来日したバチカンのフランシスコ教皇の功績

来日したバチカンのフランシスコ教皇の功績   2019年11月25日に掲載

 全世界に13億人の信者がいるローマ・カトリック教会(バチカン)のトップであるフランシスコ教皇が11月23日に来日された。82歳の高齢にもかかわらず翌24日には被爆地である長崎と広島を訪れ、それぞれ長時間をかけて核兵器断絶と平和のためのミサを行った。

 長崎と広島への訪問は、フランシスコ教皇ご自身の強い希望で実現したもので、数年前に「そそくさと」広島を訪れ空虚なコメントだけを残していったオバマ大統領(当時)とは全く違う真摯な態度に、胸を打たれた日本人も多かったはずである。

 このフランシスコ教皇は、初代ペテロから数えて266代目の教皇であり、また初の欧州以外の出身(アルゼンチン出身)で、初のイエズス会出身の教皇でもある。

 ところで予告を変更して急遽バチカンとフランシスコ教皇を取り上げたのは、テレビで繰り返し放送されるフランシスコ教皇の「もう1つの強い側面」をぜひご紹介したかったからである。

 2013年3月29日に就任したフランシスコ教皇は、すぐにマネーロンダリングの温床となっていた宗教事業協会(以下、バチカン銀行)の組織改革に取り組み、「貧者の教会」としてのバチカンを取り戻そうとする。結果的に膨大な利益を上げていたバチカン銀行の収益は(マネーロンダリングで10%の手数料を取っていたといわれる)激減しているため、フランシスコ教皇の改革はある程度成功しているものと思われる。

 また2014年6月には、「マフィアを全員破門する」と宣言している。ここでバチカンとマネーロンダリングやマフィアとの関係と言われてもピンと来ないかもしれないが、これには以下のような歴史的背景がある。

 歴代教皇の中には、時の権力者やスポンサーの意向を受け入れて「教皇の権威」をその権力者やスポンサーのために使っていた例もないではない。その最初が755年頃にピピン・カール親子が王位(フランク王国のカロリング朝)に就くための権威づけとして、ローマを含む広大な土地を教皇領として寄進したことである。

 ちなみにその時の教皇はステファヌス3世、寄進したピピンの子のカールは後にカール大帝あるいはシャルルマーニュと呼ばれ、フランク王国の最盛期となる。もちろんバチカンと教皇の権威を最大限利用したことは間違いない。

 ちなみにそのカール大帝の死後、フランク王国は広大な領土を維持できず、843年に西フランク王国(現在のフランス)、東フランク王国(後の神聖ローマ帝国、現在のドイツ)、中フランク王国(現在の北イタリア)に分裂し、そのまま現在のEUの中心となる。

 そして寄進された広大な教皇領は、その後長い間、教皇の(あるいは教皇を操る権力者の)財政を支えていたが、1860年にイタリア王国が成立するとその帰属をめぐって深刻な対立となる。1929年にムッソリーニがバチカンの主権を認め(ここでバチカンは教皇を元首とする独立国となり現在に至る)、警察などのサービスを提供し、また教皇領の対価として9億4000万ドルを支払うなどの合意(ラテラノ条約)がなされる。

 ここでバチカンは膨大な資金を得たことになり、その運用・管理のために「宗教事業協会」(バチカン銀行)が設立された。その運用収益はバチカンの宗教活動とカトリック発展のために使われるはずであったが、まもなくマフィアや怪しげな連中が接近することになる。

 1960年代になると、マフィアのマネーロンダリングを担当していたミケーレ・シンドーナが、時の教皇パウロ6世と、バチカン銀行総裁を兼任するポール・マルチンクス大司教に接近して、いろんな「怪しげな運用」を指南するようになる。

 ここでシカゴ出身の米国人であるマルチンクス大司教も、以前からマフィアとの関係が取りざたされていたが、やはりパウロ6世に取り入って1971年にバチカン銀行総裁の地位を得て、そのまま1989年まで居座ることになる。

 そのころシンドーナがマルチンクスに紹介したのが、アンブロシアーノ銀行の頭取になったばかりのロベルト・カルヴィであった。シンドーナもカルヴィも(そしてたぶんマルチンクスも)非合法組織「P2(プロバガンダ・デュー、会長がリーチョ・ジェッリ)」のメンバーであった。

 「P2」はフリーメーソンのロッジの1つで(その後除名)、南米各国の極右勢力を支援し、南米に左派勢力が拡大しないように非合法活動を行っていた。そこにはバチカン銀行の資金が「たっぷり」と流用されていた。また「P2」はCIAとも関係があったはずである。

 もちろんシンドーナ、カルヴィ、マルチンクスの「運用」は「P2」だけでなく、世界中の「怪しげなビジネス」に首を突っ込み、マフィアのマネーロンダリングに手を貸し、ついでに大金をポケットに入れていた。

 そんな最中、1978年8月に教皇パウロ6世が亡くなる。後任を決めるコンクラーベの3回目で全くノーマークだったイタリア人のアルビノ・ルチアーニ枢機卿が次期教皇となる。ヨハネ・パウロ1世の誕生である。

 ヨハネ・パウロ1世は就任直後から積極的にバチカンの改革を行おうとし、真っ先にマルチンクスを含むバチカン銀行幹部の更迭を決める。そしてその更迭発表当日の1978年9月28日未明、ベッドの上で死亡しているのが発見された。就任からわずか33日目のことであった。

 そして司法解剖もされず、発見から3時間後には国務長官を兼務するヴィヨ大司教(この人も更迭されるはずだった)が心筋梗塞による死亡と発表し、一切の蓋がされてしまった。発表予定だった「更迭リスト」はついぞ発見されなかった。

 首の繋がったマルチンクスは、その後もシンドーナ、カルヴィと「怪しげな運用」を続けるものの、その運用はすべて悲惨な結果となる。

 バチカンの「運用」を一手に握っていたアンブロシアーノ銀行は13億ドルもの負債をかかえて1982年5月に破綻する。頭取のカルヴィは同年6月17日、ロンドンのブラックフライアー橋に死体となって吊るされているのが発見される。
 
 カルヴィも当初は自殺とされたが、後に他殺と断定される。2005年に4人のマフィアがカルヴィ暗殺容疑で起訴されるが、ほどなく無罪判決となる。

 それ以前の1979年7月、バチカン銀行とアンブロシアーノ銀行、それにマフィアとの関係を調査していたイタリア警察の金融犯罪担当のアンブロゾーニ調査官が暗殺されている。これはシンドーナがマフィアに依頼して暗殺させたものと断定され、シンドーナは米国に逃亡する。
 
 そのシンドーナも米国で横領罪で逮捕され(経営に関与していたフランクリン・ナショナル銀行が破綻したため)、アンブロゾーニ調査官暗殺の容疑でイタリアに移送され懲役25年となる。シンドーナは厳重な警戒体制が敷かれている刑務所に収監されていたが、それでも1986年3月に刑務所内で毒殺されている。

 マルチンクスにも1983年にイタリア当局から逮捕状が出されるが、バチカンが主権国家であるため無効とされ、1989年までバチカン銀行総裁の地位に居座る。マルチンクスまで逮捕されると都合の悪いバチカン幹部もいたからである。ここでも首の繋がったマルチンクスは、その後もマネーロンダリングや「怪しげな投資」を続けることになる。

 そのマルチンクスは退任後に米国に帰国し、2006年に病死しているが、その身が危険に晒されることはなかった。マルチンクスのバチカン銀行における「悪事」も、CIAをはじめ米国当局が把握していたはずだからである。マルチンクスも一切の秘密を表に出すことはなかった。

 さてヨハネ・パウロ1世を継いだカロル・ボイティク(ヨハネ・パウロ2世)はバチカン銀行の改革を全く行わなかった。ポーランド出身のヨハネ・パウロ2世に対して、バチカン銀行から民主化運動の労働組織「連帯」に1億ドルの資金援助が行われたからといわれている。

 そのヨハネ・パウロ2世は2005年4月に死去し、ベネディクト16世が継ぐ。しかしバチカン銀行のマネーロンダリングと、それを追及するイタリアなど各国当局の追及も激しくなり、2009年にはJPモルガン・チェース銀行・ミラノ支店にあるバチカン銀行の口座を不正送金の疑いで閉鎖、2010年にはイタリア財務当局が2300万ユーロの預金を凍結している(後に返却)。
 
 また2012年5月には、当時のバチカン銀行総裁のエットレ・ゴッティ・テデスキ大司教が突然解任されている。さらに同年、米国が「国際麻薬統制委員会」の報告書でバチカンを「マネーロンダリングに利用される国」に指定している。つまりバチカン銀行のマネーロンダリングは「つい最近まで」大規模に行われていたことになる。
 
 こうした不祥事が心労となり、2013年2月にベネディクト16世が途中退任する。存命中の退任は600年ぶりであった。

 そして教皇フランシスコが、その後任となりマネーロンダリングをやめさせるなどバチカン銀行の改革に「強い態度」で取り組んでおり、相当の効果が出ているはずである。

2019年11月25日に掲載