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2000年~2006年ごろの事

【MONDO Creative & Gallery井上(原)民子】現在私は47歳。歳をとるというのは人生そのものである。誰かが言っていたのとも違うし、自分が思っていたのとも違う。
 
20年前、25歳から30歳の頃のことを少し思いだしてみる。
2000年~2006年ごろの事である。
 
ちょうど2000年の3月私は、地方の美大を卒業し、特に就職活動もせず東京に戻った。だけど仕事はしなくてはならない。
 
主に体力仕事を中心に掲載しており、「ガテン系」という言葉にもなった、『ガテン』という求人誌で、初任給25万円で掲載されていたのが、「A社」だった。
 
蔵前にあったその会社は古いビルの4階にあってエレベーターはなかった。事務所のたった1台の製図台では関東の美大出身の社員が、テレビ局の開催するイベント造作の図面などを作成していた。
残りの机上にはマッキントッシュが置かれていて、美術造作の図面は「ミニキャド」(のちのベクターワークス)というソフトを使用した。
 
事務所はそんなに広くなくて、大柄の社員がひとつしかないトイレから出てくると事務所中に充満する(トイレそのあとに!)なんてこともよくあった。
…という理由からなのか?とにかく事務所が狭くなり、私が入社し1年後くらいに隣町の浅草橋のビルに引っ越しをした。
よく夜飲みに行くようになったのは浅草橋に事務所を移転してからだと思う。
当たり前のように会社に寝泊まりしていた日々。浅草橋は、浅草、小伝馬町、秋葉原も近い。
世田谷区育ちの自分にとっていわゆる東東京地域は新鮮で、全く新しい東京の顔に魅かれ、どんどんのめりこんでいった。
 
私が担当した案件は、大手広告代理店の子会社的イベント制作会社「T社」からの依頼のものが多かった。新宿、渋谷、銀座などのイベントスペースの施工はだいたい終電後に行われた。新宿東口のイベントスペースでの施工明け、新しい缶コーヒーのキャンペーンがオープンすると同時に無料の缶コーヒーをもらいに来たのは、ホームレスの人たちだった。
 
時々、毛色の違う案件もあった。
錦糸町で毎年行われる『錦糸町河内音頭』はスピード感あふれる独特のステップで、盆踊りの輪は学校のトラックほどの大きさがあり、まさに競技トラックのように何重にも重なっておりその光景は圧巻だった。
関西からくる演者の楽屋周りの担当で、接客仕事が苦手ではあったが祭りのダイナミクスに触れられ、何かちょっとボーナストラック的な位置づけの案件だった。
 
「A社」の創業コア役員は日本初の野外レイブイベント『レインボー2000』の制作メンバーでもある。舞踏をやっていたり、演劇関係者が多く、教えてもらった店や音楽はいろいろある。そのなかでも不破大輔を中心とするビッグバンド『渋さ知らズ』は多彩なメンバーが作る音空間が魅力的で、何度かコンサートを体験した。
 
いまはもう「A社」は無い。
当時の音楽イベントなど、検索してみるも全然ヒットしないし検索ワードもなかなか思い出しづらくなっている。
こうして情報は、記憶は、忙しさの中で少しづつ置き換えられ忘れられて無くなってしまうのだろうか。
 
30歳をむかえたころには、20代後半の可能性を全部仕事に持っていかれたような気持をいだき悩んだりしていたが、実は多くのものを与えられていたのだ。
 
今、ひとりひとりの人物の顔が次々と思い浮かんでいる。

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