに、何者かに移行することとは、過去の自分との決別である。それは、思い出せないという忘却による、意図しない別れなのである。さらに、変化したことで新たに見出される選択肢は、それまでに予想した未来とは全く異なる未来の姿を予感させる。
生きている今という瞬間が、ありとあらゆる方向へと突き進み、開かれていくのを感じるのは、変化を経験してこそであろう。

ゆるやかでしなやかな狂気を帯びること

しかし、それではなぜ、このような可能性を秘めた変化に身を投じないのか。もっと言えば、変化を起こす気がなくなるのだろうか。
赤信号、みんなで渡れば怖くないという言葉を聞いたことがある人もいるだろう。もちろん進んで渡るべきでは決してないし、拠ない理由があったとしても敢行していいわけではない。
赤信号を進まないのは、ルールで定められているからではあるものの、私たちは自然と赤信号を見ると足を止めてしまうのではないだろうか。
私の推しの神崎メイサ様も、異国で交通量が少ない信号でも、赤信号が青に変わるのを待っていたという。(そして罵倒されるという理不尽な目にも遭っている)

この自然に足が止まるという動きは、ルールを守りたいという感情ではなく、そう振る舞ってしまう自分の体によってなされている。
無意識というよりも、「これはこうあるべきだ」という観念がそうさせているのである。
もしくは、「こうあってはならぬ」という観念が別の行動をせき止めている可能性もある。

いずれにしても、自分が自覚的とは言えないレベルで(加えて無意識とも言えないレベルで)行動する、あるいは行動しないを選びとっているのである。ここに意識的に変化を拒む次元が加わってくる。
それは、他人の目線によって自分を制御する動きである。

小さい子が公園で戦隊モノのヒーローやアニメのキャラクターのマネをするのを見たことがあるかもしれない。微笑ましい光景であって、そこに違和感はあまりないだろう。
しかし、演者を今度は成人男性にするとどうなるか。もちろん、違和感の塊としか言いようのない光景が広がるだろう。
この違和感は、自分がその男性を理解できないために生じている。あるいは、成人男性はそういう行動はしないものという社会一般の通念があるためでもあろう。
こうした理解できない、社会通念からはみ出していると感じる状態を、狂気という。
しかし、ここでの狂気は、精神が錯乱していたり、障害があったりする人の状態を指す言葉ではない。それにそういう人も見てもそう思うのは善いあり方ではない。

狂気を持つものは狂人である。おそらく、狂人といわれると死にたがりやサイコパスを想像するだろう。しかし、そうではない。
むしろ、身近なところに狂人はたくさん存在する。

推しのライブ「VackOn!! Vol.3」に参加した時のこと。
推しの歌声の素晴らしさは自明なので割愛するが、私の推しは仕事とVの活動を兼業している。つまり、生きるための手段としてVtuber以外の仕事という(社会的にみれば)真っ当な選択肢をもっている。しかも根が真面目っぽい。可愛い。

当日の他の配信者さんや演者さんの中には、推しとは異なり、歌だけで活動している人もいる。
さて、ここで読者の皆さんには18歳になる子どもがいるとする。その子どもの能力は好きに想像してもらっていい。その子が社会に出るという時期になって、歌だけでお金を稼ぐという選択をしようとしたら、どうするだろうか。
私の甥がもしあと10年もしてそう言い出したら確実に止める。CDの売り上げとかですでに収入が安定していれば別だが。
ともかくも、(社会的にみれば)真っ当ではない選択肢をとろうとする者を、私たちは心のどこかで私たちとは異なるものとして見ている部分があるのではないだろうか。
つまり、狂人として眺めている節があるのではないか。

何者かになろうとする人、変身願望を叶えようとする者への好奇か羨望かはわからないが、そうした眼差しを向けている場合には、少なからずそういう人へ私たちは狂気を感じているのである。しかし、この狂気は既存の社会集団から逸脱させるような過激なものではなく、むしろゆるやかに自己実現を後押しする。人に対して、しなやかに変わる強さを与えるのが、狂気なのである。

ゆるやかでしなやかな狂気を帯びながら、今までの自分と別れること。それこそが変身であろう。
変身願望を叶えるためには、一時、その身を狂気にやつしてみる必要がある。
世の中には狂気そのものを不安視し、拒絶する人もいる(私からしたらそういう人間こそ狂人なのだが)。
しかし、この狂気を乗りこなしてこそ、現在からは見えない新たな選択肢へと自らの手を伸ばしていくことができる。

もうあとには戻れないとしても、たとえ狂気の先に何が待っていても、目を塞いで留まり続けるよりも、いくらかマシなように私は思う。

私の推し🫶
神崎メイサ:X(@Kanzaki_Meisa)
     :Youtubeのリンク

よければ前に書いたVackOn!!の記事もどうぞ!

参考文献
・檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』(ちくま学芸文庫、2019年11月)
・ガリー・ガッティング『フーコー』(岩波書店、2007年2月)
・村上春樹『1Q84』(新潮社)

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