見出し画像

【ふるさとは遠きにありて思ふ旅】ふりだしは浅草見番

◼️まずは四季の萬會

2023年3月11日(日)昼過ぎに、浅草見番での三遊亭萬橘独演会「四季の萬會」に出かけた。

外国人観光客も戻って来た浅草の奥地にある浅草見番。
浅草芸者の運営管理にあたる場所だそう。言ってみれば組合事務所?

二階には踊りや唄のお稽古が出来る板の間付きの大広間がある。
その床に高座を設えて落語が語られる。
客は畳に敷いた座布団に腰を据えて落語を聞くのだ。

四季の萬會 演目表

三遊亭萬橘!!
五代目円楽一門会のエース!!

と太字で書いてしまう。
こんなにも楽しく素晴らしい落語家なのに世に知られていないのが不思議でならない。
だからといって「笑点」には出て欲しくないのが落語ファンの常。

数人の落語家が出演する会で三遊亭萬橘は大概浅い時間帯に顔付けされる。

3月5日 すみだトリフォニーホールにおける「禁演落語を聴く会」では開口一番、二つ目の次、三番目の出番である。

3月7日 江戸川総合文化センターにおける「江戸川落語会」では開口一番の次である。

つまり始まったばかりで落語会の道筋が見えない観客に、笑いの道を示す役割である。
会場を温める、という言い方もある。

この位置にいる萬橘さんの責任感は大したもので、まず間違いなく会場を爆笑に包む。
落語の初心者が多い会場では、よりその自己認識が強まるように思う。
「禁演落語を聴く会」がその好例だった。
客の襟首を掴んでぐいぐいと引きずり回さんばかりに爆笑させる。
見事なまでの力技だった。

トリの師匠の盛り立て役に徹する落語会と異なり、独演会は萬橘師匠の独擅場である。
萬橘落語の神髄を味わえる。
古典を解体して自分なりに構築し直す〝萬橘落語〟は誰とも違う。
時に有名な古典のオチすら変える。
爆笑したり涙したりせずにはいられない。

まして浅草見番のような秘密めいた場所で聞くのは格別である。
今回の「花見の仇討」のサゲも、これまでにない斬新なものだった。
ひっくり返って爆笑したものである。
(何しろお座敷だ。いくらでも笑い転がれる)

尾張屋のオクラとろろそば

消えぬ笑いをマスクに隠して浅草見番を後にする。
上野駅に行く前に、まず腹ごしらえ。

銀座線浅草駅入り口は、観光客で芋を洗う騒ぎである。
芋だらけ。
けれど「尾張屋」のガラス格子戸を開けて一歩店内に入れば嘘のような静けさ。

だからこの店が好きなのだ。
もちろん蕎麦も美味い。
今日はカロリー控えめオクラとろろ蕎麦にする。
さて、腹も満ちていよいよ落語遠征に出発。

◼️ みやぎん寄席へ

みやぎん寄席は2022年、茨城県水戸市に初めて出来た寄席である。
東照宮の上り口に宮下銀座がある。
銀座というより浅草ホッピー通りとか新宿ションベン横丁といった趣ではあるが。
その一角に地元有志の手によって小さな寄席が造られた。らしい。

JR上野駅から常磐線ときわ号に乗り水戸駅に向かう。
ちょうど梅まつりの時季である。
水戸駅に近づくと車窓から偕楽園が見える。
紅梅も白梅も満開の様子だった。

〝梅の園生にさすらえば〟
と口ずさんでしまうのは、卒業した高校の校歌である。
実はこの地は私のふるさとである。
高校時代の記憶といえば、薄暗い顔で俯いて校門への坂道を歩いていたことぐらいである。
なのに校歌を覚えているのは詩の力か。
いや、この一節しか覚えていないぞ。

みやぎん寄席

ふるさとに帰らなくなって数十年たつ。十数年ではなく数十年。
(おばさん+おばさん+おばさん=おばあさんの私だもの)
数年前に母が亡くなり、昨年父が亡くなった。
その際に葬儀に訪れただけである。
別に水戸が悪いのではない。
悪いのは我が家である。
たまたま家庭が水戸にあったから、水戸が嫌いになった。

水戸といえば水戸黄門に助さん格さん。
偕楽園に弘道館。
少し足を伸ばせば大洗海岸に筑波山。
風光明媚な良い土地である。

「家のことは嫌いでも水戸は嫌いにならないでください!」
かつてさるアイドルが叫んだように、水戸の地が叫んでいるような気がする。
「家のごどは嫌いでも、みどは嫌いにならねぇでけんちょ!」
尻上がりのイントネーションで。

とか書いたけど私は茨城弁が話せない。
両親は生粋の信州人である。
転勤で流れ着いた水戸に定着したに過ぎない。
家庭内に流通していたのは信州弁である。

「茨城弁は〝鉛筆〟が〝いんぴつ〟になる。汚いで使っちゃいかん」
信州弁の父親は幼い私に命じたものである。

「そうずら」「だもんで」という信州弁と、
「だっぺよ」「だけんちょ」という茨城弁。
どちらがより汚いかといえば……どっちもどっちである。
けれど、この上もなく素直な私は茨城弁を一切使わなかった。
イントネーションですら真似できない。

ところが勤めをやめて独立開業した父親は、あれ程禁じていた茨城弁の真似をするようになった。
何だそれは!

仕事上、周囲に合わせて訛らざるを得ない父親の立場もわからなくはない。
けれど思春期の私はただ黙って憤懣を溜め込んでいた。
真面目に従った私の過去をどうしてくれる!
お陰で私にお国訛りはない。
あまり話さないからさして問題ないとも言える。
ともあれ。

思い出したくもないふるさとの記憶が寄席の楽しさで上書きされれば……と企てた旅だった。
だがふるさとは、やはり遠くにありて思ふものだったのかも知れない。

②に続く!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?