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感情に訴える言葉は殺されるほど怖い

ネットフリックスのオリジナルドキュメンタリー『裁判とメディア』、第1話はトーク番組がきっかけで起きた殺害事件を取り上げています。考えさせられる内容でした。

私が記者を辞める少し前、過去に取材した人が刺殺される事件が起きました。自分が書いた記事とは関係ない事件でしたが、知っている人が殺害されるという初めての体験に、しばらく言葉が出ないほど動揺しました。

特に衝撃的だったのが、殺害の動機です。被害者は有名なブロガーで、刺したのはそのブログの読者。ブログで馬鹿にされたことを恨んでの犯行でした。被害者と加害者の間に直接の面識はなく、事件当日まで会ったことも無かったそうです。

読み手の意識を誘導する表現

当時、私は経済誌の記事を書いていました。新聞に比べれば記者は少なく、人海戦術で独自の情報を集めることはできません。インターネットが普及し、ニュースの「新しさ」では競争力になりづらい時代です。

そのため、興味深い分析や独自の視点で価値の高い記事を作ること自分の仕事だと感じていました。他誌で既報であっても、分かりやすく読んで面白い表現や構成を考える―――。そんなテクニックが重要だと意識し、学んでいました。

テクニックを意識した記事執筆に手応えを感じ始めていたころ、件の刺殺が報じられました。

被害者は、匿名のブログでいわゆる「イキり煽りキャラ」のような文章を書いていました。そのブログ記事やコメントなどで、加害者はバカにされたと感じたようです。事件後にブログを読んでみましたが、文体を抜きにすれば指摘や批判の内容はまっとうのように感じました。

事件やブログを調べるにつれ、私は自分の書く記事と被害者のブログとが同じような存在のように感じるようになっていきました。

文章には「情報を伝える」という役割だけでなく、「感情に訴える」という効果を持っています。私が身につけようとしていたテクニックは、見方によっては読者の感情を記事の分析や視点に合わせて誘導するようなものです。

そうした視点を誘導するテクニックと、刺殺された被害者が恨みを買ったブログとは、何が違うのでしょうか。

事実と意見と混同する

記事の分析や視点を真実だと思い込まれることにも恐怖を感じました。

メディアは公益的な役割を担うと同時に、民間企業としての成約にも縛られています。正直なところ、書きたくない記事や思ってもいないこと記事を作ったこともあります。

今週2倍の記事を書いたから、来週は記事を書かなくてもいいといったストックもできません。手っ取り早くPVを稼げるような記事を作ったり、釣りタイトルのような品の無い見出しを承諾したこともあります。

制約の中で作られた記事の分析や視点には、書いた本人からしても無理筋だと感じるものもあります。メディアにもポピュリズムの波が押し寄せているのです。

記事では、事実と意見とが区別できるように表現します。特に意見を書く時は、あくまで考え方の一つである、視点の一つであると分かるように注意を払っていました。しかし、読者がそれを読み取れなければ、記事が世間に与える影響は「フェイクニュース」と差がないのかもしれません。

はたして、読者は細部の表現にまで注意して記事を読んでいるのでしょうか。少なくとも、ネット上には誤読して勘違いしている意見や、視点でもってマスコミを非難するコメントが散見されます。

私が仕事のためと割り切って書いた記事は、誰かの恨みを買ってはいなかったでしょうか。

誰でも読めるという恐怖

もちろん、誰もが誤読するわけではありまあせん。いわゆるクリティカルリーディングの訓練ができている人は、分析や視点をあくまで参考情報の一つとして受け止め、事実と意見とを区別して読めることでしょう。

記者になった当初は、記事の内容をよく読まずに非難してくるコメントを見ても意識しないようにしていました。「内容も読まずに非難する人は読者ではない。読んで価値を感じる人のために書いているのだ」などと考えて仕事をしていました。

しかし、私が書いた記事で誰かを殺したいほど恨む人が居たらどうでしょう。冒頭のドキュメンタリー番組で紹介されたように、私が書いた記事が原因で誰かが殺されるかもしれません。

誰もが発信者になれる時代だからこそ、自分が倫理的であるかを意識しつづける姿勢が必要なのだと思います。

サポートは取材費に使わせていただきます。