ジョセフ・ヒース「ジョン・ロールズと西洋マルクス主義の死」(2024年8月25日)
その昔,まだ私が学部生だった冷戦末期に,政治哲学で最高に熱い事態が起きていた.それは,英語圏でのマルクス主義の力強い再興だ.その仕事の大半は,「分析マルクス主義」という旗の下で進められていた(別名「たわごと無用のマルクス主義」ともいう).その発端となったのは,ジェラルド・コーエン『カール・マルクスの歴史理論:その擁護』の出版だ(あと,同書出版後にコーエンがオックスフォード社会政治哲学のチェリ講座教授に就任したこと).一方,ドイツでは,ユルゲン・ハーバマースの素晴らしく小さくまとまった『後期資本主義における正統化の問題』が出て〔1975年〕,マルクスによる資本制のさまざまな危機の分析を現代のシステム理論の言語に翻案して新たな息吹を吹き込む期待が高まった.若い急進主義者にとっては,実に熱い時代だった.誇張抜きに,こう言ってもいい――当時,政治哲学に携わっていたきわめて聡明でとりわけ重要だった人々の多くは,なんらかの点でマルクス主義者と呼べる人々だった.
「それほど熱く沸き立っていたという,西洋マルクス主義の旗の下で意気軒昂だった理論は,いったいどうなったの?」 それがなんと,意気軒昂にマルクス主義の理論に取り組んでいたその聡明で重要なマルクス主義者とネオ・マルクス主義者の面々が,揃いも揃って,みんなリベラルになってしまったんだよ.分析マルクス主義運動の中核を担っていた理論家たちも――コーエンだけでなく,フィリップ・ヴァン・パレースも,ジョン・ローマーも,アレン・ブキャナンも,ジョン・エルスターも――そうだし,ハーバマースをはじめとするフランクフルト学派の継承者たちもそうだった.こうした面々がひとり残らず,「リベラルな平等主義」の名で知られることとなった考え方をなんらかのかたちで奉じることになった.もちろん,別に時代遅れの19世紀「古典的自由主義」に降伏したわけではない.そうではなく,ジョン・ロールズによる研究にその手本ともいうべき表現が見出された現代自由主義の流儀へと,彼らは離脱していったんだ.
この点を挑発的に言ってみたいという人がいるなら,こう言い換えてもいい.「たわごと無用」のマルクス主義者たちは,マルクス主義からあらゆるたわごとを除去していった果てに,そこに残るのは自由主義だけなのを知ってしまった.いや,これはいくぶん不正確ではある.実際に彼らが発見したのは,ロールズの著作によって新しく現代化され活力をえた自由主義の方が,表現の面でも修辞の面でも,彼らがそれまで擁護すべく努めていた再構築版マルクス主義よりも優れているということだ.そこで彼らは忠誠の対象を切り替えた(ファンファーレとともに切り替えた場合もあるし,そうでなかった場合もある).
ロールズが生涯に出版した3冊の著作すべてを読み通すセミナーを,私はたまに教えている.そのときには,決まって最初に学生にこう警告している.「ロールズの著作を読むとき,最大の難所は,どうしてその本がそんなにも重要だったのかを見抜くことだよ――なにしろ,おそろしく退屈に思えるからね(一般向け,初歩的,などなど).」 この難所を乗り越えるために私から言える最良の提案は,『正義論』を読むのであれば,「これこそ,西洋マルクス主義を殺した本だぞ」と思いながらとりかかり,いったいどうやってそれを成し遂げたのかを見抜くことに集中することだ.(ロールズが一度もマルクスを直接に批判しなかった点を考慮すると,いっそう謎は深まる.)
かいつまんで言えば,伝統的マルクス主義にあった最重要のたわごとから手を付けなくてはいけない.マルクスはつねにこう主張していた――自説と「ユートピア社会主義者たち」の説との大きな相違点は,自分は資本制に対する道徳的な批判をいっさいしていないし,資本制が不公正だとも主張していない点だ.自分はたんに,歴史の発展の諸法則を科学的に理解した上で資本制の破綻を予言しているにすぎない.このため,たとえばマルクスが「搾取」の用語を使うときには,道徳的な非難の含意は意図されていない.たんに,労働から剰余価値が抽出されていることを記述するのに使われる専門用語でしかない.
これは一目瞭然にたわごとだった――というか,マルクス当人がこの主張をしているいくつかの箇所では,人を「おちょくっている」ように聞こえる.イギリス英語で言えば “taking a piss” というやつだ.それでも,初期のマルクス主義者たちは(そしてマルクス=レーニン主義者たちは),自分が立ち入りたくない特定の論議を回避するためには,これはそのまま放置しておくと役に立つ主張だと考えた.けれども,20世紀に入り,時が経つにつれて,この主張はじょじょに役立たずになっていった.資本制破綻の見通しが,いよいよ現実離れしていくように見えだしたからだ.なにより大事な点として,労働者たちは,マルクスの予測したように「窮乏化」しなかった.それどころか,労働者たちは着実に自分たちの賃金が伸びていくのを経験した.だから,1970年代のはじめまでには,社会主義革命を支持するのが労働者たちにとって自己利益にかなっているという話が,誰にも当たり前には思えなくなっていた.
その頃までには,大半のマルクス主義者たちも,自分たちには資本制の道徳的な批判が必要だと認識していた.「資本制破綻を予言する」方向からのやり方はまるごと耐用年数を過ぎてしまっていたからだ.そこで,「たわごと無用」マルクス主義グループの最初の会合で,このたわごとがまっさきに粛正された――「マルクス主義は,資本制の規範的批判なしでやっていける.」 これにともなって,そういう道徳的批判の分析と擁護をもたらす課題をこのグループは自らに課した.それには,当然ながら搾取の概念から手を付けることになる.そこで,彼らは一連の問いに答えを出していくことにした――「搾取とはなにか?」「なぜ搾取は不公正なのか?」「資本制は必然的に労働者を搾取するのか?」「搾取のない経済システムがあるとしたら,それはそのような姿なのか?」
ところが,こうした問いに答えようとどう試みても,巨大な問題に行き当たってしまうことがやがてはっきりしてきた.その理由を説明するのにまるまる一冊を書くこともできるが,ここでは次の点だけ言えば足りる.彼らの世代でも屈指の哲学的頭脳の持ち主たちのうち数名がその問題に取り組んだものの,誰ひとりとして,搾取を規範的な土台にして資本制を一貫して批判する論を生み出せなかった.(そうした営為の簡便な要約なら,Van Parijs の「資本制に内在する要素のどこがいけないのか(いけないところがあるとして)」を参照するといい.私にとっては,大きな転機となった出来事は,ローマーの『搾取と階級の一般理論』の出版だった(原題は A General Theory of Exploitation and Class; 邦訳なし).これと対照的に,コーエンの考えでは,ロバート・ノージックによってその問題は引き起こされていた――コーエンの話の方が面白いので,ここではそちらをもっぱら取り上げよう.
搾取のなにがどういけないのかを特定しようというときには,こう述べるのがいちばん自然な方法だ――「労働者たちは,みずからの労働の果実を受け取る権利がある.もしも,自分が産み出した分より少なく果実を受け取ったなら,労働者たちは不公正な扱いを受けている.」(これゆえに,マルクス主義者たちは労働価値説に固執していた――労働価値説をとれば,この規範的な主張が直観的に自然で説得力をもっているように思えるからだ.) だが,ノージックが看取したとおり,この説を採るなら,特定の経済的格差について不平を言えなくなる.たとえば,稀少な天賦の才能を持つ人々がみずからの実績で巨大な経済的利得をものにできたおかげで格差が生じても,この説では不満を言えない.(これが,『アナーキー・国家・ユートピア』で示された有名な「ウィルト・チェンバレン」の論証だ.さらに,そうした人々の所得にどれほどかでも課税すれば,それこそ大いに搾取に該当しているように見える.
この論証によって,コーエンはきわめてまずい立場に立った.この論証は,搾取批判としてのマルクス主義の規範的土台にじかに疑問を投げかけていたからだ.コーエンは10年近く苦闘して,ノージックへの応答となるべき著書2冊を書き上げた.だが,どちらもあまり説得力がなかった.その後,あるとき,コーエンはオックスフォードを離れてハーバードでしばらく過ごすことに決めた(と彼は語っている).アメリカに到着すると,仲間の左翼系政治哲学者たちの誰ひとりとして,ノージックの論証に苛まれて眠れない夜を過ごしていなかったのを,コーエンは知る.「え,どうして?」 彼らは平等主義者だったからだ.彼らは,自己所有権も搾取も気にかけていなかった.だから,ノージックの論証の前提をただ却下してすませた.(コーエンの長々と書き連ねた著作とちがって,ウィルト・チェンバレン論証にロールズが返した応答は2ページ足らずの分量でありながら,かなり説得力があった.)
これが,コーエンにとって一種の「ダマスカスへの道」〔突然の改心〕の瞬間をもたらした.コーエンは,基本的な問いを問わざるを得なくなった:「自分はいったい資本制のどこをいちばん嫌っているのだろう? それは――とある(ますます小難しくなっている)定式化にあるように―――自分が産み出した価値のすべてをそっくり支払われていない人たちがいる,というところだろうか? それとも,金持ちがあふれかえっている社会で,貧困に喘ぎながら暮らし,尊厳ある生活の必需品もまかなえずにいる人たちがいることだろうか?」 ノージックが示したのは,「搾取問題を正したところで,格差問題は正されないかもしれない」ということだ.(実はローマーの方がこの点をもっと明快に証明している.貧しい人たちが金持ちを制度的に搾取しながらも貧しいままに留まるモデル経済を構築して,ローマーはこれを証明した.) そうすると,体制の欠陥としてどちらをいちばん気にかけるのかを選ばざるを得なくなる.
「アメリカにいたコーエンの同僚たちは,どうしてあれほどあっさりと平等主義を奉じるようになったんだろう?」 なぜなら,彼らはロールズ主義者だったからだ.「おなじみの社会契約の理論を一般化し,より高い水準に抽象する」取り組みによって,ロールズはなにをもたらしたか.それは,社会の基本的な各種制度を統べる規範的原則として平等を一貫して重視することを導き出す自然な方法だ.こうして,ロールズ主義が出てきたことで,失望していたマルクス主義者たちは,ややこしく絡まったゴルディアスの結び目を断つ機会を得た.資本制の批判をひねりなく述べることができる規範的な枠組みが与えられ,それによって,マルクス主義理論の複雑な装置にぐじゃぐじゃと絡みとられる必要なく,資本制でもっとも厭わしく思う部分に傾注できるようになった.
ここで,コーエンは気づく.どちらが大事なのかと問い詰められたなら,自分は搾取よりも格差の方を気にかけている.なぜなら,自分が作りだしたモノのすみずみまで所有権を行使する権利よりも,人間として他の人たちとお互いにどう関係を持つかということの方が根本的にずっと重要だからだ.そこで,コーエンはものを考える土台を切り替えて,平等主義者になった(そして――その呼び名をきっと彼は嫌がっただろうけれども――リベラルになった).
近頃,フレドリック・デボアみたいな若いのがやってきて「マルクス主義は平等の哲学じゃない」と主張すると,私は同意を示してうなずく.ただ,私としてはこう返したい.「そうとも! だからこそ,もう誰もマルクス主義者じゃないんだよ.」ここでも,次の点を強調したい.20世紀政治哲学でも屈指の頭脳たち数名が,20年近くもマルクス主義理論という岩塩坑で労苦に耐えながら資本制の「搾取」批判を機能させようとつとめたすえに,一人残らずこれを放棄して平等主義者になったんだ.ここには,軽んじられないなにかがあるよね.ともあれ,それを知るにはべつに私の言葉を聞く必要はない.図書館には,本が満杯だ.
もちろん,もはや誰一人としてマルクス主義者でないというのは,少しばかり誇張ではある.なかには,まだ知識が更新されていない人たちもいる.それに,「リバタリアン左派」たちもいる.彼らは,20世紀の学術的マルクス主義の残党だ(この人たちは,自己所有権の主張にしがみつきつつ,ノージックが導き出した反平等主義の結論を阻止しようと模索している).また,最近は「ネオ共和主義」マルクス主義者という小さな流行もある.ただ,彼らはようするにただのリベラルで,ロールズの平等主義に訴えるかわりに,フィリップ・ペティットの「非支配」規範に依拠してマルクス主義を再構築したいとのぞんでいる(私の見るところ,これもたんに風味のちがうだけの自由主義だ).
ただ,これにとどまらず,学術的なマルクス主義は――規範的な動機から社会批判を行う集団として――完全に崩壊しきっている.これにともなって,世間の論議に出てくる現代マルクス主義は根っこの部分で不真面目なものになっている.通俗的なマルクス主義は(批判研究の各種学部に見られるグラムシ流のマルクス主義や「文化的」マルクス主義といっしょに)神学なき宗教になっている.一部の人たちが本格的なマルクス主義理論を読むのをいとう理由は理解できる.読んでみたところでつまるところはリベラルになるのがオチであれば,気が進まないだろう.だが,それに代わる選択肢が,『ジャコバン』誌に見られるような愚劣さ丸出しで高慢に攻撃的なスタイルをとることだとしたら(「マルクス主義者みたいな口調で語ってやるぜ,中身はなにひとつ意味をなさねぇけどよ.だって,そうすりゃ俺をとめらんねぇだろ!」),これは払うに値する対価のように思える.
残念ながら,まだこういう傾向に気づいていない人たちもいる.なぜなら,マルクス主義を誰か一人が「反駁」した時点はなかったからだ.真剣に考えた人たちは,たいてい,ゆっくりとマルクス主義から遠ざかっていった.ちょうど,パーティでにぎわうリビングルームから来客たちが一人また一人とキッチンにふらっと離れていって,いつしかそちらの方がよほど愉快な会話の場に変わってしまっているのと似ている.この場合,ふらっと逃れていった会話が,ロールズ主義だったわけだ.こうして,ロールズはマルクス主義に対して勝利を収めた――マルクス主義を不要な余り物に変えて,もはや誰もマルクス主義者になる必要をなくすことによって.
ところで,ロールズ主義者たちは本当にこのへんの事情を説明するのがうまくない.そこで,私がやってみてはどうかと思った次第だ.
[Joseph Heath, “John Rawls and the death of Western Marxism,” In Due Course, August 25, 2024; translation by optical_frog]
「ウィルト・チェンバレン」の例について補足:
訳者より: ぼくが確認したかぎり,日本語での Habermas のカナ表記は「ハーバーマス」「ハーバマス」「ハバーマス」「ハーバマース」「ハーバーマース」「ハバマス」がありますが,おそらく実際の発音に近いのは「ハーバマース」であろうと考えて,こう表記しています.
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