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デザイナーベビーって、理想の未来にいるのかな?

昨夜、たまたま主人が見ていたJリーグタイムズの後に流れたタイトルが気になって、珍しくTVの前に座ってきちんと番組を見ました。番組タイトルは『2030 未来への分岐点「“神の領域”への挑戦〜ゲノムテクノロジーの光と影〜」』

今l現在、中国やアメリカを中心に、ゲノム解析がどこまで進んでいるのか。倫理観の議論が尽くされぬまま、実用化、商品化がなされているのかが、よくまとまっていて興味深かったです。

アメリカの研究者が、狙いをつけた遺伝子を書き換える技術ですでにノーベル賞を受賞しており、主に穀物分野において、生産性や栄養価が強化された種子の開発・販売に多額のマネーが流れていること。コロナウイルスのワクチンに応用されていること。さらに、生命体(マリモとカリフラワーの間の子みたいな形でした…)を作った研究者がいることなどが挙げられていました。

中国では、主に臨床分野で、末期ガン患者に対する治療が始まっていること。また、遺伝子操作を施した実験用ラットを生産する会社が、人の遺伝子を操作した治験薬にも着手しており、将来的には採算性の高いそちらをメインにしていく予定であるなどが語られました。

そして、デザイナーベイビー‥つまり、子供を授かるにあたって、遺伝子をより希望のものに置き換えられるレベルに、技術が近づいてきていること。

この技術は、そもそも難病予防の手段として開発されたもののようですが、SF世界的に、優れた遺伝子を持つものが特権階級となり、それ以外を排他し、経済格差を助長させるだけになってしまう危険性に触れ、世界共通の倫理プラットフォームがない中での技術発展は許されていいのか、という話でした。

さて、私がそれを聞いて思ったのは、もう少し前段階の「デザイナーベビーは、確実に優れることができるのか」ということでした。デザイナーベビーを望むカップルはいるでしょう。どこからが難病予防なのかの線引きもむずかしい。禁止している国がある一方、禁止しない国があり、技術が実用化された時、そこに飛び込む人は必ず出てくると思うのです。そういう意味では、もう賽は投げられたということになるのかもしれません。

ところが、デザイナーベビーというのは、優良で望まれた遺伝子をもった以上、素晴らしい人になるのか…というと、案外そうでもないんじゃないかな、と思ってしまうんですよね。

というのは、私は兄弟にいわゆるギフテッドがいるからです。彼女たちを見ていてすごく思うのは、特定の分野で素晴らしい才能を発揮する一方で、多くの人が当たり前にできることが苦手だったりして、割と苦労している。よく性格診断で使われるような、レーダーチャートをイメージしてもらうとわかりやすいかもしれません。六角形だか八角形だかのその形が偏っていて、下手したら三角とか、矢尻のような形になっちゃったりするわけです。日本が比較的綺麗な正六角形的人格を尊ぶ傾向にあることを抜きにしても、日常生活で困ったりすることもあります。

なので、持って生まれたレーダーチャートの偏りの中で、中の面積を大きくしようとするわけですが、それには本人の経験(大抵苦い)とか努力(大抵つらい)が必要不可欠。強靭な理性、知性が求められるし、それを導く親の負担はそれはもう別格です。得てして、そういう家族には、他にも似た傾向の人がいたりして、なんとなく傾向と対策があったりするものですが、それがない家庭に突然やってくると、それはもうどうしていいかわからないんじゃないかな、、と思うわけです。

世界の名だたる偉人たちの遺伝子が手に入ったとして、その苦労やある意味での異常性(特異性)を引き受ける覚悟があるか?ただの二番煎じを超えることができるのか?

これは、結構大きい問題だと思います。

さらに、排反性ということも、考えなくてはいけない。

例えば、長距離選手と短距離選手の筋肉は、赤い筋肉と白い筋肉の割合が違うと言いますよね。両方をたくさん持ったところで、反対の筋肉が邪魔になるわけです。

性格にしてもそうで、全てを強化しても多分何にもならなくて、相反するものをきっちり線引きする必要がある。それがすごく難しいし、「あー、これ割合失敗しちゃったから、次はこうやって作ろう」って、兄弟が増えた時、一体誰に愛情を注げばいいのでしょうか。

更には、思いがけない割合配分が、犯罪傾向を高めたりする恐ろしさにもっと気づいた方がいいと思うんです。(力持ち、優しい、ハンサム、記憶力が抜群…などなど組み合わせた結果が、性的異常傾向を持たない保証がどこにあるでしょうか?)

他方で、容姿の流行(色白で華奢なタイプが好まれたり、エキゾチックでゴージャスなタイプが好まれたり)とかが数年おきに来たりして、「あの人の顔立ち(スタイル)は○○年代ね」なんてなったりするのも、容易に想像できる。そして、その中からスーパーモデルは多分生まれない。

突出した才能は、思いがけぬ配剤と、本人と家族のたゆまぬ努力があってこそ。人が作り出せる才能は、なんとなく所詮その程度なのではないかとどうしても思ってしまうのです。


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