17歳だった頃の僕が平和祈念館へ行って思ったこと

 去年の3月、私は修学旅行で長崎の平和祈念館へ行きました。その場所で思ったことは、戦争に対する考えを改めさせるには余りにも大きすぎました。平和祈念館で思ったことを、今後忘れないためにも、ここに書いていこうと思います。

 私は、平和祈念館に行くまで、戦争を考えるときに「死者数」ばかり気にしていました。何万人が死んだのか、何十万人が負傷したのか。戦争について調べるとき、そういったことしか受け止めていませんでした。人の死を、統計で、全体でしか見ていなかったのです。そのため、重要なことを見落としていました。それは、「人の死は、一人だけでも重大な事件である」ということです。

 私がそのことを思い知ったのは、原爆で亡くなった子供の作文を祈念館で読んだ時のことです。その子の作文には、これまでの思い出や、これからしたいことが書かれていました。私はそれを読んで、ハッとしました。亡くなった人それぞれに過去と未来があった。楽しかった思い出や、これからしたいことがあった。しかし、死んでしまったらその人は過去を思い出すことも未来を楽しむことも無くなってしまう。その事実に気づき、人の死はあまりにも重大すぎる事件だと感じました。

 そして私は、これは原爆に限った話ではないと思いました。空襲も、特攻も、陸上戦も、航空戦も、海戦も全て、人の命を奪ったという点では原爆と同じなんじゃないか?と疑問を抱いたのです。戦争は、人の命を奪い続けます。たった一人の死でも重大な事件なのに、戦争は、あらゆる場面でその重大な事件を夥しく積み重ねていく。その考えに至ると、戦争を悪魔であるとしか思えなくなってしまいました。

 私が平和祈念館へ行って思ったことは、人の死は、それだけで重大な事件であり、数字として捉えられる前に個別に重大なものとして捉えられるべきだということです。「300万人が亡くなった」のではなく、「重大すぎる1人の死が、300万も積み重なってしまった」のです。その事実に気づかなければ、戦争がいかに悲惨であるかも理解しえなかったでしょう。その事実を踏まえて考えなければ、戦争を深刻な問題として考えることはできなかったでしょう。

 そんなの当たり前のことだろと言う方もいるかとは思いますが、戦争について考えるときは、このことを忘れないようにしようと思います。

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