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「君たちはどう生きるか」、みてきました。

「君たちはどう生きるか」、みてきました。すごかったです。頭の中から、野放図なまでに新しいビジュアル、新しいキャラクター造形が生み出され、そのイメージが、肉体の重さを感じさせる芝居もあれば、少年にも、いくつかの年齢層の女性たちそれぞれにも、おそらくは絵でしか表現できない種類の色香のある作画で具現化されてゆく奇跡、そして、万華鏡のようなまばゆい映像の向こうに横たわり続けるほの暗い闇と。

予告も事前情報もない、作品をみたあとのガイドになるパンフレットもなければ、雑誌やネットの特集といった、コピペしてもっともらしく語れるソース元もないし、役者の顔しか浮かばない、みたいな文句も、現時点では封じられるなか、自分の言葉で、映画についての気持ちを表現してゆかねばならない、という状況は、現在の観客にはものすごい挑戦だし、実際にみてみれば、道しるべがないことが不安になるくらいに、エネルギーに満ちあふれた映画でもあって、初日にみて以来の数日間、どこか熱に浮かされたような状態にありました。

読み解きをしたり見立てをしたり作品履歴からの考察をしたりと、あらゆる切り口があるなか、少年、そして少年のまつげ尊い、、というのが、映画をみた後の第一印象でした。まつげ、みたいなディテールは作画によるものも大きいとは思うのですが、凛とした所作や、親の色恋沙汰に接してしまったときのナイーブな気分、と同時に、根っこにあるナイフのような鋭さなど、十代の少年のあやうさが全面に押し出されている感じというか。宮崎駿作品では「千尋」以降、少年というものが、ギラギラ生命力をまきちらしながら輝く存在から、その年代にしかない一瞬のきらめきを身にまとう存在へとシフトしてきている印象があるのですが、今作ではそれがさらに深化した感じがしました。映画をみている間ずっと、十代の少年を見守っている感覚があったのですが、それは宮崎さんが少年を見守っている、あるいは見定めている視線、だったのかもしれません。

少年の描かれかたの変化と同時に「居心地のわるいイマココとどう折り合いをつけてゆくか」というのが、ある時期以降の宮崎駿作品の共通モチーフになっているのを感じていて。呪いを負ってしまったアシタカは村を追い出されたり、新天地に引っ越すことに千尋は憂鬱だったり、幼児視点の「崖の上のポニョ」ですら、ポニョは家出娘だったりするのですが、今作の主人公・眞人さんの居心地のわるさは、考えれば考えるほどに群を抜いているもので。物語以前の、時代背景などの人物造形を思い返すだけで大変なものだし、物語が始まってからはどこへ行っても、家の中ですら居心地がわるいという、もう、地獄のような状況で。SNSが始まりだした頃なら、たとえ現実は憂鬱でも、別の「場」があれば気晴らしになる、みたいな語り口になっても良さそうなところが、中盤以降も居心地のわるさは基本的にはデフォルトで物語につきまとっていて。

ひょっとしたらその感覚は、仕事とプライベート、みたいな分類ができてしまう大人ではなく、まだ世間に出る前の、それでいてSNSだったりLINEのグループだったり塾とかだったり、わりとナチュラルにいくつもの「場」を持っている年代のことをつよく意識してのものなのかな?という気がしています。この先、この映画についての「解答」みたいなものが提示されてゆくのか、それともこの、雲をつかむみたいな状態がずっと続いてゆくのかはわからないのですが、今作で描かれている生きづらさとの付き合いかたやその結論が、これからを生きる「君たち」にうまく届いてくれると良いななんて、いまは思ってます。


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