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悪意

 この世界は「悪意」に満ちている。罵詈雑言あふれるインターネットの炎上から、他人を道連れにした自殺まで。たとえ自分の幸せを犠牲にしても、相手をもっと不幸にさせたい。そんな「悪意」があふれている。
 
 ぼくが通った高校は「自利利他の精神」を大切にしていた。よく校長がこんな話をした。
 他人をかえりみず、自分の幸せを求めるのは「利己主義」である。当たり前だが、全員が自分の利益だけを追求すれば、社会は壊れてしまう。私たちが共に生きていくためには、他人の幸せを思いやれなくてはならない。
 しかし、このような「利他主義」だけを実践するのはむずかしい。他人のために自分の幸せを犠牲にするなんて、ほとんどの人ができないからだ。「利己」はダメだが、「利他」は困難だ。
 だからこそ、「自利利他の精神」を大事にしなさい。自分のためになることが世のためひとのためになる。自利利他の精神」をもって生きれば、私たちの社会は明るくなる、と。 
 
 朝礼で校長の話を聞かされるたびに、高校生のぼくはモヤッとした気持ちになった。

 高校時代のことを思い出したのは、「自利利他の精神」を最近よく見かけるからだ。あらゆる人がさまざまな言葉で「自利利他の精神」を説いている。

 たとえば、最近の思想や哲学の分野では「利他」が大切だという話をよく見かける。本もたくさん出版されて、新聞にもよく取り上げられている。ざっくりいうとこんな感じだ。

 資本主義の行きすぎは良くない。社会をかえりみず、人々はお金儲けに走っている。このような「利己主義」が市民社会や地球環境に悪影響を与えている。私たちは、他人を助けたり、配慮したりする「利他」の精神を忘れてないだろうか。子供や老人といった弱者にケアしたり、配慮できる社会をつくることが、私たちの未来を持続可能なものにするのだ。
 といっても、「他人のために自分の幸福を犠牲にしろ」とまでいうと、普通の人にはなかなかできないから、「自利利他でやっていきましょう」という話にたいてい落ち着くことになる。

「利他」の素晴らしさを説く人は新自由主義を悪者にしがちだ(もしくは資本主義?)。新自由主義は「自己責任論」を説いて他人の幸せをかえりみず、自分の利益だけを追求する「利己主義者」を生み出す元凶だと思っている。まあ、たしかに他人をかえりみない利己主義は問題である。

 しかし、ビジネス書を読むと、他者への思いやりの大切さが説かれていたりする。それもそのはずだ。お金を儲けたい。豊かな生活がしたい。たしかにビジネスの出発にあるのは利己心だ。しかし、他人が必要とするサービスや商品を与えなければ、自分の利益は生まれない。それが商売なのである。
 つまり、市場経済には「利己」をうまく「利他」に変換する側面があるのだ。だから、「会社を起業して社会貢献したい」とよく語られるのは、あながち嘘ではないのだ。ビジネスにおいても「自利利他の精神」は必要なのである。

 自利利他自利利他自利利他自利利他。あらゆるところでさまざまなひとがいろいろな言葉で「自利利他の精神」を語っている。なので、高校時代のことを思い出したのだ。しかし、こんなにも「自利利他の精神」を説く言葉があふれているのに、なぜこの世界はギスギスして嫌な感じなのだろう?
 逆に考えると、これほど繰り返しあらゆるところで「自利利他の精神」が説かれるのは、ぼくたちが「自利利他」とは真逆の精神も持つ生き物だからではないか。
 つまり、「自利利他」ではなく「自損損他」。「自分のためになることが世のため人のためになる」とは真逆の精神。自分が損してでも相手にもっと損をさせたい。自分の幸せを犠牲にしてでも、相手を不幸にしたい。そんな「悪意」が人間にはあるのではないだろうか。

 高校生だったぼくが校長の話にモヤッとしたのは、きれいごとばかりお説教して、どうも人間に確実に存在する衝動を見ようとしない感じがしたからだった。しかし、うまく言葉にできなかった。だが、最近になって、その人間のいやな一面を「悪意」と呼べばいいというヒントを得たのだった(『悪意の科学』)

「悪意」はとても厄介である。他人に危害を加えてもなんとも思わない利己主義者はたしかに問題である。しかし、決して自分にとって不利益になることはしない。だから、どこかでセーブがある。ストップする地点がある。しかし、自分が損をしても他人を不幸せにしたい人々は歯止めがない。ある意味で「無敵」である。

 このような「悪意」は、罵詈雑言あふれるインターネットの炎上から、無差別に他人を道連れにする自殺まで、あらゆるところに存在している。注意すべきは、このような「悪意」が特定の一部の人だけに存在するのではなく、あらゆる人が持つ可能性があるということだ。

 ストレスの多かった会社を辞めると決まったとき、業務の引き継ぎに必要なデータを消去したい衝動に駆られたことはないだろうか? 
 たとえ警察に捕まったとしても、自分に屈辱を与えたあいつに復讐したい気持ちになったことはないだろうか? 
 きらいな芸能人が炎上しているとき、あなたもちょっとした暴言を投稿したことはないだろうか? 

 このような「悪意」に取り憑かれたことがない人は幸いである。しかし、ほとんどの人がそんな衝動を感じたことがあるはずだ。

「悪意」に塗れて生きていく。「悪意」のなかで生きていかざるをえない。それは他人の「悪意」に直面するということでもあり、自分のなかに湧き上がる「悪意」とも付き合っていくということでもある。

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