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水戸よ水戸よ

私は水戸の中心地で育った。
当時としては最新流行の団地に住まっていた。

近くには伊勢甚、志満津というデパートが2つもあった。

県庁、裁判所、図書館なども近かった。
測候所なんてのもあったな。

秋になると県庁土手の銀杏並木にギンナンが実る。
早朝に家族で割り箸を持ってギンナン拾いに行ったものだった。

そういえば、イナゴを捕まえたこともある。
いや、県庁じゃなくて。

町の高台から降りると田畑が広がっていたのだ。
そこで捕まえたイナゴを母が佃煮にして家族で食べた。

旧県庁(現図書館)の大銀杏

……って、ただの野蛮人じゃん。
いや両親は信州出身だから。
昆虫食の地域だよ。
蜂の子だのザザムシだの……

私は食べたことないけれど。
せめて天然生活といってくれ。

ともあれ。
中心地を離れてド田舎に引っ越した後も私はその町が恋しかった。

あの町にずっと住んでいれば……と思ったものである。
家庭の閉塞感と田舎のそれが重なったのだ。

実は家庭内の問題は住む場所とはあまり関係ないのだけれど。

思春期の私はまるで笑わなくなっていた。

やがて水戸を出た後、何十年もその地を訪れなくなった。

親が亡くなり、実家も解体され、ようやく私は安心して水戸を訪れるようになった。

そして気がついた。

私が恋しがり戻りたかったあの町は、もう水戸の中心地ではなかった。

というか、寂れていた。
過去の栄光はどこへ行った?

たぶん県庁移転がきっかけだったのだろう。
中心地もその方面に移動して行ったらしい。

母校の小学校も移転して、跡地には水戸芸術館が建った。

二つあったデパートのうち一つは京成になっていた。
そしてもう一つのデパート跡地には水戸市民会館が建った。

杮落とし公演には、桂文枝や春風亭昇太などを招いて落語会が開催された。

水戸市民会館杮落しの落語会
(2023.7.17)

どう言ったら良いのか……。

実家がなくなっても構わない。
懐かしいのは親や家族ではないのだ。

いつも帰りたかったのは、あの中心地だったのだ。

上品で洗練された町だった。

桜町から歩いて泉町の二つのデパートに出る。

道なりに泉町から南町。

銀杏坂に下る途中で奥に入れば県庁や図書館がある。

基本、水戸城の三の丸から本丸にかけては、小学校や高校が立ち並ぶ風教地区なのだった。

弘道館だって今は観光名所だけれど元は藩校だしね。

あの町から水戸駅に出るまで、歴史と教養が感じられる道だった。

なのに今や町は寂れている。

幼い頃は桜町
引っ越す頃には金町になっていた
昔の団地は今やマンション

あの町に住む人々に茨城弁の訛はなかった。

「んだっぺよ」という尻上がりのイントネーションの茨城弁。
私がそれを知ったのはド田舎の町に引っ越してからである。

だから今でも駅でその訛を聞くとイヤな気分になる。
方言に罪はないのだけれど。

過日、水戸駅で人の流れが完全に変わっていることに気づいて愕然とした。
ようやく……と言ってもいい。

何十年ぶりに帰った時は気づく余裕もなかったのだ。

改めて訪れて、昔は駅南と呼んでいた南口に人の群れが流れて行くのを見たのだ。

私が懐かしんだ町のある北口には数える程の人しか向かわない。

あの町並みが妙に薄暗くシャッター商店街のようになっているのには気づいていた。

今や日本各地にありがちな現象だと思っていた。

けれど違っていたのだ。
衰退したのはふるさとの町だけ。

私が憎んだド田舎の駅南は逆に栄えていた。
シネコンまで出来ている。

水戸駅の南北に別れる地点で私は、泣きたい思いに駆られていた。

ああ、水戸よ……水戸よ……。

偕楽園の吐玉泉
図工の時間はここで写生をしたものさ

※追記

人様のnoteを見て唐突に思いつく。
北海道大学では北大金葉祭が催されているそうである。

わが父は北大出身者である。
恵迪寮で賄い係だったらしい。

水戸県庁の銀杏並木で銀杏を拾ったのは、
ひょっとして北大の銀杏並木で覚えた?

想像はしたけれど、もはや確かめる術はないのだった。



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