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善行と悪行は同じ帳簿にいない

 私にはパワプロクンポケット3というゲームにハマっていた時期がある。野球選手を育成していくゲームなのだが、ゲーム内でのプレイヤーの選択により主人公の善悪が変わるシステムが採用されていた。この変数は「善悪度」と呼ばれる数値で管理されており、チームメイトにひどいことをして「悪」に振れても、他のイベントで善行していけば最終的に「イイ奴」としてゲームを終えることができた。当時の自分にはこのシステムに対して、違和感が少しだけ胸の中に存在していた。

 資本主義に慣れきった、もしくは飼いならされた我々は、どうしても対義のものをプラスとマイナスで勘定する癖がついてしまっているように思える。そしてその延長として「善と悪」についても我々はプラスマイナスの勘定で考えがちである。
しかし違うのだ。善行と悪行はともに積みあがっていくものなのではないだろういか。古いゲームの話で申し訳ないのだが、パワプロクンポケット3の「善悪度」方式ではなく、ロマンシング サ・ガの「悪行値」「善行値」方式なのではないだろうか。

 悪行の償いとして善行をして善行ポイントを稼ごうとも、悪行ポイントは消えない。これがお金の話であった場合、マイナスである借金に対してプラスの現金を払えば帳消しになる。しかし、善行と悪行は資産計上とは異なるのだ。善悪の帳簿は同一ではなく、それぞれ別の帳簿の上にしっかりと残るのである。

「いじめられるほうに問題があった」「あいつだって悪いことしてただろう」なんて理屈も別帳簿として考えれば、的外れな屁理屈であると断ずることができる。別の人間が悪行ポイントを加算したからと言って、貴方が悪行を積んでいいことにはならない。
 罰を受けても悪行ポイントは消えないし、誰かの悪行に対して罰を与えても貴方の善行ポイントは増えない。他者から許されても、法的に償っても悪行ポイントは消えないのである。人の命を救おうとも、回転寿司屋で醤油さしを鼻に突っ込んでしまえば、その行為により悪行ポイントは加算されるのである。

 だから一日一善で善行を積んでいくことも大事だが、一日零悪で悪行を積まないこともまた大事なのである。両方とも継続していかなければならない。

 しかしながら、溜まりに溜まった悪行ポイントがどのように作用するかは私にはわからない。死ぬまでその報いを受けない可能性もあるし、ポイント5倍デーよろしく些細な悪行が大きい跳ね返りとしてその身に降りかかる恐れもある。
 この世は公正世界ではないのだ。応報しない因果も十分ありうる。そういう世界に我々は生きている。だが、個人としては積み上げた悪行が自身に作用する恐れがある以上、そのリスクを回避すべく悪行を積まないことが最善ではなかろうかと私は思うわけだ。

 昨今は不正が一つ明るみに出れば光の速さで衆目にさらされる。
衆目に晒された悪事について誰しもが簡単に言及し、それを発信できる世界となった。
 昨今よく見かける、不正を糾弾することについて、これは悪行ではないが善行でもないと私は考えている。

 憂さ晴らしが目的と化した糾弾や非難は、自分の欲望を満たすために相手に危害を加えるという点でまぎれもなく悪行である。
 人を痛めつける行為は、用いる道具が正義の聖なる盾であろうと、相手が極悪人であろうと、まごうことなき悪行なのである。そしてその行いをした人間は真の悪党なのだ。反撃できない相手であればなおさらである。

あなたの悪行帳簿は大丈夫だろうか?

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