コーヒーレディーはマルドロールを駆け抜けて

狭い部屋、汚い街

大阪市東住吉区近鉄南大阪線針中野駅から徒歩14分。チャリならだいたい5分。

私の第二の人生は多分そのあたりから始まった。

朝ゴミを出そうとゴミ捨て場に行ったら、そのゴミ捨て場でホームレスのおじさんがゴミを漁っている。私はそこに躊躇なくゴミを投げ捨てる。漁るなら勝手に漁ればいいけど、おじさんの欲しいようなものは多分入ってないだろう。大阪ってそんな街なんだと思った。それがスタンダード。色々と汚い。

ライオンズマンションのような名前だけは立派なのそのマンションは9階建てで、私はたしか8階に住んでいたような気がする。エレベーターの扉は真っ赤な色をしていた。

ワンルームのマンションだが、驚くべきことに一部屋は11平米くらいしかない。つまり6畳もない。風呂とトイレ、ビジネスホテルによくある四角い冷蔵庫と電磁調理器のついた小さなキッチン。ご丁寧にベッドは備え付けてあった。狭すぎて玄関がない。玄関がないので靴は1階のホールで脱いで下駄箱に入れて自室に上がるという謎のシステム。1階のホールには愛想の悪い管理人のおばさんがいた。洗濯機がない、というか置けないので、洗濯物は1階と9階にあるコインランドリーを使う。もちろん有料である。

私の隣の部屋はいつもaikoを熱唱している女の子が住んでいた。別に下手じゃないけどずっと歌ってるから何回か壁を殴ったことはあった。

家賃は共益費込みで3万円しなかったと思う。中国人らしき外国人がたくさん住んでいた。要は安くで住めるマンションだった。ただ住めるってだけの部屋の集まり。

その部屋を選んだのは私ではなかった。いや、自分で部屋を選べてたらとにかくそんな狭い部屋なんて選ぶわけなどない。大学からも微妙に遠いし。

今考えたらあれはどう考えてもヤクザあるいはそれらしき怪しげな人たちが絡んでる不動産屋だった。従兄のつながりの不動産屋とのことだったが、大国町のよくわからない場所にある小さな事務所で、その日じゅうに部屋を決めるってことでヤクザみたいな人たちの案内で、父と母と3人で住む部屋を探しに行った。

4~5件は見たと思うけど、どれもまぁ狭かったし、高校3年生の私ですら「風俗嬢が住んでそう」と思うような部屋ばかりだった。家賃3万円以内だし、大学は南河内郡にあるのに、なぜか大阪市内で探そうとしてるし、近鉄南大阪線沿線となるとまぁそうなるのも仕方がなかったと思うが。

なお、大学に通い始めてから知ったことだが、その何件か見た部屋があった場所は大阪の中でも結構ヤバい場所だった。私のマンションはギリセーフな土地だった。隣の駅なら相当ヤバかった。その隣の駅に住んでた同じクラスのケンさんもあの駅は安いけどヤバいと言っていたので間違いはないだろう。

で、結局父の独断でその中では一番マシに見えたその9階建てのマンションに私は住むことになった。部屋が狭すぎるので荷物は引越し業者に頼むまでもなかった。3月、高校の卒業式が終わった数日後とかにどこかから借りてきたワゴン車に荷物を積み、父の運転で運んだ気がする。

引越してすぐに近所のアサヒでママチャリを買った。黒いハンドルの銀色のママチャリ。東住吉区とはいえ大阪市内である。兵庫県の誰も知らないような町から出てきた私にとっては、歩道がちゃんとあって道路が広いなと思った。ビルもマンションもいっぱいあると思った。そもそも街が整備されていると思った。

針中野の駅から家に帰る途中に食べ物も売ってる100円ショップがあった。そこで色々買った気がする。店長は愛想の良い男の人だった。

引越してから入学式まではまだ日があったので、その間に受験の前日に偶然同じホテルの隣の部屋で知り合ったノブちゃんがうちに遊びに来た。ノブちゃんは長野出身だったけど、私の狭い部屋とは大違いの、大学の近くにあるなかなか味のあるセンスのいいアパートに引っ越してきていた。ノブちゃんは私の部屋の狭さに「すごい!」とある種の感動を覚えていた。

東京にある黒川紀章が設計した中銀カプセルタワービルは2022年から解体工事が始まったが、ノブちゃんの「すごい!」はあの中銀カプセルタワービルの中に入った人のような「すごい!」だった。こんな狭いところに人が住めるんだ的な。

まぁそんなこんなで、私の第二の人生、子供のころからずっとずっとやってみたかった一人暮らしは始まった。

実家を出る前、隣町でも特にイケてる美容室として知られていた「オレンヂジュース」で生まれて初めて髪を染めた。担当してくれたのは兄の元カノだった。髪の色も変わって、これからいろいろ変わっていくんだと思った。今思えば当時着ていた服とかとんでもなくダサかったけど、自分はこれから都会で生きていくんだと、すごく新しい気持ちになっていたのを覚えている。

夜ひとりぼっちで誰一人知ってる人なんていないのに、全然何も怖くなかった。マンションがいっぱいあって、そこらじゅうに灯りもついている。すぐ近くには24時間営業のファミレスもあって、コンビニだってある。狭い部屋で、汚い街だったけど、全てが新鮮だった。

芸坂

針中野駅から乗車し、茶色く濁った大和川を超え、古市駅で近鉄長野線に乗り換えると何にもない喜志駅に着く。そこからほんの少し歩いていわゆる「芸バス」に乗る。今は坂の上までバスが上ってくれるそうだが、私が通っていた当時は「芸坂」と呼ばれる結構な急な坂の手前で降ろされ、学生たちは皆その坂を上ってそれぞれの建物へと向かっていた。

作業服を着た人、お嬢様みたいな服装の人、普通の人、奇抜な人、色々な人が坂を上っていく。変な人もいるけど、結構普通。芸大生って結構地味だなと思っていた。

芸坂を上ると向かって左手側の広場みたいなところでは、だいたいいつも舞台芸術学科と思われる人たちがダンスの練習をしていた。右手側には超ハイテクな図書館があって、無駄にお金をかけたとした思えない巨大なパイプオルガンのあるホールがあった。

コロシアムみたいな形の建物では、音楽系の学科と思われる人たちが発声練習をしたり、楽器を吹いたりしていた。

大学は小高い丘の上にあり、古墳とかがよく出る地域の山を切り開いて作ったのでオバケがよく出るみたいな話も聞いた。芸術のことを考えておかしくなってしまったのか、学内で自殺する人もいたりなんかして、地下にある音響系のホールにはお札が貼ってあったりもした。

私大、しかも芸大ということもあり、古い建物もあったけど、お金はあるので学校は結構綺麗というか、建物のデザインも有名な建築家がやってる感じで、比較的新しくできた建物の数々は近代美術館を彷彿とさせるものだった。学食でいつも座っている椅子が全部イームズかなんかの数万もする椅子ということを途中で知り、友達と盗んで帰ってやろうかなんて話をした記憶がある。

勝手な私のイメージかもしれない、というか完全に絶対私の勝手なイメージなのだが、「芸大には入ったけど…なんだかパッとしない」みたいな雰囲気が充満している学校だった。みんな一応芸大生というなんか誇り?みたいなものは一応なんとなく持っているんだけど、名前は東京藝大みたいだけど実は私大だし、偏差値低くても入れるし、田舎にあるし、みたいな。

しかも氷河期だし、卒業したってどうなるかわかなんないし、みたいな。

普通の人

特に私が在籍していた芸術計画学科という学科は、芸大に入りたいけど何らかの理由で美術学科や工芸学科、映像学科みたいないカッコいい花形の学科に入れなかった人の吹き溜まりのような学科だった。

私たちの学科は「芸計」と呼ばれていて、名目としてはアートディレクターとかを育てる目的の学科だったようだが、そんなのを本当に目指して入ってきてる人なんていなかったんじゃないかと思う。「面接と論文で芸大に入れる」というのがこの学科の最大の魅力だったのではなかろうか。

とにかくパッとしない学科だった。本当は美術学科に入りたかった私にとっては4年間の大学生活の中で、「芸計です」なんて胸を張って言える瞬間など一度もなかった。劣等感でしかない。ほかの学科の人に話しかけられても言いたくなかった。

たまに美術学科の教室で演習を受けることがあったが、羨ましくて仕方なかった。絵具だらけのつなぎを着て、でっかいキャンバスがあって、休憩しながら煙草をふかしたりしている人がいて。本当に羨ましかった。

私は一体あの学校で何をしていたのだろうか。20年以上経った今になってもそう思う。自分にとって良い影響を与えてくれた先生もいたし、そこまで興味がなかった映像の授業では「お前さんには才能がある」と教授に言われた素敵な出来事もあった。でも、なんか違った。全部違ってた。楽しい授業もあったけど、全部がなんかイマイチで突き抜けてなかった。

「芸大生です」「ちょっと変わった人です」的な、なんかそんなイメージだけをまとっている感じ。中身はちっとも変人じゃない私はただの普通の人。才能があると思いたいだけの人間。「普通の仕事」だけはしたくないってなんとなく思っているような。実際に同じ学科の友達にも「リイは普通だよね」って言われたこともあった。そう、私は普通の人間。芸大には通っているけど普通の人間だった。

「自分は特別な人間だ」と思いたかったんじゃないかと思う。きっとそうだ。いや、少なくともあの頃は、まだ心のどこかにそんな小さな火があったように思う。

あの頃は友達も何人かはいたし、別にぼっちとかでもなかったけど、今連絡を取り合っている人は誰一人としていない。たまに大学から広報誌みたいなのが届いて、「あ、私ってやっぱあの学校に通ってたんだよね」って思うくらい。楽しかったのか、楽しくなかったのかといえば、楽しくなかっただろう。

今となっては「大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科卒業」って履歴書に書くのも恥ずかしくなる。なんだよ芸術学部って、芸術計画学科ってなんだよ、全然今のお前と関係ないじゃんみたいな。

それでもまぁ、大学時代の思い出はそれなりにある。このとおり学校がつまらなかったおかげで、大学のことよりも、大学じゃない場所でのことの方が覚えているし楽しかった気がする。それは、例えばコーヒーレディーの話であったりする。

きっかけとなった男

古着屋で買ったTシャツにユニクロジーパン、青いハイカットのコンバースに紫色のリュック…腕時計はカシオのデータバンク。当時の私はそんな格好をしていた気がする。全然かわいくないし、今思うと普通にダサいというか田舎臭い。

でもそんなダサい私なのに、大学に入って2カ月後くらいには彼氏ができていた。

そいつの名前はシダとしておこう。留年とか浪人じゃなくて普通に同級生なんだけど、なぜか歳が4つ上で、私の姉と同い年だった。

身長167cmの私よりも背が5cm以上は低く、イケメンでもタイプの顔でもなんでもなかったが、いつもニコニコしていて、面白いことを言って、同じ学科の中でもちょっとした有名人とまではいかないが、とにかく顔の広い男だった。

シダと仲良くなったのは、多分同じ美術系の演習を選んでいて、そのグループが一緒だったからとかだったと思う。最初はほかのメンバーも一緒に昼ご飯を食べに行ったりして行動を共にしていたが、いつの間にか2人でよく行動するようになった。1回生(※関西では〇年生ではなく〇回生と呼ぶ)は必修科目が非常に多く、1・2回生で頑張っておかないと3・4回生で楽できないという定説があったため、シダは映像系の授業を多く選んでいたが、私たちは授業が被ることも多かった。

同じ学科の数名の友達グループと過ごすこともあったが、私もシダもその時は互いに惹かれ合うものがあったのだろう、学校に行っても2人でいることが多かった。

どいういうタイミングで付き合うという関係になったかが全然思い出せないのだが、気づいたときにはシダはもう私の家に頻繁に来るようになっていた。彼は原付で来れる距離(といっても結構あるが)の実家に住んでいたので、そこから原付でよく私の家に来ていた。私がシダの家に行くことはなかった。

私が住むのは何せ11平米しかない狭い部屋である。男女の関係になるまでにはそう時間はかからなかった。というか基本的にベッドの上しかゴロゴロできる場所がないのでそういう展開になりがちなのは仕方がなかった。

ただ、あくまでも記憶上の話ではあるが、私はシダと朝から晩までサルのように…みたいなことはなかった気がする。それよりも2人で色々なことを話していた記憶の方がある。家の中でもそうだけど、夜中に24時間営業のファミレスでずーっと明け方まで喋っていたり、なんかそんな記憶の方がすごくある。

シダは偏差値的な意味では私より頭の悪い男ではあったが、映画が好きで、結構色々なことを知っていた気がする。話を膨らますのも上手で、面白いことも思いつくし、とにかく話していて楽しかった。話が尽きなかった。

高校生の時にも付き合っていた男子はいたが、本当にちゃんと付き合ってたという意味ではシダの方が本当にちゃんと付き合っていたと思う。例えば夜一緒にコンビニにご飯を買いに行って、家に帰ってきて一緒にご飯を食べるとか、なんかそいういう普通の生活が一緒にできる初めての男だった。

金持ち属性と貧乏属性

やってることは半分お遊びのようなものにも見えるかもしれないが、芸大生、特に1~2回生は必修講義や課題も多く、結構忙しかった。

そして、医大ほどではないにせよ、医大の次にお金がかかるといわれる芸術大だけあって、今思うと結構お金持ちの家の子が多かったように思う。親が医者、公務員、田舎の地主、大きな会社のお偉いさんとか、話を聞いてみると結構そんな子が多かった。私みたいに親に借金があるのに「子供を四年制の大学に入れたい」という単純な親の見栄だけのために芸大に通っている奴なんてほとんどいなかっただろう。

もちろん、全然お金はないけど芸術を学びたいという純粋な気持ちで、奨学金やバイトを駆使してなんとか通っているという人もいた。ただ、そういう人は結局お金が払えなくなって途中からいなくなるパターンが多かったように思う。

私の場合は、奨学金を申し込んでいたこともあり(結局のところその奨学金は親が別のことに使っていたようだが)、家賃と合わせて10万にも満たない仕送りで生活していた。つまり、最低限の生活は仕送りでなんとかできるレベルだが、服やCDを買うなど娯楽に関してはバイトしなければ無理という状況である。

前述のとおり芸大生は大きく分けると金持ち属性と貧乏属性に分類することができ、言うまでもなく私は貧乏属性だった。金持ち属性の子たちはバイトをしようとする素振りなど微塵も見せなかったが、貧乏属性の私は入学早々にバイトを探さなければならなかった。

ただ、芸大生は意外と忙しいのである。朝8時台くらいには学校に行って、帰ってきたら夕方。ちょっとした作品を作ったり、京都とかまで展覧会を見に行ってそれのレポートを書いたりすることもあった。街中の銅像を何十体も調べるとか、ジョンレノンの歌詞をノートに書き写すとか、なんか意味不明なことをやらされたことも今思い出した。

だから、平日にバイトなんて夜遅い時間しか無理だし、安定して働ける時間を確保できるとしたら土日しかなかった。近所のフォルクスで夜のバイトを始めようとしたことがあったが、覚えることが多いのと制服に着替えるのがめんどくさいみたいな理由で3日くらいで辞めた。あとは上本町かどこかでテレアポのバイトに行ったことがあったが、どう考えても怪しいやつでそれは1日で辞めた。

あと、なぜか当時の私はバイトに対して「髪型が自由なところがいい」という強い希望を持っていた。大学に入学して3ヵ月ほどしか経っていなかったが、実家を出る時には無難なオレンジっぽい茶髪だった髪は、その時にはもう当時流行りのアッシュカラーになっていた。きっとそれも普通の人になりたくないという、当時の私なりのこだわりだったのだろう。

たった一言で

忙しいけどバイトをしないと本当に貧乏学生になってしまう。そして1日でも早くこの11平米の狭すぎる部屋から引っ越したいと考えていた私は、バイトを探していた。

大学に入学したのは2000年。ミレニアム。当時はもちろんスマホなんてなく、パソコンを持っている学生だって意識の高いごく一部の人だけだった。だって、学校の中に広い「パソコンルーム」があったくらいなのだから。そこに行けばネットが使えて、印刷もできるからって、結構使っている人は多かった。ただプリンタの調子がいつも悪くて毎回イライラさせられた記憶がある。

そんな時代だ。私はauを使っていたから「ezweb」だったわけだが、まぁ一応ネットは使えて、携帯からバイトを探すことはできた。ただめちゃくちゃ画面は小さいし、今のスマホなんかと比べ物にならない状態だった。初代ファミコンくらいの画質と言っても過言ではないだろう。

で、今はどうなのか知らないが、当時は今でいう「タウンワーク」の有料版のようなものが売られていた。「フロムエー」とか「アン」などの求人情報誌がコンビになどの雑誌コーナーに販売されていたのである。「ezweb」より確実にそっちの方が見やすいので、私はフロムエーを買ってバイトを探していた。

そんなある日、シダが家に来ていた時のことだった。私は「コーヒーレディー募集」というひとつの求人を見つけた。

当時の大阪の最低賃金は699円。コーヒーレディーの時給はたしか平日1000円だか1100円、土日はさらに1200円とかだったと思う。800円ですら「おっ、結構時給いいじゃん」ていう時代である。時給が1000円を超えるバイトなんてわりとヤバい系か人がやりたくない系くらいしかなかった。

「これ、めっちゃ時給ええんやけど、コーヒーレディーって何やろ?」シダに尋ねると、シダは「あぁ、パチ屋で客にコーヒー売るやつやろ。リイちゃん結構合うんちゃう?」と言われた。

実家にいたころ、大学生の兄がパチンコ屋でバイトをしていて、パチンコ屋のバイトの時給がいいことは知っていたので、なるほどなと思った。ただ、パチンコ屋に行ったことのなかった私にとってはうまく想像ができない仕事だった。コーヒーを売るとは…?

勤務地は平野区のJR平野駅前のパチンコ屋。平野区東住吉区の隣なので自転車で通えない距離ではなかった。というか、電車を使うと逆に時間がかかるし面倒だった。

「髪型自由」「土日だけの勤務OK」「ボーナスあり」「コーヒーをお客様に提供する簡単な仕事です」など魅力的な言葉が並べられており、さらにシダの「合うんちゃう?」という言葉で私はすっかりその気になってしまった。

コーヒーレディー。そんな仕事が存在することすら知らなかった私なのに、その日のうちに私は問い合わせ先に面接をしてほしいと電話をかけていた。

茶店にて

面接は平野駅近くの団地だかマンションだかの1階にある古びた喫茶店で行われた。梅宮辰夫を小さくしたような「社長」と、平野レミを落ち着いた感じにさせたような「奥さん」、そしてチーフと呼ばれる工藤静香みたいな雰囲気の若いお姐さんの3人だったと思う。

ちゃんとした店舗ではなく全然関係ない古びた喫茶店で面接をするというところからして「ちょっと怪しいのでは…?」とも思ったが、面接をしてくれた3人は皆感じの良い人だった。何を話したのかは全く覚えていないが、どういう仕事をするか説明を受けたりしたんだと思う。「同じくらいの歳の女の子も働いているよ」みたいな話とか、枚方とか交野、橿原でも仕事をやってて、人手が足りないときはそこにも行ってもらうこともあるかも、みたいなことを言われた気がする。

面接はあっけなく終わり、あっさりと採用が決まった。2週間後の土日から私はコーヒーレディーとして働くことになった。夏休みはできるだけ毎日来てほしいとのこと。

8時半にJR平野駅前のMというパチンコ屋の前に来ること。着替えはパチンコ屋の2階の一室でできること。ボールペンを用意しておくこと。自転車で来てもいいこと。その日までには制服を用意しておくから私服で来ていいことなどが伝えられた。

2週間後の土曜日の朝、私は早速アサヒで買った銀色のママチャリを漕いでパチンコ屋Mへと向かった。自転車で行ってみると結構距離はあったが、まぁ行けない距離ではなかった。ジーパンとTシャツといういつものダサい格好で。髪は金髪でもなく灰色でもない、くすんだ色をしていた。7月くらいだっただろうか。夏休みはすぐそこで、もう外は暑かった。

パチンコ屋と在日

コーヒーレディーとしての初出勤日。店には社長と奥さんと先日の面接にいたお姐さん(アライさん)と、太っているけどチャーミングなアオキさんという女性がいた。男性を数名殺人したのちに獄中死した死刑囚がいたが、アオキさんはイメージとしてはそんな感じの人だった。

パチンコ屋の2階は寮になっていて、従業員用の食堂と個室が10室くらいはあったと思う。私はその一室で奥さんから制服を渡され、着替えた。

制服はユニクロの真っ白なスキッパーシャツと、同じくユニクロのまぁまぁミニ丈のライトグレーのキュロットスカート。そして奥さんお手製のエプロンだった。

奥さんお手製のエプロンはなかなかよくできたデザインというか、既製品のようにとにかくよくできていた。上はバーテンダーが着ているベストのようになっていて、下は控えめなフリルのついた腰で結ぶタイプのエプロンだった。エプロンの前には大きなポケットが2つついていて、赤のチェック柄。AKB48の制服のようなイメージのものだった。

別段エロい格好というわけではないが、上下黒のストライプのパチンコ屋の人たちの制服よりは全然可愛かった。靴下はどんなのを履いていたのか何回思い出そうとしても思い出せない。靴はグレーのニューバランスだったのは覚えている。

制服に着替えると皆口々に「似合うねぇ~!」と褒めてくれた。私は身長167cm、体重は当時で52キロくらいだったので、まぁ自分でいうのもなんだけどスタイルは悪くない方だった。子供を産んでからは見る影もなくなったが、当時はよく胸が大きいと言われていたので、まぁ似合っていたのだろう。

制服に着替えて、開店前のパチンコ屋のホールの入り口入って右手側にあるコーヒーコーナーに行ってから、店内を挨拶に回った。パチンコ屋の社長はいなかったが、店長は優しそうな人で、あとはマネージャーとかチーフとかリーダーとか色々な担当に分かれているようだった。

皆「おっ!新しい子やね!よろしく!」みたいな感じで温かく迎えてくれた。パチンコ屋の店員の人たちも基本的にワケあり感のただよう人たちではあったが、「よろしくね!」みたいな感じで、みんな休憩室で思いっきり煙草をふかせながら微笑みかけてくれた。全員感じが良かった。特に女性の店員さんは「なんでこの人たちこんなところで働いているんだろう」と思うほどの美人ばかりだった。

しばらくしてからわかったことだが、平野区という土地柄もあり、そのパチンコ屋の従業員は在日朝鮮人率が高かった。社長も奥さんもアライさんもアオキさんも一緒に働いていたタカノちゃんもキノシタちゃんも、今思えばみんなそうだったと思う。いわゆる通名ってやつだ。実際にホールで働いた男の子やチーフも韓国の人の名前だった。ホールで働いていたある男の子はほとんど日本語が喋れなくて、いかにも韓国人の男の子っていう顔をしていて、とりあえずいつも笑顔で接してくれて優しかった。日本人の女性が韓国人の男性にハマるのもなんとなくわかる気がした。

彼らが在日だからって別に何がどうということはなかったが、当時の私は「なんでタカノちゃんの本当の名前は『高〇〇』なのにタカノって言ってんだろう。高でいいやん」というなんともいえないちょっとしたモヤモヤ感を抱いていたように思う。

世の中には在日の人を嫌う人もいるし、実際色々ないざこざがあることも知っているが、私の周りの人たち単体で見る限りは、特に私のような普通の日本人と変わりはないように思えた。まぁちょっと感情的になりがちなところはあったかも。でも情にもろくて親切で、基本的に優しい人たちが多かった。なお、今でもそのイメージはあまり変わっていない。

ランウェイ

コーヒーの作り方なども教わったが、アオキさんとアライさんから何より先に教え込まれたことは、ホール内での歩き方だった。パチンコ屋に入ったことのある人ならわかると思うが、パチンコ屋は言ってみればちょっとした畑みたいな感じで真っ直ぐに台が並んでいて、台と台の間に通路がある。私が働くことになったパチンコ屋Mはそれほど大きな店ではなかったので、歩く距離に関してはさほどたいしたことはなかった。

歩くときは、まず通路の端っこに立って、ホールで働く店員さんがいないことを確認する。店員さんが台を調整したり玉を運んでいるときには通ってはいけない。

誰もいなくなったら、一礼をして、台と台の間の通路を歩き、また最後に振り返って一礼をする。その繰り返し。

お客さんがこっちを見ていないか、手を上げて合図をしていないか確認しながら歩く。

歩くときは、背筋を伸ばして、胸を張って、ゆっくりと。

まるでそれはモデルがランウェイを歩くかのごとく。

パチンコ屋はめちゃくちゃうるさいので「コーヒーいかがですか」とかは別に言う必要はなかった。ただ黙ってうるさくて煙草の煙が充満した店内を声がかかるまで歩くのみだ。

それまで私は背の高いことが割とコンプレックスで猫背気味だったが、アオキさんの指導のおかげで背筋が良くなった。あれから20年以上経った今でもその癖は身についたままで、そこは結構感謝している。

そして、初日にアライさんに言われたこと「ありがとうございますは何度言ってもいい言葉だから、何度でも言いなさい」――。

その言葉は、なんだか私の心に刺さった。しつこく「ありがとう」って言われたらウザく感じる人もいるかもしれないけど、なんだかいい言葉だなと思って、今でも大事にしている。

そんなこんなで、私のコーヒーレディーとしての日々が始まった。
マルドロールの朝

どうせダサい格好で出勤するのであればもう着替えるのも面倒だし、チャリ通だし、あの制服のままでいいのではないかと考えた私は、次の出勤日から自宅から制服でバイトに通うことにした。

奥さんお手製のエプロン以外はユニクロ製なわけだから、エプロンだけを身につけずに行けばそんなに変な格好になるはずはないという算段である。それにしても靴下は一体何を履いていたのかが一向に思い出せない。

もうすっかり季節は夏になり、ユニクロの白いスキッパーシャツに丈の短いキュロットスカートという制服のようないで立ちで家を出る。パチンコ屋までのルートは2つあって、その日の気分によって行く道を変えていた。

一つめのルートは今里筋ルート。杭全(くまた)のあたりで右に曲がってしばらく行くと平野駅に着く。一瞬で辞めたフォルクスなど、色々な店が立ち並ぶ比較的華やかなルートではあったが、あまりこちらのルートの思い出はない。

思い出があるのはもう一つの方のルートだ。一旦長居公園通りの方を抜けて、喜連瓜破(きれうりわり)のライフのところを左に曲がる。阪神高速14号松原線沿いをずっと平野駅方面に向かって行くルートだ。大きな道なのでうるさいし排ガスとかも結構臭いし決して華やかではなかったけど、なんか大きな道沿いをスピードを出してひたすら進む感じが当時は心地良かったのだ。

そして、平野駅までの道中、阪神高速沿い、向かって左手側に「マルドロールの歌」というバーと思われる店がビルの1階にあった。見たところそれほど大きな店という感じではなく、私がその店の前を通る時間はもう閉店して店の中に人がいる様子もなかったが、店の前には針金のような金属でできた、ちょうどマネキンくらいの大きさの人の形をした鎧のようなオブジェが置いてあった。イメージとしてはフェンシングの選手みたいな、西洋の騎士のようなものだ。

私はなぜかそのオブジェを見るのが好きで、もはやそのオブジェの前を通り過ぎるために阪神高速沿いルートを通っていたといっても過言ではないだろう。朝の光を浴びて、人通りの少ない店の前に毎朝ひっそりと立っているとにかく印象的なオブジェ。

「マルドロールの歌」というロートレアモン伯爵の書いた本のタイトルが店名になっていることも妙に気になった。おっかなびっくりではあるが、いつかはあの店に行ってみたいと思いながら自転車を漕いでいた。

パチンコ屋の客

私たちコーヒーレディーの通常の出勤時間は9時半くらいだったと思う。店のオープンは10時。がしかし、私が店の横の駐輪場に自転車を停める頃にはすでに店の前には見慣れたオッサンたちがたむろしている。彼らはオープンを待っているのだ。オープンを待つ客はほぼ毎朝同じメンバーである。新台入れ替えの後は並ぶ人も増えるが、新台入れ替えがなくても彼らはオープンを待っているのだ。理由などわざわざ聞いたことはないが、ほとんどの常連客は自分の席(台)みたいなのがあって、オープン後はいつもそこに座っている。

パッと見すごく紳士的でお金持ちそうなおじさまは、いつも正面入り口前の真ん中あたりの列の一番手前の席に座っていたのをすごく覚えている。まさにロマンスグレーという言葉が似合うおじさま。いつもスラックスにシャツにベストみたいなパチンコ屋に来る客にしては上品な服装。今からすぐにどこかで一仕事できそうな格好である。

だけど毎朝朝から夕方くらいまでパチンコをしている。たまにひょいと台から右に顔をのぞかせ、指で「1」を作って手を上げる。「コーヒーください」の合図である。おじさまはいつもブラックのホットを飲んでいた。1日2~3杯くらいだろうか。

おじさまが強かったのか弱かったのかとか、もう全然どうだったか思い出せないくらいそのおじさまは毎日来ていた。毎日来ている割にはそんなに私たちに喋りかけてくることもなくて、ごくまれに「今日はぜんぜんあかんわ」くらいしか言葉は発しなかった。パチンコ屋では常連同士の「友達」や「仲間」ができがちなのだが、おじさまにはそういう人もいなさそうだった。

あのおじさまは一体何者だったのだろうか。毎朝オープンと同時にパチンコ屋に来て、夕方になると帰る。勝っても負けても毎日来る。そんなに毎日勝っていたようには見えなかったが、毎日パチンコをするそのお金は一体どこから手に入れていたのだろうか。それまでは何の仕事をしていたのだろうか。どんな家に帰って、どんな家族がいるのだろうか。なぜ、毎日パチンコ屋に来ていたのだろうか。ほかにすることはなかったのだろうか。

まぁ、そのおじさまだけに限らず、パチンコ屋は結構常連が多いんだなということを働き始めてから知った。趣味といえば趣味だけど、依存症といえば依存症だ。

毎朝きっちりオープンの時間に来れるくらいの気力体力があるなら、別のことをすればいいのに、何をこの人たちはずっと座ってやってるんだ…と思いながら私は彼・彼女たちをいつも見ていた。この人たちがたまにコーヒーを頼んでくれるおかげで私の給料が入るわけだし、別に軽蔑するとかではなかったけど、「なんで?」という不思議な存在の人たちではあった。
コーヒーレディーの仕事

コーヒーレディーの仕事は、多分その店によって微妙に違うと思うし、ちゃんとしているところはちゃんとしていると思うが、私が働いていた店は多分あまりちゃんとしてなかった。

まずコーヒー屋としてのスペースがきちんと設けられていなかった。ガラス張りになっている正面入り口側の、入って右の端の方に大きな銀色の円柱があって、その円柱付近に、よく小さい居酒屋とかにあるような透明の冷蔵庫と、ニトリとかで売ってそうな木製のカウンターが置いてあるだけだった。スペースでいうと1畳分くらいしかなかったのではなかろうか。そんなホールの隅っこの端っこで私たちはコーヒーを作ったりしていた。

使っている水は、店の2階にある従業員用の食堂から汲んでくるただの大阪市の水道水だったが、コーヒーは一応「ハマヤ」というそれなりにちゃんとしたメーカーのものを使っていた。ホットコーヒーはコーヒーメーカーにフィルターをセットして、コーヒー豆を入れ、水をセットして抽出されるのを待つのみ。大量に注文が入るときは大急ぎで作ったりすることもあったが、売れないときは一定時間を過ぎると不味くなるので捨てる。

出来たコーヒーはよく会議とかに行ったら出されるようなカップホルダーに使い捨ての白いカップをセットしてコーヒーを入れる。その頃はコロナ的な衛生概念もなかったので、カップホルダーなんてよほど汚れてないと洗ってなかったと思う。というか洗った記憶がない。

お客さんによって好みは違う。ミルクがいる人にはミルクを入れ、砂糖がいる人には砂糖を入れる。スティックの砂糖2本の人とかもいるし、いわゆる「アメリカン」にしてくれというお客さんもいた。味見とかせず適当にお湯を入れて薄めていたと思う。

あとはアイスコーヒー。アイスコーヒーも多分ハマヤのやつだったと思う。氷はどこから調達してきていたかすっかり忘れてしまったが、ホットコーヒーと同じカップに2個くらい氷を入れていたと思う。で、お客さんの好みに合わせてミルクやシロップを入れて、それを混ぜて出す。

そうしてできたコーヒーをあるときはカップのまま、ある時は小さなトレーに乗せてお客さんのところに運ぶのが私たちの仕事だ。

小汚いおっさん、清潔感の欠片もないおばさん、貧乏そうな若者、そんな人たちがひたすら台に向かってパチンコやスロットをやっているところにコーヒーを運ぶ。台と台の間は狭いので、コーヒーを置くときはかなりお客さんに接近することになる。多分その接近を楽しみにしていたお客さんもいたと思う。

常連の陽気なタイプのお客さんとかだと手を握ってきたりとか、軽く尻を触られるようなこともあった。注文が来ないかホールに立っていたら後ろから抱きつかれたりとかもあった。もちろんそんなときはパチンコ屋のマネージャーとかが「それはあかんで~!」みたいな感じで間に入ってくれていはいたが。まぁわりとそういうことはあった。

当時の私はオッサン耐性がわりと強く、というか、自分でも若い男にはモテないけどオッサンにはモテるという自覚がなんとなくあったため、そういうことをされても「あーまたか」みたいな感じで特に嫌な気にもなっていなかった。もはや「オッサンええ思いできてよかったな」くらいに思っていた。

コーヒーはホットもアイスも250円だったと思う。だからエプロンの片方のポケットには500円玉と100円玉と50円玉が入っていて、片方のポケットには千円札が入っていた。

どこの誰にどのコーヒーを持って行くかは、台の番号とかコーヒーの種類を書く紙があったので最初の方はそれを使っていたが、慣れてくるともう頼んでくるお客さんもだいたい同じなので、何もなくても好みやお客さんの位置を記憶できるようになっていた。

煙草

店のコーヒーについては食堂の水道水ということが脳裏をかすめるので素直な気持ちで「美味しい」とは思えなかったが、わりと子供の頃からコーヒーが好きだった私にとっては美味しいほうの部類だったと思う。

バイトはコーヒー飲み放題だったので、私は休憩の度に店のコーヒーを作って飲んでいた。ホットはなんとなく水道水の汚いイメージがあって嫌だったので、パックからそのまま注ぐタイプのアイスコーヒーをよく飲んでいた。氷を1個にして、大量にミルクを入れたアイスコーヒーを2階にあるコーヒーレディー用の休憩室に持って行って、畳に足を投げ出して煙草を吸いながら飲んでいたことを思い出す。

私は父親がヘビースモーカーだったので、自分は煙草なんて絶対吸わないとずっと思っていたのに、喫煙者であるシダと付き合うようになり、さらにパチンコ屋で煙草のにおいを日常的に嗅いでいるうちに気づいたら自分も吸うようになっていた。ほかの煙草に浮気することは一度もなく、常に「セーラムピアニッシモ」の1mgのごくごく軽いやつを吸っていた。

煙草を吸うと全身の力が抜けるような、クラっとした感覚になって、身体全体がちょっと緩む。煙を吐くと、煙と一緒に嫌な気持ちも身体から出て行くような、それが可視化されているような気がした。当時の煙草は1箱280円くらいだっただろうか。気づけば1日1箱は吸うようになっていた。

今でこそ煙草を吸う人が圧倒的に減ったが、当時は若い人もよく煙草を吸っていたように思う。特に芸大生の女子たちの喫煙率はかなり高かった気がする。基本的に講義や演習が終わったら廊下で煙草を吸うのが当たり前の光景だった。

借金王のドクズな父親がこよなく愛していた煙草は、我が家にとっては完全に悪の象徴だったし、私もドクズの父のようになるまいと思っていたが、気づけば私も煙草の欠かせないドクズ色に染まってしまっていた。

その後、29歳で結婚するまで10年ほど私は煙草を吸っていた。途中、25歳くらいのときに肺気胸で肺が半分くらいまでしぼんでしまい、全身麻酔で穴のあいた肺にクリップを入れる手術もやったけど、結局それでもやめられなかった。

最終的には禁煙外来に行ってチャンピックスという薬を飲むことでやめたが、それまではずっと家族には煙草を吸っていないふりをしていた。多分バレていたとは思うが。

偽りのモテ期

これまでの人生の中で私にモテ期があったとすれば、コーヒーレディーだった頃だろう。ただ、実際には本当のモテ期とはいえない。私がコーヒーレディーだったから、それだけだ。

コーヒーレディーとして働き始めたその日から、何人かの男性から「彼氏いるの?」と聞かれた。当然その時はシダと付き合っていたので「いますよ」と返していたが、あれほどチヤホヤされていたのは後にも先にもあの頃しかないだろう。

ちょっと若い感じのお客さんから「彼氏いるの?」と聞かれることもあったが、パチンコ屋の従業員に聞かれることの方が圧倒的に多かった。

一番よく覚えているのはマツイさんという長身の男性で、元ホストの人だった。たしかに元ホストだっただけあってチャラさ全開な感じで、顔を合わせるたびに「かわいいわかわいい」「江戸ちゃん付き合おうよ」と言われていた。マツイさんはチャーミングな顔立ちではあったが、結構目立つ部分の歯が抜けていた。今思うとなんで歯が抜けていたのか、なんで歯を治していなかったのか謎ではあるが、歯が抜けていることがマツイさんの頭の悪さというか、何も考えてなさそうなところを象徴していた。結局最終的には店と喧嘩して辞めていった記憶があるが、マツイさんはだいぶしつこかった。

あとは、シミズさん。シミズさんは小太りな感じの人だけど優しい純朴そうな人だった。なぜかシミズさんからは早い段階から「江戸っぺ」と呼ばれていた。詳しい住所までは聞かないし教えなかったが、家が近所で同じチャリ通だった。マツイさん同様、シミズさんからも「江戸っぺ~」「江戸っぺ~」とやたら気に入れられており、シミズさんの方が早く上がっているのに私が帰る時間まで待たれていた時もあった。

こうやって書くとまるでシミズさんがストーカーのようではあるが、そういう感じの人ではなく、とにかく私と一緒に自転車で帰りたいみたいな感じだった。実際一緒に自転車で帰ったら方向がかなり近かった。そしてシミズさんはそれだけでも十分満足そうだった。ああいう人と結婚していたら幸せになれていたのかもしれない。

あとは前の方に書いた韓国人の男の子からも、早番が終わって帰ろうとしていたら従業員寮のところで声を掛けられて「部屋に寄って行かない?」と片言の日本語で誘われたこともあった。その誘い方ははにかんだような感じでとても可愛いらしかったが、一応彼氏もいたしそもそも日本語でちゃんと会話もできそうでなかったので断った。

なお、今はどういうシステムなのかよく知らないが、パチンコでは換金に足りなかった分をお菓子に変えたりするシステムがあって、お客さんからはしょっちゅうそのお菓子をもらっていた。休憩から戻ってきたらカウンターにお菓子だけが置いていあるようなことも日常茶飯事だった。

とにかくそんな感じでコーヒーレーディーはチヤホヤされた。多分コーヒーレディーの仕事が楽しかったのは私みたいなのでもチヤホヤされる環境だったからだろう。もちろんほかにも楽しいことはあったが、やはり人間チヤホヤされると気分がいいものである。

シダとの関係

コーヒーレディーの仕事が始まってほどなくして大学も夏休みに入ったので、私はほとんど毎日のようにパチンコ屋に通っていた。シダとの関係は続いていたが、おそらくシダも何かバイトをしていて、お互い日中は会えないことが多かったんだと思う。日中に会っていた記憶がほとんどない。

よく覚えているのは、やはり夕方ごろにシダが家に来て、夜は近所のファミレスで長々と喋り続けて、私の狭い部屋で朝まで過ごすという日々だった。シダとは本当に話が尽きなくて、明け方までベッドの上で話し続けていたこともよくあった。

ただ、その時は深く考えていなかったが、シダは日中会える日でも、ある曜日だけは毎週夕方近くになると必ず行く場所があるといって帰っていた。

今思えばそれが終わりの始まりだった。あの頃、私は初めての一人暮らしで、色々知らないこともまだまだあって、でもなんでも話せる彼氏がいて、バイトは楽しいし、多分私は浮かれていたんだと思う。

ハヤブサ

いまでこそ昨日あったことですらろくずっぽ覚えていない私だが、若いころはかなり記憶力が良かった。

その甲斐あって、パチンコ屋の常連の顔、いつも座る台の位置、コーヒーの好み、客同士の仲良しグループの構成など、私は次々と覚えていった。耳元で喋らないと相手が何を話しているかもわからないほどの騒音にまみれた店内の中で、呼ばれたお客さんからスムーズにオーダーをとり、スマートにコーヒーを差し出すことは思いのほかお客さんたちに好印象を与えていたようだ。

そんな意外な自分の才能も手伝って、ある日曜日、私はコーヒー屋史上過去一番の売り上げを出した。社長と奥さんは大いに喜び、たしか1万円くらいボーナスを手渡しでもらった気がする。その日は新台入れ替えの影響もあってお客さんの入りが良かったのも功を奏していた。

バイト三昧の日々を送る中、私は行き帰り、自転車を漕ぎながらいつも音楽を聴いていた。その頃はまだパソコンもそれほど若者に浸透してなくて、iPodではなくМDを聞いていたと思う。

ちょうど7月にスピッツの「ハヤブサ」というアルバムがリリースされて、ずっとハヤブサを聴きながらバイトと家の往復をしていた。中でも「さらばユニヴァース」と「8823」「メモリーズ・カスタム」がお気に入りで、「8823」は阪神高速14号松原線沿いルートの広い道を、自転車で思いっきり飛ばす時に最高のBGMだった。

朝は「マルドロールの歌」の前にあるオブジェを横目に、帰りは営業の始まった「マルドロールの歌」の様子を少し伺うようにして、パチンコ屋と家の往復を繰り返していた。夜はシダが家に来ていることもあったし、コンビニでなんか買って食べて、煙草を吸って寝るみたいな日々を繰り返していたように思う。

人・間・不・信

そんなある日のこと、シダが「知り合いに仲ええカップルがおるんやけど、リイちゃんのことを話したら2人とも会いたいって言うてるから、今度会わへん?」という話を持ち掛けてきた。

断る理由などは特になかったし、どこに遊びに行ったかは全く覚えていないが、車で迎えに来てくれるということで私は当然のようにその誘いに乗った。

数日後、白いワゴン車でそのカップルが迎えに来た。

彼氏の方は長身で眼鏡をかけていて、ニコニコしていていかにも好青年という感じの人だった。おそらくシダと歳は同じくらいだったと思う。彼女の方も、おそらくシダと同じくらいの歳で、宮崎あおいをもっと柔らかい雰囲気にしたような、非常にチャーミングな人で、2人とも私を快く迎え入れてくれた。

出掛けたのは夜だったのは覚えているが、どこに遊びに行ったとかは覚えていない。とにかくいい人たちで、雰囲気が良くて、仲良くなれるんじゃないかと思った。その日は特になにもなく、また遊ぼうという約束をして別れた。

それから数日後のことだった。

シダから突然、今度この間遊んだあのカップルたちと「ある場所である集まり」があるのだが、それに来ないかと誘いを受けたのだ。

よくよく話を聞いてみると、それは某宗教団体の集まりだった。シダはその宗教団体の会員というか、とある部門の幹部のような立ち位置であることがわかった。先日紹介されたカップルの両方もそうだった。

宗教について、私は母方の実家が天台宗のお寺で、父方は浄土真宗で、それほど信心深くもない普通の仏教徒である。無宗教といっても良いくらいだが、一応お坊さんの孫なので仏教徒でいるつもりではある。キリスト教がかっこいいと思うこともあるし、天理教の幼馴染みもいるし、それまで宗教についてそこまで深く考えたことはなかった。

ただ、シダが入っている宗教については全く良いイメージがなかった。実家の近くに同じ宗教に入っている人がいて、その人は普段はいい人なのだけれど、選挙前になると電話を掛けてきたり、母が頼み込まれて何度となく一定期間薄っぺらい新聞を取らされたりしていたのを覚えていたからだ(ここまで書くともう何の宗教かお察しかとは思うが)。

うまく表現できないが、なんというか、信教の自由ということは頭では理解していても、心の中でその宗教に対して拒否反応を起こす自分がいることがはっきりとわかった。

「えっ、じゃあこの間の〇〇さんも△△さんもそうなん?」私が訪ねると、シダはあっさりと認めた。瞬間的に「騙された」という思いがよぎった。その宗教がどうこうよりも、この数か月間そのことについて触れられなかったことがショックだったのかもしれない。

これまで決まった日に必ず帰っていたのはその集会があったからだったこともその話の中でわかった。

「リイちゃんが思うようなところじゃないから、一回だけでいいから来てみて」とシダは言ったが、私はその場で返事ができなかった。

シダの話を聞きながら、色々なことが繋がっていった。シダが入っていたサークルのサークル名が思いっきりその宗教と関連のある名前であったこととか、シダのちょっと変わった名前の由来とか、シダが住んでる地域はその宗教の人が多いこととか、色々なことがあっという間に繋がっていった。

なんでもっと早く気づかなかったんだろうと、自分でも馬鹿だなと思った。

相反

芸大に入学してまだ数ヶ月。それでも私は、芸術とは、表現とは、常に自由なものであると考えていた。また、それらをつくる人の心も自由であるべきだと。

例えばその人が犯罪者であっても、その人を愛する人がいたり、その人が誰かを愛することはあって良いことであると思っていたし、好きになった人が男でも女でも、その人のことを好きになったならそれは事実であり、何ら問題ないことだと思っていた。

芸術の道を歩むものとして、私の心、思想は自由なものであり、解放されていると思っていた。

しかし、シダから告げられた事実を前に、私は自分の心が全く自由でないことに気づいた。シダから事実を告げられるまで、何でも話せる大切な人だと思っていたのに、真実を告げられたその瞬間から、私の中に広がっていた何もない大地に、何本もの鉄筋が刺さったような感覚になった。

私の心は全然自由じゃなかった。私の心に広がっていたはずの何もない大地には、実は無数の道路があって、自由に歩くことなんてできない、すでに区画整理がされた狭い土地だったことを思い知らされた。

シダとの関係をどうするか、すぐに答えは出せなかった。2~3週間くらいは悩んだと思う。

私が信心深い仏教徒であったならともかく、そうでもない。相手が信仰する宗教がなんとなく気に食わない、ただそれだけの理由で別れを選んでよいものなのか。本当にシダのことが好きなのであれば、自分が入信するかは別として、シダの考えも受け入れるべきではないのかと。

しかし、私にはできなかった。自分を正当化するのであれば、自由であるべき芸術に宗教は不要だと判断したともいえる。宗教画や仏像といったものとはまた別の世界の話として。

また、シダが知り合ってから数ヶ月の間、信者であることを隠していたことも私に大きな不信感を与えた。自分がそれほど熱心に信仰する宗教なのであれば、なぜ最初からそのことを私に伝えないのか。

シダなりに、いきなりそんな話をすると私が去ってしまうと考えたのかもしれないが、私としては、いっそのこと堂々と最初に言って欲しかった。自分がそれほどにも信じてやまないものなのであれば、堂々と告げるべきであると。その結果として私たちの関係がどうなっていたかはわからないが、とにかく卑怯だと思った。

シダに別れ話を告げたとき「なんであかんの?」的なこととか「偏見を持たないでほしい」的なことを言われたが、私の決心が揺らぐことはなかった。

シダはいわゆる宗教2世というやつだった。幹部を務めるほどなのだから、まぁそうなんだろう。シダの両親もバリバリの信者だった。ただ、シダには私と同い年の弟がいたが、弟はそれほど信心深くないようで、それが家庭内の困りごとのように話していた。

安倍元総理の銃撃事件以来、宗教二世に関する問題が世間から注目されるようになってきたが、私はその20年以上前から、某政党のポスターを見たり、某新聞社のCMを見たりするたびにシダのことを思い出し、また、宗教二世について考えていた。

トラウマ

そんな出来事もありつつ、夏休みは終わり、後期となった。同じ学科の友達にシダとのことを話すと皆少し驚いてはいたが、「それはキツイ」という意見が大半だった。中にはシダの入っていたサークルなどから、シダが某宗教と繋がりがあることを疑っていたという子もいた。また、「あの子もそうだよ」といった話も聞いた。

シダは後期になっても普通に大学に来ていた。前期の終わりの方は大学に行っても私はほとんどシダといたので、しばらくの間、休み時間とか、誰といればいいのか私はわからなくなった。

幸い、そのあたりは自由な校風というか、ゆるい考えの人が多い環境だったので、シダと話すことや一緒に行動することは一切なくなったが、少しずつシダのいない友人関係は再び構築されていった。私にとっては、なんとなく新たに大学に入り直したような感覚だった。

なお、シダの一件があって以来、私は新しく知り合う人の宗教をすごく気にするようになってしまった。友達レベルであればそれほど気にすることはなかったものの、基本的に「何か隠している重大なバックグラウンドがあるのでは」といった目で人を見るようになった。何教とかそいういうことよりも、重大な事実を隠していないかを気にするようになってしまった。

その後、大学在学中に私は2人の男性と付き合うことになるのだが、どちらの彼氏にも結構早い段階で「ちょっと変なこと聞くけど、家の宗教って何?私は浄土真宗なんやけどさ……」みたいなことを尋ねていた記憶がある。もちろん、その後付き合った人に対しても同じ質問は必ずしていた。その質問が差別的であり異質な質問であるとわかっていても、聞かずにはいられなかった。

宗教については、今も基本的にやはり信教の自由であるとは思っているし、そう考えている人も多いだろう。ただ、実際、宗教の違いを目の前にした場合、苦悩する人は多いのではないかと思う。

これは宗教に限らず言えることだろう。遠目から受けるイメージと、実際に当事者になることには大きな差異があるものだ。

そしてアルバイトはつづく

私は映画には全く詳しくなく、そもそも同じ場所に長時間拘束されることが苦手なので、映画はそんなに見ない方なのだが、イランの名匠と呼ばれる故・アッバス・キアロスタミ監督の映画は好きだった。

その監督を知ったのは、実家にいたころBSでたまたま放送されていた「鍵」という彼が脚本を手掛けた映画を見たことがきっかけだった。今でも多分一番好きな映画といえばその「鍵」で、再び何かのチャンスがあったときに録画していた「鍵」のVHSを私は持っていた。「そして人生はつづく」という作品を録画したVHSも持っていた。

映画が好きだったシダもまた、アッバス・キアロスタミ監督の作品が好きで、私たちはその話題で盛り上がったこともあった。そして、私は貴重なその「鍵」などが録画されたVHSをシダに貸したままだった。

メールで「ビデオ返して」的なことを言ったりもしたが、返してもらえなかった。というよりは、少しずつシダを大学で見かけることが少なくなってきていて、返してもらえそうなタイミングも少なくなっていたのだった。

そんなこともありつつも季節は過ぎつつで、私は引き続き土日を中心にコーヒーレディーのバイトを続けていた。

私が彼氏と別れたという噂はたちまちパチンコ屋のホールで働く人たちにも広まった。そして、再びマツイさんやシミズさん、さらに新しく入ってきたコウノさんなどからのチャラいアプローチは復活した。

しかし、完全に人間不信に陥っていた私は、しばらくの間、あらゆる人が何か大きな嘘をついているのではないか、周りの友達も実は私に本音でなんて会話していないのではないか、といったことを考えており、新たな恋なんてしばらくしたくないと思っていてた。

そんな中でも唯一、パチンコ屋の店員さんの中にいいなと思う人がいた。その人は、ノリムラさんといって、いつも飄々とした雰囲気の、いで立ちからしてミーアキャットみたいな感じの人だった。ただ、ノリムラさんには彼女がいたのでそこから先は何も起きなかった。ただ、ノリムラさんと出勤が被る日は、ホールの通路の端っこに立ちながら、働くノリムラさんを目で追いながらバイトを続けていた。

そして、ノリムラさんと同い年くらいの人で、ウエダさんという人もいた。ウエダさんはサッカー少年で、いかにもサッカー少年という感じの独特のフットワークの軽さみたいなものを持ってる人だった。

ウエダさんについては、私と同じコーヒーレディーをしていたタカノちゃんがずっと想いを寄せている人だった。タカノちゃんは私が入る前からコーヒーレディーをしていて、私が話を聞く限りではウエダさんのことがだいぶ好きな様子だった。たしか私が知っているだけでも2回くらいは告っていたんじゃないかと思う。

しかし、ウエダさんには同棲をしている彼女がいて、タカノちゃんの恋は結局最後まで実らずじまいだった。でもタカノちゃんはやっぱりウエダさんのことが好きな様子で、なんとも悩ましい状態が続いていた。

ウエダさんはジャニーズのイノッチみたいな見た目で、誰とでも気さくに話す人であり、そういうところがウエダさんの魅力だった。タカノちゃんが好きになる気持ちもよくわかる感じの人だった。そんなわけで、ウエダさんは私にも気さくに話かけてきてくれたりもして、まぁバイトはそれなりに楽しく続けていた。

基本的には土日を中心に働いていたが、平日でも入れる日があれば遅番で入ったりとかして、結構働いていたので、私の引越し資金のための貯金も少しずつ貯まっていっていた。

ひとめぼれ

そんなある秋の日のことだった。土曜日、大学のない日。いつものように朝バイトに行ったら、パチンコ屋のホールに見知らぬ男の子が働いていてた。

私は彼を見た瞬間に恋に堕ちた。理由は単純明快、顔が当時の私にとってめちゃくちゃタイプだったからだ。

その男の子はクジくんと言って、私と同い年だった。ウエダさんが教育係だったようで、ウエダさんとよく喋っていて、クジくんもまた明るい性格というか、ある意味いい加減というか誰とでも適当に話せるような性格のようで、前からいるパチンコ屋の人ともすぐに打ち解けていた。

今となってはどうやって私がクジくんと距離を詰めていったのか記憶が定かではないが、私はウエダさんから情報収集をしつつ、クジくんと少しずつ話すようになった。まずは同い年であるというところから始まり、あとはクジくんはフリーターだけど、夜はクラブでDJをやっていて、ドラムンベースというジャンルのDJをやっているという話も聞いた。

当時、私たち芸大仲間周辺ではいわゆる「ロキノン系」、つまりは雑誌「ROCKIN'ON JAPAN」に載っているようなアーティストが流行っており、洋楽を聴いてるか、ロキノン系のアーティストを聴いているかという感じで、聴いてる奴はだいたい友達、男子は結構DJやってます、女子は結構ライブ行ってます、みたいなノリだった。

で、ロキノン系の中でも、私はとくに「スーパーカー」を筆頭に「くるり」「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」「ナンバーガール」「ゆらゆら帝国」などなどが好きで、クジくんは私が当時一番大好きだった「スーパーカー」のボーカルの中村弘二(通称:ナカコー)にそっくり……とまではいかないが、かなり同系統の顔立ちだったのだ。

しかも当時のスーパーカーくるりオルタナティヴ・ロックというギター・ベース・ドラムを中心とした従来のロックバンドの方向性からエレクトロニック(クラブミュージック的な感じ)の方向に向かっている時で、私にとってナカコーのような顔をしたDJをやっているクジくんはまさにどストライクな存在なのであった。

ノイズまみれの恋

クジくんがいてもいなくても、コーヒーレディーのバイトは楽しかった。

パチンコ玉を買うカードのところに千円札が落ちてたりとか、ドル箱(パチンコ玉を入れる箱)が倒れて床がパチンコ玉だらけになってそれをみんなで集めたりとか、地下のパチンコ台を制御している部屋に入れてもらえたりとか、田舎から出てきたばかりの私にとっては初めてのことがいっぱいだった。

パチンコ屋の店員もワケありっぽい夫婦が住み込みで働いていたりとか、歌手になるのが夢で西成の安いアパートに住みながらコーヒーレディーをしている子がいたりとか、最近顔色が悪いと思ってたら妊娠して辞めちゃう子がいたりとか、まぁなんていうか、やはりパチンコ屋ならではの雑多さがあり、でも私にとってはそれが刺激的でなんだか特別な時間だった。

そして、そんな日々の中に突如登場したクジくんの存在。コーヒーレディーのバイトはそれまで以上にもっともっと楽しくなった。

クジくんはそんなに背が高くなくて、私(167cm)と同じくらいで、形容し難いが、若干長めの髪をしていた。色が白くて目が大きくて、本人は「俺は尾藤イサオに似ている」と言っていた。

クジくんは私がちょっといいなと思っていたノリムラさんと同系統の飄々としているタイプの性格だが、かなりいつもふざけていて、しょうもないことを言ったりモノマネをしたりとかして、パチンコ屋の店員さんたちにも可愛がられる存在だった。たまにふざけすぎてマネージャーやチーフに怒られたりもしていた。ただ、なんかいつもちょっと影があるというか、120%自分を出しているという感じでもなくて、ちょっと引いたようなところがあり、またそこが私にとっては魅力的であった。

「クジくんがタイプだ」ということは教育係であるウエダさんにはすでに話しており、ウエダさんも私がクジくんと同い年ということを本人に伝えていたので、私とクジくんが同い年として友達のようになるのにはそう時間はかからなかった。

どんなことを話していたかは忘れたが、コーヒーの注文が入るまでホールの隅で立って待っているときとか、クジくんと並んでホールを眺めているときに一緒に話すわずかな時間がとても楽しかった。ただ、パチンコ屋の中は玉がジャラジャラ流れる音と台から流れる電子音と、「〇〇〇番台海物語から~ラッキーフィーバースタートおめでとうございま~す!」的な館内放送と爆音BGMが混じり合いめちゃくちゃうるさいことこの上なかった。

だから、いや、そのおかげで私たちはお互い耳元で声を発するという会話方法を常にとっていた。距離が近い。それもまた私の幸福度をより一層高めるのであった。

コウノさんの家

クジくんはパチンコ屋の近くにある団地に家族と住んでいるらしかった。その頃はバリバリの就職氷河期だったので、大学に行かずクジくんのように高卒でフリーターをしている人がいてもそんなに珍しくはなかったように思う。

そして、クジくんと同じようにパチンコ屋の近くに一人暮らしをしているコウノさんという人がいた。私はコウノさんからアプローチを受けたこともあったのだが、コウノさんはニコニコ人当りのいい感じではあるものの、見るからにどう見てもヤンキーで私のタイプでは全くなかったため、そこから先に進むことはなかった。ただ、すごくいい人で、私がクジくんのことが好きということも知っていたので、ある日、「遅番終わったらみんなで俺んちで飲もうぜ」みたいな提案をしてくれた。

もちろんそのメンバーにはクジくんも含まれていた。コーヒーレディーは私ともう一人くらいいたかもしれないが、6~7人くらいでバイトが終わってからコウノさんの家に集まって、お酒を飲んでウダウダしていたと思う。

で、どういう展開でそうなったのかは覚えていないが、1人減り、2人減り、最終的には私とコウノさんとクジくんの3人が残るという展開になった。クジくんは家まで歩いて帰れるし、私もチャリで帰れるけど、多分もう夜中の2時とか3時とかで、江戸ちゃん危ないから朝までいなよ、みたいな感じになったんだと思う。

で、とりあえずもう眠いし朝まで寝ようぜみたいな感じになって、別にエロい展開には一切ならなかったが、コウノさんは自分のベッドで寝て、私とクジくんは床に並んで同じ毛布を被って寝ることになった。

私にとってはたとえコウノさんが同じ部屋にいたとしても、クジくんが横で寝てるなんて最高の状況である。大好きなクジくんが隣で寝転んでいる。ドキドキが止まらない。

コウノさんが邪魔とかそういう気持ちは全くなく、むしろヤンキーなのにエロい展開とかにもせずにこの状況を作り出してくれたコウノさんには感謝しかなかった。

私はもちろん寝られるはずなんてなかった。なんならコウノさんが寝ているのを見計らってクジくんが何かちょっかいでも出してくれないかという期待すらしていた。

でも結局朝まで何もなかった。クジくんは多分途中から寝ていたし、私も多分最後は寝ていたと思う。そのまま朝になって、私とクジくんはそれぞれ帰路についた。

私は、何もしてこなかったクジくんに対して、チャラい男ではないという確信を持ったと同時に、私はクジくんに女として見られていないのではないかという不安も覚えた。あの夜、クジくんが手でも繋いできてくれていたら結構最高の展開だったと思うが、そんな夢物語は起こらなかった。

クジくんの近くで長い時間を過ごせたという幸せを感じたと同時に、一抹の寂しさもそこにはあった。

冬は終焉に向かって

季節は冬。季節が変わろうとパチンコ屋に来るお客さんが変わることはない。変わることといえばホットコーヒーの注文が増えることくらい。

平日は大学に行くが、1回生(1年生)は哲学とか英語とか一般教養系の授業が多く、自分の学科の授業もまだ造形原理とか〇〇概論とか、専門性の高いものは少なく、退屈だった。全く音楽の道に進みたくなくても全員強制的に音楽スタジオのある教室に行って講義を受けたりだとか、映像に興味がなくても高額なカメラを持ち帰って短編の作品を作らないといけなかったりとか、大学の方はまさに「下積み」の状態だった。

2回生・3回生になると、一般教養の単位が取れていれば自分の学びたい分野の授業を選択できるという仕組みではあるが、私の場合、好きな授業を選択しつつも、3回生は週の半分はバイトに行っていて、4回生に至っては週に1回くらいしか大学に行っていなかった気がする。

話が逸れてしまったが、まぁそんな感じで、大学1回生では特にこれといったこともなく、楽しい時間といえばクジくんに会えるバイトの時間という日々が続いていた。クジくんからは彼が作ったというドラムンベースのミックスMD(?)をもらったりして、少しずつではあるが、以前よりもより仲は良くなっていた。

入れそうな日には積極的にシフトに入り、たまに社長の車に乗って1時間以上かかる遠くの店舗までヘルプに行ったりしながらせっせと働いたおかげで、当初30万ほどしかなかった私の貯金は年を越すころには100万円を超えていた。

そもそも、バイトをしなければいけない理由は、仕送りが少ないことと、一日でも早く6畳も満たないあの狭い部屋を出るための資金作りであった。学生が住むような部屋で、しかも次に引っ越そうと思っていたのは大学駅のある喜志駅の隣の古市駅という、ちょっとしたターミナル駅のような場所である。大阪市から羽曳野市への引越しになるので、針中野の部屋と同じような金額でも広い部屋に住むことができた。

引越しをすると当然バイト先のパチンコ屋まではかなり遠くなり、自転車で通うことはできなくなる。通勤時間を考えると結構無理があるし、交通費もかかるので社長サイドにとっても微妙なところである。

引越しをしてバイトを辞めればクジくんには会えなくなるけど、それはバイト上の話であり、すでにクジくんと連絡先を交換している私にとっては、もしクジくんと上手くいくという道があるのであれば、引越しすることはそれほど障壁にはならないと考えた。

そしてひとまずバイトは辞めず、しばらくは電車で土日だけシフトに入る形で、私は大学の後期が終わる2月頃、針中野から遠く離れた古市駅の新しいアパートに引っ越した。

もちろん敷金や礼金は全て自分で貯めたお金である。引越し後の春休みにイギリスに旅行に行くほど、貯金は貯まっていた。

クジくん、新居に来る

私には幼稚園からの幼馴染みのマミちゃんという親友がいて、マミちゃんは高校を卒業してから一度マミちゃんのお父さんが働いている結構な大企業で働いていたが、性格的に仕事内容が合わず、その頃にはもうフリーター生活を送っていた。

マミちゃんは実家暮らしだったので私の地元である兵庫のとある町に住んでいたわけだが、めちゃくちゃフットワークが軽く、車の運転が上手だった。というか免許を取ってすぐに乗り回していた。

しかも髪型をアフロにしたと思ったら坊主にしたり、タトゥーを入れたり、私よりも芸大生っぽい感じの子だった。しかし、顔は可愛く、情にもろく、男の人に優しいので常に彼氏がいるような子だった。現在は落ち着いてきているが、当時はヤンキーではないものの、相当やんちゃだった。

中学までは同じだったが、高校は違ったので一度疎遠になりかけたものの、高二くらいの時に中学の同級生が事故で亡くなり、その通夜に一緒に行ったことからまた仲が良くなったのだった。

マミちゃんは当時いわゆるピックアップトラックと呼ばれる感じの、ラッパーとかが乗っていそうな真っ赤な車(後ろに大きな荷台がある車)に乗っており、私の引越しもその車を使って、男友達に手伝ってもらいながら自力でやったわけだが、その後もその車に乗って遊びに来てくれた。

あの頃の私たちはまさに青春の最中にいた。夜中に音楽を聴きながら煙草をふかし、兵庫や大阪の街を車で駆け巡ったりしていた。「2人なら無敵」そんな勢いがあった。

そしてそんなマミちゃんが大阪に遊びに来てくれた時に、マミちゃんがクジくんに会ってみたいという話になり、クジくんを私の新居に呼んでみることになった。

ここまで書いたとおり、クジくんはDJをやるような男であり、仲間との付き合いを大切にするノリの良い男である。時間は夜であったが遊びに来てくれるということで、どこかの駅でクジくんをピックアップして、クジくんが私の新居にやってきた。

そのとき何を話したかとか、何をして過ごしたのかとかは全く覚えていないが、マミちゃんもノリの良い子なので、私たち3人は楽しい時間を過ごしたことだけは覚えている。

そして私たちはクジくんと3人で記念写真を撮った。もちろんどさくさに紛れてクジくん単体や私とクジくんのツーショットなどを撮ったことはいうまでもない。

そのとき撮った写真はすぐに現像して、私の宝物になった。
さよならコーヒーレディー

新居のマンションは8畳くらいのワンルームではあったが、クジくんを呼べるくらいの広さはあり、針中野の家に比べると随分とまともな部屋だった。私が針中野から学校の近くに越してきたということで、古市駅周辺に住むの友達も私の家にやってくるようになり、酒盛りをすることも増えた。男友達も一緒に集まったときにコーヒーレディーの格好をしたら喜んでいたことを思い出す。

自分で選んで、自分で貯めたお金を使って借りた部屋は何とも言えない充足感に満ちていた。

ただ、やはり土日だけとはいえバイトに行くのは大変だった。

一旦近鉄南大阪線阿部野橋天王寺)まで出て、天王寺からJR関西本線に乗り換えて平野駅に行く。まぁ電車だけで考えれば電車には40分くらい乗れば着くのだが、ドアtoドアだと1時間くらいになる。チャリで10分くらいで行き帰りできていた私にはとても遠く感じた。

そんなわけで、コーヒーレディーのバイトは一旦辞めることにした。とはいえ、一度身につけたスキルは無駄になることはない。ましてや私は最高売上を叩き出した売り子でもあったので、完全に辞めるというわけではなく、またヘルプとかできそうな時があったら来て、みたいな感じでバイトに行かなくなった。

クジくんの告白

じゃあ、クジくんとはどうなるのという話になるわけだが、私は意を決してクジくんに告白することに決めた。ただ、それまでにもクジくんのことが好きというアピールは本人に散々してきていたので、クジくんも気づいてないわけではなかったと思う。

私はクジくんに限らず、いつも「あなたのことが好きです」というアピールは散々できるのに、面と向かって告白することができない小心者の女だった。

今思うと、それまで付き合ってきた数名の男の子たちは面と向かって告白してきてくれていたのに、私はなぜ自分は同じことができなかったのだろうと思う。告白の現場を目の当たりにした経験があるのなら、自分だって同じことができそうなはずなのに。

でもやっぱり面と向かって告白できなかった私は、クジくんにメールを送った。内容は「バイトは辞めてしまうけど、クジくんのことが好きだから、付き合ってほしい」みたいな内容だったと思う。

何時間、いや、何日後かが過ぎた頃だった。クジくんから私の携帯に電話がかかってきた。最初はお互い照れ隠しではないが、「最近どう?」みたいな話をしてはぐらかしていたように思う。

そしてしばらく経ったあと、クジくんが「あの、この間、江戸ちゃんがくれたメールのことなんやけど」みたいな感じで話を切り出した。私もドキドキしていて、一言一句何を言われたのかまではわからないが、クジくんが話を始めた時点で「これは駄目だな」ということはなんとなく悟った。

クジくんから語られたその話は、思いもよらぬ内容だった。

クジくんの話によると、クジくんが16歳くらいの頃、つまり高校生になって間もない頃、友達とバイクに乗っていたそうだ。いわゆる2ケツ、2人乗りである。そしてそんなある日、友達とクジくんは事故ってしまい、運転をしていた友達は亡くなってしまい、クジくんだけが生き残ってしまったというのである。

クジくんは、今でもそのことを引きずっているとはっきりと言っていた。そして、「江戸ちゃんのことは友達としては好きだけど、今はまだ誰かと付き合ったりとか、そいういう気になれない」と言った。

いい加減そうに見えて気を遣うクジくんのことなので、本当は単純に私が恋愛の対象にならないけど、そういう理由をつけてやんわり断ってくれていたのかもしれない。

本当に私と付き合いたいという気持ちがあったとしたら、友達とのことも乗り越えられていたのではないかとも思ったが、私はいつもふざけてばかりいるクジくんが、初めて自分のこころの内側を話してくれたことに驚くと同時に、素直にその言葉を受け入れた。

「そっか、なんか困らせちゃってごめん。またイベントあったらクラブ行くから誘ってよ」――。そんな感じでその日の電話は終わったと思う。

クジくんのこと

クジくんと私が出会ったのは19歳。クジくんの友達が亡くなったのはおそらく逆算してもまだ3年ほど前のことだろう。

私が見る限り、クジくんの顔や手は白くて綺麗で、大きなケガの痕などはなかったが、自分と一緒にそれまで楽しく遊んでいた友達が、目の前で突然死んでしまったら、どんな気持ちになるだろうと思った。例えば私なら、マミちゃんと夜に車で街を走っていて、運転していたマミちゃんだけが急に車に押しつぶされて死んでしまったらどんな気持ちになるだろう、と。

いつも明るくて調子のいいクジくんが、今のクジくんになるまで、クジくんはどんな気持ちになって、今のクジくんになることができたのだろう。

クジくんとの電話のあと、私は自分の失恋のショックよりも、クジくんのこころにこれまでどんな動きがあったのか、どんなに辛い思いをしたのかとか、彼はこれからもずっと友達のことを引きずって生きていくのかとか、ずっとそんなことを考えていた。

クジくんの明るさとか、いい加減さとか、友達付き合いを大切にするところとか、きっとクジくんのそういう部分はクジくんのこころにできた傷を埋めようとしている、かさぶたのようなものだったのではないだろうか。

クジくんが、いつもふざけながらもなんとなく影のある感じ、一歩引いたような、俯瞰したような雰囲気を持っていたのは、こころに負った大きな傷のせいだったのかもしれないと思った。

そのこころは、マルドロールのオブジェ

あの電話以来、私からはクジくんに連絡することはなくなった。一度だけ、イベントをするという連絡があった記憶があるが、結局行くことはなく、私も次のバイトをしたり、新しい彼氏ができたりして、それらから連絡をすることもなくなった。

引越しをして、コーヒーレディーのバイトも辞め、「マルドロールの歌」の前にあるオブジェを自転車で通り過ぎることもなくなってしまった。

大学に入ってからの1年間、色々なことというか、ほとんどバイト中心の生活だったけど、音楽を聞きながら朝日を浴びたあのオブジェの前を通り過ぎていた時の、キラキラしていた自分のことは今でも忘れられない。あれもまたいわゆる青春の1ページというやつなんだろう。

そして、今でも思うのは、人のこころはいろいろで、私には全然見えないということだ。

結局私は、シダのこころもよく見えないというか、深く考えて悩んでも理解できず、受け入れることができなかったし、クジくんのことも、クジくんから事故の話を聞かされるまでは何も知らないままだった。

あれから20年以上経つが、いまだに人のこころがちっともわからない。宗教を超えて人を好きでい続けることが正しいのか、こころに傷を抱えた人をずっと待ち続けるのが正しいのかもよくわからない。

「マルドロールの歌」のオブジェみたいに、私たちの身体は無数の針金が絡み合ってでできていて、中身は見えそうで見えない。見えないけど実のところは空洞、透明で、何も見えやしない。雨の日も晴れた日も、ただそこに立っている。その傍を人が通り過ぎていく。たくさんの人が。

あのオブジェは今はどうしているだろう。シダもクジくんも、バイト先のみんなも、今はどうしているのだろう。

ただ、きっとみんな、今もまだ、オブジェみたいなままなんだ。

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