英国と英国王室の歴史 その1
英国と英国王室の歴史 その1
英国女王のエリザベス2世が2022年9月8日、静養先のスコットランドで亡くなった。96歳で、在位は70年を超えて英国王室史上最長となる。チャールズ皇太子がチャールズ3世として即位したが、すでに73歳で英国王室史上の最高齢の即位となる。
現在の欧州の先進地域とされる西ヨーロッパは、3世紀以降、断続的に流入してきたゲルマン系民族が「我が物顔」に支配しているが、同じゲルマン系でもフランク族とノルマン族の対立が今も続いている。ここを理解しておかないと現在の欧州政治問題の本質が見えてこない。
フランク族は現在のEUの中心的立場を占め、かつてはフランス王室が欧州全体に影響力を持っていた。一方でノルマン族の象徴が英国王室である。だから英国はEUを離脱し、英国以外のノルマン族の国家であるスウェーデン、デンマークはユーロに加盟せず、ノルウェー、アイスランドはEUにも加盟していない。
そう言われてもピンと来ないはずなので、英国と英国王室の歴史から理解していく必要がある。英国王室の誕生過程から始める。
現在の「英国」は正式国名が「クレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」で、その中にはスコットランドもウェールズも北アイルランドも含まれる連合国家である。第二次世界大戦までは世界中に広大な領土があり、1918年には3370万平方キロと地球陸地面積の約4分の1も占めていた。現在の英国はわずかに残った海外領土も含めて24万平方キロしかなく、日本の37万平方キロよりも小さい。
さてどの教科書でも英国の歴史は1066年にウィリアム1世(征服王)が即位したところから始まる。それ以前の英国は国家としてまとまっていない未開の地だったのか?
もちろんそんなことはない。ただ1066年以前の英国は、現在の「英国」とは違う「よその国」だったので気にしていないだけである。その「よその国」だった英国の歴史から始めるが、当時の英国は今の「英国」とは違うのでグレートブリテン島と呼ぶ。
当時の欧州における先進地域は、紀元前8世紀には都市国家(ポリス)が発達していたギリシャや、紀元前6世紀には共和制が始まっていたローマなど南あるいは東ヨーロッパであった。現在のドイツやフランスなど西ヨーロッパは当時の欧州では後進地域で、グレートブリテン島に至っては統一国家にもなっていない「もっと後進地域」だった。
グレートブリテン島が歴史に最初に登場するのは、西暦43年のローマ皇帝クラウディオスの侵攻からである。ローマ人は先住していたケルト系のゲール人(基本的に今のスコットランド人)やブリトン人(同じくウェールズ人)を辺境に追いやるが、グレートブリテン島を属州に組み入れることはなかった。辺境で軍事的にも経済的にも魅力のない地域だったからである。
ローマ帝国はその領土が最大となったトラヤヌス帝(在位98~117年)の時代には今のスコットランド手前まで侵攻しており、次のハドリアヌス帝(在位117年~138年)がそこに築いた長城が現存している(ハドリアヌスの長城)。
ところがローマ帝国はゲルマン人の侵攻で徐々に弱体化して395年に東西に分裂し、間もなくローマ人はグレートブリテン島を放棄してしまう。西ローマ帝国は476年にゲルマン人に攻め込まれて滅亡するが、当時の欧州の先進地域に位置していた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は1453年まで存続する。当時は豊かな穀倉地帯だったエジプトを領土としていたからである。
ローマ人のいなくなったグレートブリテン島には、北海沿岸からゲルマン系のアングル族やサクソン族が入り込む。アングロ・サクソン七王国と呼ばれる小国家群が形成され、829年にウェセックス王のエグバートがグレートブリテン島東南部を統一する。
ゲルマン系民族とはもともとバルト海沿岸地方に居住しており、紀元前後には食料を求めてライン川やドナウ川の北方まで居住地を拡大し、3世紀ころにはローマ帝国内にも傭兵や小作人として入り込んでいた。人口が増えたため食料が不足したからである。
この動きを一気に加速させたのが、北アジアから遊牧騎馬民族であるフン族(たぶん1世紀ころに分裂した匈奴の一派である北匈奴の末裔)の西進である。375年にフン族は黒海北岸に侵入し、押し出されたゲルマン系の西ゴート族などがローマ帝国内に大挙して入り込んできた。
フン族に領土を奪われて食料もなくなり、文字通り着の身着のままで必死に逃げ込んできたが、現在の欧州はその必死に逃げ込んできたはずのゲルマン系民族が「わが物顔」で居座っている。
当時のゲルマン系民族とはローマ人からみると大変な野蛮人だった。ローマ人はその野蛮人であるゲルマン人を傭兵として危険任務にあたらせて軍事をすっかり任せてしまったため、西ローマ帝国は476年にゲルマン人の傭兵隊長だったオドアケルに攻め滅ぼされてしまう。昔から軍事を他民族に任せるとロクなことにならない。
西ゴート族などゲルマン系民族は次々と欧州に侵入したが、少し遅れてきたフランク族は先進地域の南と東ヨーロッパがすでに侵略されていたため、やむなく後進地域の西ヨーロッパに向かいフランク王国を建国し、やがて新たな欧州の覇者となる。7世紀にはカロリング朝のピピンが広大な領地をバチカンに寄進し、その影響力を利用して国力を拡大する。
フランク王国は9世紀には早くも分裂し、現在のドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグとまさにEUの前身となるEECの母体となる。
さらに遅れて西進してきた同じゲルマン系のアングル族とサクソン族は、もっと行くところがなかったため、やむなくもっと後進地域だったグレートブリテン島に向かった。そして先住のケルト系民族をさらに辺境のスコットランド、ウェールズ、アイルランドに追いやり居座ってしまう。
当時もゲルマン系民族は野蛮人だったが、これは現在も全く変わっていないと覚えておいた方がよい。そしてゲルマン系民族の中でも「飛び切りの野蛮人」であるノルマン人が8~9世紀になって主にバルト海沿岸から西進を始める。やはり人口増で食料が不足したからである。
ここでノルマン人とはバイキング(海賊)とほぼ同義語である。8~9世紀ころの西ヨーロッパは、ほぼすべて先行したゲルマン系民族に支配されていたため、遅れてきたノルマン人は住み着くべき土地がなく食料が確保できない。
じゃあどうしたのか?というと、海賊として他のゲルマン系民族が先住していた地域を襲い、略奪を繰り返して追い出して居座ってしまった。このバイキング(海賊)が居座った地域が今のデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、アイスランドである。
グレートブリテン島にもこのノルマン人(バイキング=海賊)であるデーン人が攻め込み、1013年にはデンマークのクヌート王が支配するノルウェーやスウェーデン南部を含む「北海帝国」に組み込まれる。
つまり現在の英国、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、それにアイスランドはまさにノルマン人(バイキング=海賊)が建国した国家であり、ユーロに加盟しておらず、英国、ノルウェー、アイスランドはEUにも加盟していない(英国は2016年の国民投票で離脱を決定)。
つまり「バイキング(海賊)はEUもユーロも嫌い」となるが、そうなった理由は、同じげうマン系でもフランク族の「フランス絶対王室」への対抗意識である。そこを理解するにはもう少し英国と英国王室の歴史を知る必要があるため、このまま続ける。
ちなみにスウェーデンの隣国・フィンランドはバイキング(海賊)の国ではなく、EUにもユーロにも加盟している。
そしてノルマン人とはもともと野蛮なゲルマン系でも「飛び切り野蛮」な海賊であるが、その中でも「極めつけに野蛮なノルマン人」と言われたのが海賊王ロロ(846年?~933年)である。
1066年に英国を征服したウィリアム1世とは、実はこのロロの子孫である。つまりウィリアム1世の血筋が現在まで続く英国王室とは、この「極めつけに野蛮な海賊王ロロ」の末裔なのである。
(続く)