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病識があったり、なくなったりする意味 「摂食障害を抜けださない」

人によっては、摂食障害を助長するような表現に読める部分があります。今、体調が悪くてしんどい人は、元気な時にまた読みにきてくださると嬉しいです。


もつおさんのコミックエッセイ「高校生のわたしが精神科病院に入り自分のなかの神様とさよならするまで」を読んだ。

かわいい絵柄で描かれてはいるけれど、実際当時どれだけ辛い思いをしていたのかな、と想像するとギューッと胸が痛くなる。
摂食障害自体は以前よりもよく知られるようになってきたと思う。でも入院加療の実態や回復過程までは私も初めて知るところが多く、漫画でサクサクと読ませてくれて、かつリアルで、当事者にとって希望となるという点でとても良い本だと思う。

程度の差はあっても、一生の間に摂食障害と言える状態になってしまう人はかなりいるのではないかと思う。私も大学生の頃はおそらく摂食障害だった。いや、多分その1年前くらいから兆候はあった。もつおさんの本に描かれている状態に比べたら全く日常と言って差し支えない部類だったのは間違いないが。

本にもある通り、この病は病識がないことが大きな特徴だ。私の場合は食べ吐きがなかったのでセーフだとずっと思っていたが、食べることに頭が支配されて立派に生活に支障が出ていたので、まあそうだったんだろうと思う。ずうっと後になってから、元気になってから、やっと自覚的になることができた。

当時は詰め込むようにパンを食べ(なぜかこの病気、パンを食べるひとが多い気がする)、でも太りたくなくて自分に罰を科すように必死になって運動することが日常だった。ずっと思考がまとまらなくて、現実と心が乖離するような感覚がいつもあった。生きているのに幽体離脱しているような、目の前に薄い膜が張ったような。外に出た瞬間、足がうまく前に出せず、重力のままアスファルトに踵が沈み込んでいくような感覚は今でも鮮明に思い出せる。何ならよく夢に見る。

誰かが悪かったわけではないのだ。ただ私は自分の器以上に完璧な自分でいたかった。勉強も、一人暮らしの生活も、バイトもサークルも全部やって、そのうえオシャレな大学生でいたかった。その手の治療において、ありのままの自分を受け入れられるといいですよなどと言われはしたが、この何もできない、醜く太ったありのままの自分を受け入れさせようとするならば、医者だろうとカウンセラーだろうと全員が敵に見えた。そういう病気だから厄介なのだ。

だけど実は、今年の年初くらいからちゃんと「痩せよう」と思ってダイエットをしている。これまでは、摂食障害のスイッチが入るのを恐れてダイエットは意識的に避けてきた。でも今なら、仕事もプライベートも順調そのもので、身体も元気、がんばる気力がある、もしかしたら今ならダイエット、いけるんじゃないか?と思ったからやってみた。あすけんという強い味方もいることだし。

実際のところ何度かスイッチは入っていたと思う。数字の上では前より細くなったのに、鏡に映った自分がものすごく太く見えたり、ひとかけのおせんべいを食べてしまった自分が許せなくてとんでもないダメ人間だと落ち込んだりした。いつもならここで、過食をするところだが。

そういうとき、おもしろいのが、過去の病識もまとめて無くなってしまうことだった。あのころ、学生のころの自分は摂食障害なんかじゃなかった。ただの甘えだ。と急に思う時期が何度かあったのだ。たぶんこれが摂食障害のスイッチが入っているときなんだと思う。過去は変わらないのだから、病識がなくなった今のほうが異常と考えたほうが自然だ。この仕組みに気づけたことは、私にとって今までにない成功体験だった。過去の病識がなくなることをもって、今の病識を得る。病識がない特徴を逆に利用した画期的な気づきと言えるんじゃないか。

それで今は、もし大学生当時のことを思い出したときに病識が薄くなっていたら、できるだけ寝る時間を増やしたり休みの日の予定を延期したりして、脳の渋滞を解消することを優先するようにしている。当然その間、減量のペースは落ちる。しかし、実は大学のころも今も、私は太ってはいない。太っていると思っている(認知がゆがんでいる)だけなので、別にペースは落ちても健康上問題はない。それで今のところ減量は失敗することなく、メンタルも崩すことなくなんとかなっている。

そうまでして、なぜ私はダイエットをしているのか。

私は自分の摂食障害が寛解するとしたら、何もできない醜い自分を受け入れなければならないと思っていた。それは私にとってあまりにも大きな壁だった。そうなるくらいなら治りたくないとさえ思った。周りから「あなたは醜いままでいなさい」と言われているようで、とても強い抵抗感を感じていた。おそらく私にはこの方法は無理だろうと思う。

だから今は、摂食障害を抱えたままの自分を受け入れる方針に変更することにした。理想とのギャップに気が遠くなりそうになりながら、もがき、たまに苦しみ、過食の谷に転げ落ちそうになり、それでもやっぱり一度は細い自分になってみたいなとか、デニムのショートパンツを自分が納得できるスタイルで履いてみたいとか、そういう憧れを頑張るエネルギーに変えて、努力し続けること。頑張って成功したり、途中でガッツリ落ちたり。たぶん永久に終わらない葛藤の中で生き続けることに腹をくくりたかった。この減量期間を通して「いけそう」と感じたかった。

今でも私は、細い子はかわいいと思っているし、自分の体は太いと思っている。アンチ・ルッキズムが台頭する今、たぶん私の認識は間違っているのだと思う。だけど、私にとって正しいかどうかを決めるのは私だ。
ずっと努力し続けたい。人からもらう成功体験じゃなく、自分でやったぜと思える領域がほしい。そのためなら私は、摂食障害は抜け出さなくていい。

不思議なことだがそう決めたときから、過食衝動を過食と思わなくなった。おいしく食べたねで終えるか、許容範囲だからヨシと思うかのどちらかで、自暴自棄までいくことはもうあまりない。
だけどどこまで行っても完治じゃないから。油断はしてないからな。私よ。

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