日本史最大の闇・明治維新を考える

 日本史を世界史と別個のものと扱うべきではないと考ますが、 日本史には世界史にあまりない 「意識的なウソ」 が隠されています。 とくに権力がさまざまな陰謀で交代している時に、その傾向が強くなります。

 明治維新もたった1世紀半前の話ですが、大化の改新などと並んで事実が正確に伝えられていません。 そこを出来るだけ史実に正確に、 また公正にお届けしたいと思います。

 さて明治維新として取り上げる期間は、ペリーが浦賀に来た1853年から明治新政府が正式にスタートする 1868年までの 「わずか16年間」 です。 そしてこの16年間とは、それまで 250年間続いた徳川将軍と幕閣 (もともと徳川家の家臣が比較的小藩の大名に取り立てられた譜代大名がほとんど) による幕府運営すべてに対する問題・ 不満・ 思惑が一気に爆発した、 まさに激動の時期となります。

 その主役は 「押さえつけられていた朝廷 (天皇と公家)」 「鎖国政策により介入できなかった海外列強」 「これも押さえつけられていた外様大名」 となりますが、 徳川幕府が勝手に「自滅」したところも大いにあります。

 さて明治維新のスタートとなる1853年は12代将軍・家慶の時代でした。 この家慶の父の 11 代将軍・家斉は、御三卿の一橋家 2代目当主・ 治済 (はるさだ) の長男ですが、 10代将軍・家治の唯一の嫡男・家基が明らかに謀殺されたあとに治済が強引に後継将軍に押し込んだものでした。

 家斉は50年もの将軍在位(1787年~1837年)の間、ひたすら自らの贅沢しか考えていなかった「とんでもない」将軍で、若いころには寛政の改革を進める老中首座の松平定信を「贅沢が出来ない」と罷免していました。そして貨幣改鋳(要するに金・銀を薄めて貨幣を大量に発行した)を8回も繰り返し、今でいう「量的緩和」を行ったのですが、そこを天保の大飢饉(1833年~1839年)が襲い 「大不況」になってしまいました。

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