ラジブ・カーン「なぜインテリは皆で“ウォーク(感情的文化左派化)”するのか、あるいは“保守”にならない理由」(2020年9月30日)
(ウォークしていない)進歩派の友人に、「インテリには、左派/進歩派が多くて、保守派が圧倒的に少ないのはなぜなんだい?」と聞かれた。私は大まかに2つの理由があると思っている。この2つは相互作用している。
まず1つ目の理由。IQが高い人は、抽象的思考、体系構築、合理的思考に馴染んていることである。左派、リベラリズム(自由主義)、リバタリアニズムといった思考形態は、合理性の体系化を端緒にしているので、IQの高い人は、そこからすぐになんらかの示唆を得ることができる。史的唯物論、ロールズ的政治哲学、新古典派経済学、自然権思想等を挙げられるだろう。保守主義は、統一的で普遍的な合理的思想体系を提示しないので、〔インテリからすれば〕選択肢は、不明瞭、ハッキリ確立されたものとなっていない。保守主義とは、体系化よりも、慣習、伝統、人間本生に傾倒している思想である。保守主義では、理論的化より、歴史的経験に重きを置かれている。保守主義は、文化的慣習や道徳への過度な合理化に疑いの目を挟む。保守派は、「必要以上に物事を考えすぎていけない! 考えても、根源的な俯瞰図など理解できない」と主張する。保守派のインテリは、ペシミスティックな態度を取ることで、緻密・明確・簡潔な解答に慎重になる。
こういった保守思想は、物事を合理的に理解することをモットーにしている人からすれば、腹立たしいに違いない。考えることこそまさにインテリの得意技だからだ。インテリの存在意義は、メカニズムの中心部にアクセスし、原因と結果の連鎖を反映したシステム(体系)を作り上げることにある。
保守主義の論考と、自然科学は、人間に関する事象について深刻なまでに正反対な立場である。保守主義曰く、「社会・文化的慣行には、試行錯誤から得られた知恵が埋め込まれている」。つまり、保守主義の論考とは、あるがままの自然淘汰プロセスである。ボトムアップであって、トップダウンの「インテリジェントデザイン(知性による設計)」ではない。
ジョセフ・ヘンリックの著作『文化がヒトを進化させた――人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』では、慣習や伝統に従って実践を続けている人達は、完全に不合理に見えるかもしれないが、実践において合理的な目的を埋め込まれている最適例の一つが取り上げられている。マニオク [訳注1] は16世紀にブラジルから西アフリカに伝わっった植物だ。今日の西アフリカ社会では、様々な習慣や伝統によってマニオクは調理されている。なぜなのか? マニオクは特殊な方法で調理しないと、有毒だからだ。西アフリカの人々は、試行錯誤プロセスの末、マニオクを美味しく安全に調理できる一連の文化的手順を確立させ、編み出したと推察できる。しかし、今もマニオクを伝統的な手法で調理している人たちは、「自分たちが何のための調理を行っているのか」について無自覚なことが判明している。習慣と伝統を実践しているに過ぎない。社会全体の水準に敷衍すればこうした調理法には意義がある。しかし個人の水準では、その意義はまったく自覚されていない。
今になっても、マニオクを〔伝統的手法で〕調理している人に、「なぜこんな手順が必要なのか」についての一連の説明を提示することはできるだろう。しかし、そうした説明は、必要とされていない。タブーと伝統が、マニオクの調理方法を規制し、マニオクを無毒にしている。タブーと伝統は、実践の最適化において、最短距離の機能を果たしているのだ。靭帯や腱は、単に使用する限りにおいては、どのように機能しているのか知る必要はないのと同じである。
むろん、合理的理解と、文化的知見を介して埋め込まれた信頼との間には、ある種の均衡がある。ほとんどの人は、飛行機に乗って旅することだけに満足し、〔飛行機が飛ぶ〕工学的な詳細を知らない。しかし、高い水準において絶対に誰かが、詳細を知っているはずだ。なぜ“高い水準”と言うのか。それは、今日の複雑なテクノロジー産物の多くは、集団で設計されている可能性が高いからである。つまり、個人での知見は部品レベルに留まり、合理的理解のプロセス全体は、今や制度や手段に分散している。
これは、アカデミアにおいても同様となっている。大学の教員たちは、自分たちの実践を他分野の同業者にも共有されていると認識しており、その前提から高い学識が生産されていると考えている。教員たちは、アカデミアでのピアレビューやテニュア促進のシステムに信頼を置いているわけだ。教員たちは、実践の全てを合理的に把握しているわけではない。
今日、大学の教員たちは、昔に比べてリベラル/左派に圧倒的に傾倒してしまっている。何が起こったのだろう?
この〔教員の知的実践が分業化・制度化されている〕事実こそが、インテリの多くが進歩派になっている2つ目の理由になっている私は思う。人は、自分の所属する内集団に順応する傾向を持つからだ。進歩主義に基づいてて「全ては平等である」とアピールするのは、保守主義のアピールより、インテリに認知的な快適さをもたらす。しかしこうした〔快適さの〕期待は、偏向に至るだろう。ある集団内で進歩派は当初60%だったとしよう。集団アイデンティティに同調する人の増加に伴って、進歩派の割合が増えていくだろう。そして、公衆の場において、少数派は、認知的不協和に耐えられる人だけになってしまう。この10年で、中道派や中道リベラルだった人の多くが「ウォーク」したのに私は立ち会ってきた。ターニングポイントがあったわけではない。サブカルチャー全体が変質し、多数派はそれに同調しただけなのだ。この「ウォーク」したインテリ達に、洗礼を受ける前に信仰していた異教の教義を突きつけると、彼らは大抵の場合で大きな不快感を示す。インテリたちは、ジャスティスによって新たに生まれ変わったのだ。
上でも指摘したが、このインテリのムーブは、「集団には知恵が埋め込まれている」とし、集団の規範に従うという、保守派によって評価されている現象である。好感を持てる人の意見に同調することで、認知的不協和を取り除き、緊張感は軽減される(私の観察したこの逆バージョンに、世俗的な保守派が、仲間と同調するために皆と同じカトリックになる、というのがある)。
最後に、この様々な問題で、具体例を例示して終わろうと思う。ゼロ年代、リチャード・ドーキンスは、組織宗教から毛虫のように嫌われていた。ドーキンスは、宗教を「諸悪の根源」かもしれないと考察していたからだ。今日、我々は、宗教が社会的な力としては、影響力を大きく失ったドーキンスの好みに近い世界に住んでいる。アメリカでは、ゼロ年代から世俗化の大波が押し寄せている。
ところが、〔ドーキンスに同調し進歩派として〕宗教を軽視していた新無神論者の多くが、今や態度を改めている。当のドーキンスは、「〔マイノリティである〕イスラム教徒の集団に攻撃的な言動を行った」として、キャンセルカルチャーに晒されているのだ。2006年当時に、ドーキンス賞賛していた〔進歩派の〕人々が、今やドーキンスには「問題がある」と感じている。世界はドーキンスを追い越してしまった。
この件から、組織宗教が、人の衝動を抑制するなんらかの役割を担っているのではないか、との指摘に説得力がうまれるのも無理はない。宗教は、「諸悪の根源」ではなく、逆に人の衝動を、状況に応じて、ネガティブ・ポジティブな方向に誘導する「社会技術」だったかもしれないのだ。今日、リチャード・ドーキンスを最も激しく罵倒しているのは、伝統宗教の信者ではなく、自尊心に突き動かされた無神論者たちである。こうした無神論者たちは、自覚は無くとも、生活圏において神の存在しない真空を忌み嫌い、疑似宗教的コミュニティを作り出している。この新しい狂信者たちは、「もしかしたら自身は間違えているかもしれない?」と自問自答を拒否している。そうした質問は、魂の汚れた異教徒の信仰に信憑性を与えてしまうと信じ切っているからだ。
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訳注1:マニオクは別名キャッサバ。地下茎からタピオカと呼ばれる食用デンプンが採れる落葉低木の植物。
Razib Khan, "Why Most Intellectuals Are Not 'Conservative'", Gene Expression, September 30, 2020.
〔翻訳者:WARE_bluefield〕
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