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秩序を乱すのか、生活に取り込むのか。

最近「汚れ」について書かれた本を読んでいる。
先日読んだ所は、聖書のレビ記という箇所の中で何が汚れていて何が清いとされているのかが紹介されていた。

詳細はすっ飛ばすけれど「なぜあるものが”汚れている” と考えられているのか」という理由について「秩序を乱すもの」という基準が浮かび上がってきた。保たれた秩序を脅かす存在が「汚れている」と考えられているようだ。

ふと、気づいたことがあった。
最近家の周りでごみ収集車が音楽を鳴らさなくなったのだ。
外に出されたゴミはいつの間にか無くなっている。

あの音楽でごみ収集に気づいて慌てて出したことが、かつて何度かあったのだけれど、苦情でも来たんだろうか。それとも日中にその音を聞く人が居なくなったのだろうか。

ゴミ収集車の音楽は少し離れた距離からでも聞こえるように流れる。
地域によって流れるメロディも違っていたし、一時期は収集するごみの種類によって違うメロディを流してその日は何のゴミを回収するのかまで分かったあの音。
わたしは窓を開けていると聞こえてくる生活音やピアノの音は気にならない方なので、ゴミ収集車の音も生活の一部として自然と取り込んでいた。

しかし、この音がストレスとして感じる人もいるだろう。その人にとって周りで発せられる音が生活の秩序を乱す”汚れたもの”になる可能性もあるのかもしれない。
もちろん、あまりにも大きな音が長時間鳴り続ける状況はわたしもストレスに感じるだろうけど、ちょっとした音からすぐ傍に生活を感じることができる。騒音と汚れを同じものとして捉えて良いのかどうか分からないけれど、騒音も汚れも個人の基準がそれぞれで、トラブルの元にもなる。
ふと、ゴミ収集車のメロディと汚れが勝手にシンクロした。

またあのメロディが聞ける日は来るだろうか。


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