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体育祭の陽キャ、苦手。~正義とか同調圧力とかの話~

「体育祭の陽キャ、苦手」

最近ふと感じたことです。

もちろん誰かを糾弾したり非難したりしたいわけではなく、
よく考えてみたら私にも思い当たる節が多々あるな、と思ったため
自戒のために書く備忘録です。
ご気分を害される方がいたらごめんなさい。

正義っぽいものに巻き込んでいく同調圧力

陽キャ、陰キャ、リア充、非リア、みたいな言葉。
もしかしてもう死語?と少し不安なんですが、どれかと言われたら私は「陰キャ」系です。

とはいえ、特に学生の時はそんな風には見られたくなかったので、
適度にカースト上位の子とも仲良くして、どの層の子とも幅広く平等に接するように心がけていました。

そんな私が、学校の中で言えばカースト上位に君臨する陽キャたちと最も距離を置きたかったのが体育祭や文化祭の時です。

彼らは事あるごとに「絶対優勝!」などと口にし
ロングホームルームの時間があれば、「当然」という顔をして体育館を借りてきて練習を強制したり、
朝練や放課後の練習を強制したりします。

この時、彼らの正義は「クラスで一致団結して優勝する!そのために努力する!」ことにあるので
”そうではない人“のことなんてお構いなし。
”そうではない人”が優勝よりも大切にしたい部活や家の用事やテスト勉強なんかは二の次です。
バイトくらいは大目に見てもらえますが、
基本的に「優勝のための努力が最優先」なのです。

しかし、彼らにとっては”そうではない人”がいること自体が想像の範囲外なので、
別に悪気があって無理やり朝練や放課後の練習を強制しようとしているわけではありません。
ただ、己の中にある「絶対的な正義」を貫くために、彼らなりに苦労して努力しているのだと思います。

私は、彼らに対して少し「いやだな、苦手だな」と思いますが、彼らに悪気がないことを知っているし、
このシチュエーションにおいては、客観的に見れば「優勝するために努力するべき=正義は陽キャ側にある」と思うので、従うほかありません。

私は高校の時、(陽キャを装う)陰キャにもかかわらず、体育祭では何度かクラス対抗リレーの選手に選ばれたことがあります。
(それまで運動音痴気味だったのに、高校に入ってからなぜか運動神経が急激に上がったためw)
クラス対抗リレーの選手はクラスを背負って走る代表者であり、陽キャたちの声援は私たち4人に一気に注がれるわけです。

「しおり、がんばって!優勝目指そう!」
「応援してるから!すっごい大きい声出すからね~」

と、彼らは気さくに話しかけてくれます
(陽キャさんたちがコミュ力の高いめっちゃいい人たちであることもわかっています)

ただ、高校3年生の時は直前になって胃腸炎でダウンしてしまい、結局他の人に走ってもらった、という経験もあります。
今にして思えば、私が今感じている違和感や苦手意識があのときも無意識にあって、プレッシャーで胃に来たのではないかと思います。
メンタル弱!

ちょっと話がそれましたが
私はそんな「体育祭の陽キャが苦手」なのです。

つまり、ここで言う「体育祭の陽キャ」というのは、大人っぽい言葉で言えば「同調圧力」とも言えるかもしれません。

Wikipediaでは、同調圧力というのは

地域共同体や職場などある特定のピアグループにおいて意思決定、合意形成を行う際に、少数意見を有する者に対して、暗黙のうちに多数意見に合わせるように誘導することを指す。

とあります。

ただ、これは私がここで言いたい感覚とはちょっとだけ違っていて、
多数意見に引っ張られる、とかではなく

特定のあるグループにおいて
特定の人間が考える「正義」(しかも客観的にはめちゃくちゃ正義っぽい)に基づいて物事が進んでいく
かつ、その物事はこちらの同意を得ることなく無条件にほぼ強制的に進められていく

ことに違和感や苦手意識があるのですが、ここではそれも含めて同調圧力と言うことにします。

では、なぜこういった体育祭の陽キャ、もとい同調圧力に私が違和感を覚えるのか。
考えてみたところ、4つの理由が浮かびました。

・同意なしに、声が大きい人に引きずられなければならない違和感
・正義の優先順位
・「美しい正義」は断りづらい
・正義の程度の差

どういうことなのか、それぞれを詳しく書きます。

同意なしに、声が大きい人に引きずられなければならない違和感

クラスにおける陽キャ、カースト上位の方々は
人数で言えばクラスの5分の1程度であるにもかかわらず
その声の大きさ(発言力)から、クラスの方向性を大きく左右することがあります。

彼らが「団結こそ正義」だと思えば、そのクラスは優秀で、行事でもいい成績を残す、まさにきれいな青春!と言わんばかりのクラスになります。
一方で彼らが「反抗こそ正義」だと思えば、先生いじめに始まり、授業のボイコット、たばこやお酒は当たり前、という荒れたクラスになることだってよくあることです。

つまり、クラスの中では声が大きい人が作り出す「正義」が絶対なのです。

私は荒れた中学の学級崩壊したクラスから、優等生しかいない進学校の選抜クラスに進学したので、そのどちらの空気もよく知っています。
そして驚くべきことに、陽キャの影響力はどちらの環境でもほとんど変わらないのです。

学校のクラス、という未成熟な人間が集まる極端に狭い世界を例に挙げていますが、
これは会社だろうと町内会だろうとPTAだろうと、どんな組織でも多少の差はあれど同じことが言えると思います。

そしてこれも大事なことですが、私たちは日々複数のコミュニティに所属して生きているので、
あるコミュニティでは声の大きな人間の同調圧力に辟易としながらも、
もう一方のコミュニティでは勝手に正義を作り出す声の大きな人間になってしまっていることも普通にありえます。

かくいう私はまさにこれに当てはまる人間で、
時には私自身が声の大きい陽キャなのです。(とてつもなく反省)

例えば以前、生い立ちも生活環境も全く異なる初対面の方と複数人で生活をともにしたことがありました。
その中では私は声の大きい陽キャだったのだと思います。

そのコミュニティは参加も辞退も自由だったのですが、ある時、なんとなく合わないから抜ける、という方がいました。
そのときは、「そっかあ、残念だなあ」くらいにしか思いませんでしたが、
今にして思えば、その「なんとなく合わない」空気を作り出していた張本人が私だったのだと思うのです。

これは私も反省したいことだし、同時に、声が大きい人に引きずられなければならないことに大きな違和感もあります。

じゃあ結論、どうしたらいいのかという点なのですが、
私は、もう何があっても引きずられない
と決意しています。

たとえそうして自分が異分子になってしまい、そのコミュニティを追われてしまったとしても、
誰かが勝手に作り出した正義に”同意なしに”引きずられたくないな、って思うのです。

同意を求めてくれれば、検討します。
例えば「体育祭の大縄跳びの練習をみんなでしたいんだけど、朝練出られる?予定どう?」って事前に聞いてくれれば、だいぶ心持ちは変わるのではないでしょうか。

それからもう一つ。
自分が引きずる側になってしまっていることに早めに気づくにはどうしたらいいのか。

これは私の経験上、あるコミュニティにいて「楽しい」と感じるときは危険だと思っています。

楽しいと思っているときは自分の思い通りになっている可能性が高く、
冷静に周りを見渡してみると、ついていけていない人や、反対意見をもっている人がいる可能性も高いからです。

事実、私が「このクラスは、このコミュニティは楽しかったな。みんな仲良くていい人ばかりで、最高だったな」と思ったコミュニティの人に聞いてみると、「そうでもなかった」と答える人が一定数いるのです。

もちろん、引きずられるほうが楽で楽しい、という方もいると思うので、それはそれで全く問題ないと思います。
私もそういう時、よくあります。

正義の優先順位~問題は「正義だと疑わないこと」の中にこそある~

声が大きい人の「正義」を同意なしに押し付けられるのは苦手ですが、それよりももっと気になるのが、
それが「一番優先されるべき正義」なのか、またはそもそも「正義」なのかどうかという点です。

声が大きい人の「正義」を同意なしに押し付けられたときに、なぜ反発できずに従うしかなくなってしまうのかと言えば、
それが「正義っぽいこと」だからだと思うんです。

例えばたまに、「正義のために、いないほうがいい人間を殺した」という主張をニュースで耳にします。
それは彼にとっては正義でしょうが、世間一般の常識と照らし合わせれば正義でもなんでもないことは明らかです。

こういう極端な事例に対して、私たちが「間違った正義かどうか」を判断することはそこまで難しくありません。

問題は、多くの人が「正義だと疑わないこと」の中にこそあるのだと思うのです。

体育祭のときはどうかというと、「クラスで団結して優勝する」ことは、客観的に見れば大正義のように見えます。

先生もきっとそう主張する生徒のリーダーシップを期待しているので、もはや反論の余地はありません。

確かに「クラスで団結して優勝する」ことはいいことです。
でも、だからといって私たちが大切にしたい勉強や部活や家族との時間を、無条件かつ無許可で侵害されることが許されるのかと言えば、ちょっと疑問です。

「東大に行くために努力すること」
「部活でインターハイに行くために努力すること」

その人にとっての大正義が別にあるにもかかわらず
一方的な「クラスで団結して優勝する」ための”犠牲”を強制されることは、正義なんかではないと思うのです。

ある程度、「正義」「正義ではない」ことを一般的に区別することはできるでしょう。
ただ、正義にも人それぞれに優先順位があります。
客観的に見ればどちらも正義であっても、私が一番だと思う正義を誰かの正義に侵害されたら、「あなたの正義は正義でも何でもない!」と言いたくなります。

つまり、正義かどうかはもちろんのこと、相手にとっての正義の優先順位をしっかり理解しようとしなければ、私の正義は正義でなくなってしまう可能性もあるのです。

振り返ってみると、私自身もこれをしてしまっていることが結構あるなって思いました。

例えば仕事をしているとき。
私が自宅で仕事をしていると、夫が帰ってきます。
夫はあれやこれやと私に話しかけるのですが、私は仕事が忙しければ話半分に聞いてしまいます。
このとき、私の正義は「この仕事をこの時間までに終わらせる!ほかのことは後回しにする」ことの優先順位が高いんですけど、
夫の正義では「私とコミュニケーションを取る」ことのほうが優先順位が高いんですよね。

それを「仕事なんだから優先して当然でしょ」と言っても、私と夫の正義の優先順位は違って当然なので、それを押し付けあってはけんかになってしまいます。

会社でも同じで、仕事最優先の人、プライベート最優先の人、子供最優先の人…
人によって優先順位が違うので、それを理解してお互いが思いやらないと、上手くいきませんよね。

私も気を付けます…。

美しい正義は断りづらいのがいや

正義と正義がぶつかりあうときに一番いやなのはこれかもしれません。

さっき「人を殺せ」と言われたら、と例に出しましたが、こういうのは普通の状況であれば簡単に断れますよね。
だれがどう見ても「正義でない」「正しくない」と言えるから。

けれども誰かにとっての正義は、往々にしてちゃんと「正義っぽい」のが困ったところです。

例えば高校3年の夏。
クラスメイトが甲子園に出場することになりました。
陽キャたちは「応援こそが正義」と夏休み返上で全員で応援しよう!とか千羽鶴を折ろう!とか言ってくるわけです。

断りづらい!!!!!!

これを断ってしまったら自分が悪人みたいで非常にいやですよね。

甲子園に行く友達を応援する、みたいな言うなれば「美しい正義」みたいなものは、とにかく断りづらくてしょうがないです。

けれどさっきも書いたように、人には正義の優先順位があります。
友達の甲子園ももちろん応援したいけれど、夏期講習にも行かないといけない、とか。

応援を断って夏期講習に行くのが悪なのかと言えば、全く悪ではありません。
だから、勇気をもって断りましょう。
心苦しかったら、お守りの一個でも買って渡すとか、罪悪感を打ち消すようなちょっとした行動をするだけでも、気が楽になるかもしれません。

そして、こういった「美しい正義」を振りかざす側になった場合は、
「まずは相手の事情をくむ」ことを大切にしたいものです。

さきほど「同意なしに引きずられたくない」と書きましたが、こういう断りづらいことは特にです。
だから、相手が断りやすいように、くらいの気持ちでお誘いしたいものだな、と思います。

正義の程度の差。善と悪はどこで線引きできるのか

「正義の優先順位」とちょっとかぶるのですが、そちらが一人一人の正義の違いだったのに対し、
こちらは同じ正義でも人によって違う、ということについてです。

これは、このコロナ渦で常々思うことなのですが、
「人の命を大切にする」ことは、どこからどう見ても最優先すべき大正義に見えます。

しかし先ほども書いたように、問題はこういった、多くの人が「正義だと疑わないこと」の中にこそあると思うのです。

なぜなら、正義だと疑わないことであればあるほど、ほかの人との認識のずれを力づくで修正しようとする人が出てくるからです。

これを考えた時、「あ、戦争ってこうして起こるんだ」とまで思ってしまいました。
規模は全く違いますが、人は、自分が信じたゆるぎない正義、しかもそれが客観的にもかなり優先度が高そうな正義であれば、ほかの正義を排除するために手段は選びません。
程度の差こそあれ、誰もがこういうことを日常的にしていると思います。

コロナの話に戻りますが、
私は感染者の個人情報の特定合戦や誹謗中傷、過度な自粛警察や営業妨害、他県ナンバー狩りなどは言語道断、
そういったことをする人に対して軽蔑の気持ちすら持っています。

しかし、そういった人たちの気持ちも考えようとしなければ、
結局は私も彼らを心の中で攻撃しているわけで、やっていることは大差ないような気がするので、冷静になって彼らの心に寄り添ってみようと思います。

では彼らはなぜ過激な行動や言動を行ってしまうのか。
それはやはり彼らの正義が「人の命を大切にする」ことにあるからでしょう。
(人によってはストレス発散目的もいると思いますが)

感染したら命の危険がある人がいるのに、なぜ感染の可能性がある人間が近くに来るんだ!

みたいな攻撃は、彼らにとっては「人の命がかかっているのだから当然!声を上げなければ!」という最も優先されるべき正義なのでしょう。

確かに「仕事と人の命、どっちが大切か」と問われたら、多くの人が「命」と答えるでしょう。
けれども現実は複雑で、そうはいっても仕事はしないといけないし、買い物にも行かけないといけない。
高齢になった親に会うために帰省だってしておきたいし、
中には、観光業に貢献するために、使命感を持って「旅行に行くことこそ正義」だと思っている方もいるでしょう。

このように、最も大事(そう)である「人の命を大切にする」ことの前にさえ、現実的に考えればいくつもの選択肢が転がっているのです。

では、「人の命を大切にする」ことが多くの人の正義であることは間違いなさそうなのに、なぜこんなにもすれ違いが起こってしまうのでしょうか。

例えば、目の前に倒れている人がいても、100人が100人とも手を差し伸べるわけではありません。
むしろ手を差し伸べるのは100人のうちのたった1人くらいなものです。

しかしそれが家族や友人であれば、手を差し伸べるのは当然でしょう。
もし誰も手を差し伸べなかったために、その人の命にかかわるようなことが起きれば、
その家族は「人の命がかかっているのにどうして!」と憤りを覚えることでしょう。

つまり結局、いかに絶対的な正義のように見えても、
実は一人一人が自分の最も都合のいい形の正義に解釈しなおしているのではないかと思うのです。

つまり「人の命を大切にする」というのは
多くの人にとって「(私の大事な)人の命を大切にする」ことに解釈しなおされているのだと思います。
ただ、それに気づいていないだけで。

例えば私は20代ですが、まわりに自粛警察のような友達はいません。
むしろSNSでやれ自粛だなんだ、と正義感たっぷりに投稿しているのは、もっと上の年代の人が多いように思います。

では、彼らと私たちは何が違うのか。
私には子供もいなければ親も50代です。おじいちゃんおばあちゃんと同居もしていません。
10~20代はこういう人が多いと思います。
なんなら20代前半だと、一人暮らしの可能性もかなり高いでしょう。

コロナのことを取り上げて言うのであれば、10~20代は、自分も家族も、コロナに感染しても命に危険が及ぶ可能性がやや低いのです。
だから「(私の大事な)人の命を大切にする」ために、過度な自粛をする必要はない、という結論に至ってしまいがちなのではないでしょうか。

しかし、これが小さい子供や80~90代の家族がいたらどうでしょう。
私の大事な人の命に危険がある可能性が低い状態では、
飲み歩いている人や県外に旅行に行っている人に対して特段の感情を抱くことはありません。
勇気あるな、とは思いますが。

けれども、私の大事な人の命に危険が及ぶ可能性があれば、私もとても攻撃的になってしまうのかもしれません。

つまり何が言いたいのかというと、「人の命を大切にする」ような明らかな絶対的正義においても、その程度の差は人によってまちまちで、
同じように「人の命を大切にする」ことを正義だと思っていても、
その程度にずれがあれば、やはり人は対立してしまうのだと思います。


わかりやすくするために年齢でくくったり、決めつけのような表現になってしまってごめんなさい。
私自身は自粛警察ではないけれど、自粛しないことによって社会的に死にたくないので超自粛徹底マンです。
3月中旬以降県外に出ていないし、外食は2回くらい、外出自体10回もしていないですw
なので、年齢にかかわらず環境や考え方によってはもちろん自粛警察もいるだろうし、見えない誰かのために自粛をしている人もたくさんいるとは思っています。
そういう人も、そうでない人も分かりあい、尊重しあえるといいのですが。


そうそうもう一つ、「正義の程度の差」には、「善と悪をどこで線引きするのか」という問いも含まれていると思います。

例えばまたわかりやすくコロナの話になってしまいますが、

・自粛を徹底し、それを他者にも強制する
・自粛を徹底している
・外食に行く回数は減ったけど、それなりに普段通りにしている
・これまでと変わらない生活をしている
・仕事のために県をまたぐ移動をした
・遠距離恋愛中の特定の恋人に会いに、県をまたぐ移動をした
・感染している可能性が低いのでマスクをせずにスーパーに行った
・咳が出るが大したことはないので出社した
・経済を回すためにあちこちに旅行に行った
・かなり体調が悪いが、親が危篤なので県をまたいで帰省した
・濃厚接触者になって自宅待機を命じられたが大事な会議のために外出した
・コロナ陽性だったが、やらなければならない仕事があり外出した

これ、どれが善でどれが悪でしょうか。
「そんなの当然、これは善でこれは悪でしょ」と、私たちの中には当然のようにそれぞれのボーダーラインが存在していると思います。

しかし、これは人によってかなりバラつきがあると思います。
総理大臣と、都道府県知事と、地方自治体の首長と、官僚でも意見はバラバラに分かれるのではないでしょうか。

例えばこの中だと「自粛を徹底している」
これは限りなく「善」に近いことだと思います。
けれども、商売を営む人にとってはこれは「悪」だと思う方も多いでしょう。

個人的な意見で言えば、「仕事のために県をまたぐ移動をした」は仕方がないかな、と思います。
では「遠距離恋愛中の特定の恋人に会いに、県をまたぐ移動をした」
「かなり体調が悪いが、親が危篤なので県をまたいで帰省した」
これは?

こう考えてみると、どこからが善でどこからが悪かというのは千差万別で、一概に「命を大切にするためにこうするべき」という答えはないように思います。

けれど私たちはそれぞれに正義を持っていて、
だからぶつかり合うし、憤ることが絶えないのだと思います。


コロナの話までするつもりはなかったのですが、
結局正義なんて、人によって、状況によって、社会の状態によって、180度変わりうるのだと思います。
そして、同じ正義を持っていたとしても、かならずしもわかちあえるとも限らないのです。

こうやって考えると、人とのコミュニケーションには本当に気を付けたいものです…。

「誰かのため」なら何をしてもいいのか

いろいろ書きましたが、これらの問題をややこしくしているのは、目的が「誰かのため」だからではないでしょうか。

体育祭で優勝することは、私のためではなく、みんなのためです。
甲子園の応援に行くことは、私のためではなく、甲子園に出場する友達のためです。
自粛をするのは、私のためではなく、大切な誰かや医療従事者や、わたしが自粛をすることで感染しなくてすむ誰かのためです。

対して「東大に行くために夏期講習に行くこと」や「インターハイに出るために部活の練習をする」ことなんかは、大部分が「自分のため」ですよね。

不特定多数の「誰かのため」の正義の前に、
「自分のため」の正義を貫くことはかなり難しいです。

でも、「誰かのため」なら何をしてもいいのでしょうか。

例えば駅前で募金を呼び掛けている人がいるとして、
それは「誰かのため」の正義だから、
あなたも募金をしなさい!と強制することは明らかに間違っていると感じます。

けれども世の中のたいていの物事は「誰かのため」かつ「美しい正義」なら、協力して当然、という空気のもと進められていきます。

そこに声の小さい反対意見の者がいても、
その人の正義を同意もなく勝手に犠牲にして、強制的に「誰かのため」の「美しい正義」を貫かせようとすることは、
私はあまりいいことだと思いません。

けれどもそんな正義を貫く陽キャたちは、きっと反対意見の者がいることすら知らないのだから、
別に故意に悪いことをしてやろうだとか、こいつの正義をつぶしてこっちに巻き込んでやろうとか思っているわけではありません。

私はきっとこれからも、声の小さい反対意見の人間になる場面が多いと思うので、
そんな陽キャな人たちには、まずはこちらが思いやりをもって接したいな、と思っています。

そしてたまに私も無意識にそんな陽キャになってしまうことがあると思うので、
いつも自分の言動や周囲の反応はちょこちょこと振り返って、
誰かの正義を犠牲にしたと気づいた時には
ちゃんと謝れるように心掛けたいなと思います。


そもそも、ここにつづられているのも私の勝手なる「正義」なので、
何かが矛盾しているような気もするのですが笑


うーん、ちゃんとまとまってるのかな。
思いのままに書いてしまった9400文字。長w


人徳者になりたいなあ。


おわり

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