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乳液を塗り始めて気づいたこと

風呂上がりに乳液を塗るようになった。
今まで化粧水を使っていたもののそれだけではいよいよアラサー肌の顔面水分量は限界らしく、朝起きたらカサカサの粉まみれになっていた。

正直、私は化粧品の類を舐めていた。

化粧水も大学生になるまでその存在すら知らなかったので、冬は角質パサパサゆらしながら登校していた。
フケに清潔感がないというのは常識になっているが、顔がカサカサなのも清潔感がないと思われているような時代に突入したのかもしれない。
世は大保湿時代の到来である。

大学生当時、あわててネットで一番評判が良さそうな化粧水を買って初めて使ったときにびっくりした。肌に潤いとハリが生まれるではないか。
まったく自覚していなかったが、まるで彷徨い果てた砂漠に突如出現したオアシスのように、私の肌は水分を欲していたのだ。
その際、同時に乳液にもチャレンジしたが、ベタベタして顔がテカテカになる割にたいして肌の調子が変わったという実感もなかったのでそれ以来使っていなかった。

しかし、次第に私の肌は化粧水だけでは耐えきれなくなっていた。
冬に冷たい風が吹けばピリピリと肌が痛むほど私の肌は乾燥しきっていた。
風が吹けば化粧品メーカーが儲かる。
ということでまたネットで評判の良さそうなものを探した結果、無印の乳液を購入した。はっきり言ってどこの何が良いのか、値段の差は何なのかよくわからないが、過去の反省からなるべくベトしないような口コミがついているものを調べて買った。

いよいよ風呂上がり、いつものように化粧水をつける。
そして乾くのを少し待つ。
乳液を塗る。
さて成果はいかに。

翌日、肌の調子がいい。
化粧水だけのときとは明らかに違う。そして肌のテカリやぬるぬるのような不快感もない。めちゃくちゃ良い。
なぜこんな良い物を今まで使っていなかったのか後悔した。

そしてその夜の風呂上がり、また化粧水をつける。
乾くのを少し待つ。
乳液を塗る。
翌日、肌の調子がいい。

こんな日々を1ヶ月ほど繰り返し、ふと我に返る。

これは誰のための何の行為なのだろうか。

顔を表に出す職業でもない、というか無職である。
いやそもそも普段ろくに外出すらしない。夕方に近所を散歩するのが日課なくらいだ。それなのに化粧水と乳液をつけて寝ている。
なんでこんな贅沢な暮らしをしているのだろうか。

翌朝目覚めたときの気分が「不快」から「並」程度にランクが上がっただけで、これに一体何の意味があるんだろうか。そんな自問自答を繰り返しながら葛藤し、それでも化粧水と乳液を塗っていたある日の夜、ついに気づいた。

これは誰のためとか何が目的かとかそんな話じゃない
私の気分がなんとなくちょっと良い、それだけのことじゃないか

これは私の私による私のために乳液に他ならない。

リンカーンもこんな気持ちで演説していたに違いない。
ゲティスバーグの空は嘸かし澄んでいたに違いない。
空気は乾燥していたかもしれない。
保湿が必要だったかもしれない。

話を戻すと、最近いちいちこれは誰のために、何のためにということばかり考えてしまう。理由を求め意味を求め、そして結果を求めている。
手段と目的、原因と結果、それらが一直線上に並んだ行為以外を価値がない行いと判断するようになりつつある社会の雰囲気に飲まれそうになっていた。

でも本来、何かをやり始めるときは誰のためでもない。目的などなく、ましてやそれにどれくらい価値があるかは全く関係ない。
ただ私がやりたかったからという理由以外は存在しないはずだ。

今後も私の気分が「不快」から「並」程度にランク上げできるようなことを常に探し見つけていきたい。
人生には日々の潤いが必要だから。

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