ノア・スミス「ベーシックインカムとAI失業: うん,ぼくらはまだまだ働かないといけないみたい」(2024年7月25日)

Art by Vera Bock

自動化の進んだ優雅な楽園は,いまだに SF でしかない

「そりゃ俺の暮らしぶりはひでェかもしれねぇがな,少なくとも,働かなくてもいいからよぉ」

――映画 Slacker より

今週のニュースまとめ記事では,ベーシックインカムの実験から得られたがっかりな結果に注目した〔日本語記事〕.〔3年間にわたって〕1ヶ月ごとに 1,000ドルを受け取ると,その人たちの 2% は働くのをやめてしまう.これは顕著な数字だ.だって,一月に1,000ドルでは自立した暮らしを成り立たせるのに足りないからね.この研究結果から,もっと大規模な国民皆ベーシックインカム (UBI) を実施したらさらに大きな割合の人たちが働かなくなるだろうとうかがえる.そうなったら,UBIプログラムのコストは増大するだろうし,政治的には失敗するだろう――「政府が国民にお金を渡して,そのうちのかなりの割合を働かなくさせよう」というアイディアは,あまり人気を博しそうにない.

ところが,この研究結果を Twitter X に投稿してみたところ,いくらか興味を引く反応が返ってきた.多くの人たちが,こんなことを言ってきたんだ(しばしば,憤慨した言葉遣いで)――「みんなにお金を渡して余暇をとらせることこそ,ベーシックインカムのなによりの目的だし,それって望ましいよいことじゃないか.」 ほんの一握りだけ,具体例を示そう:

Alex Howlett:
これはガッカリなんかじゃない.これこそ予想すべき結果だ.もしも皆国民ベーシックインカムによって人々が働く量を減らさなかったら,それは給付額が十分に高くなかったとうことだ.

L3ocifer:
労働を減らすのはいいことだ.労働を増やすことこそ,心配だろう.この研究では,余暇が増えた点も言及されている.
だから,UBI がみんなにもっと時間を与えているのは,労働をするのではなくて……人間であるためなんだよ.

markinthedark:
どうしてこれがガッカリなんだ? オフィスで奴隷をやるのよりも余暇に多くの時間を回してるじゃないか.
合衆国の気風にこれが受け入れがたいのはわかるけれど,生活の質がいろいろと改善するのは,実際にいいことになりうる.

経済学的な観点から見ると,この主張に説得力はない.なるほど,いくらか余暇をとるのは価値のあることだ――労働力からきれいさっぱり離れたとしても,空いた時間におそらくは自分の好きなことをやってるだろうからね.ただ,その余暇の便益は,費用と比較考量しなくてはいけない.つまり,その人が働くのを止めたときに失われる産出という費用と,そもそも UBI を提供するのにかかっている金銭的な費用と,そのお金の移転に使わなくてはいけなかった税金の死重的損失とを合わせて,余暇の便益と天秤にかけないといけない.顕著な人数がまるごと働くのをやめる原因となる福祉プログラムが,どんなかたちであれ妥当な費用便益分析に合格する見込みは薄い.

ただ,ここで興味を引く点は,政治的左派の一部に深く染みついているらしい労働の観念への反感・嫌悪感だ――2010年代後半には,UBI の支持者たちと連邦政府による雇用保障の支持者たちの間で激しい論争が繰り広げられた.ただ,近頃だと,各種の左翼のあいだで,「仕事は――少なくともたいていの仕事は――無用で無意味で廃絶されるべき」という趣旨の話を語る人たちが見受けられる.

その好例が,故デイビッド・グレーバーだった.彼が2018年に出した著書『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』は,ちょっとした反響を巻き起こした.グレーバーは自らの主張の論拠をあまりうまく提示していない――彼が挙げている「クソどうでもいい」仕事には,ピザ配達・ワンちゃんシャンプー・企業の顧問弁護士などの一目瞭然に有用なものが含まれている [n.1].それでも,「世の中のいろんな仕事の大きな割合を消し去ったところで,本当の経済的価値は減少しない」という考えは多くの人たちに響いた.グレーバーの本ほど学者ぶった著作ではないけれど,労働の観念を非難する左翼タイプの文章をおのぞみなら,r/antiwork をのぞいてみるといい.

自分が左翼思想史の学者じゃないのは認めるけれど,ただ,1世紀前の社会主義者たちと比べて,ここにある気分はがらりと変わっているように感じられる.当然ながら,20世紀前半の社会主義者たちは,労働者たちの生活が過酷で辛いものでなくなるのをのぞんでいたものの,「労働者」は社会主義者たちが心の底から重んじていたアイデンティティで,自分たちを支持する集団の中核だと彼らは考えていた.「労働価値説」によれば,創り出すために必要な労働の量によってのみ物事は価値をもつ(この理論は間違っているけれど,20世紀の社会主義者たちがなにを重視していたのかをよく示している).レーニンは,ブルジョワを「労働をいとう連中」と言ってなじったし,ソヴィエト憲法では「働かざる者食うべからず」と宣言されている.

20世紀のかなりの期間にわたって,左翼にとっての重大な政治的課題は,労働者たちにその労働の対価をより多くもたらすことだった――賃金と手当を増やし,労働者たちに企業を管理する権限をより多く与え,労働者という集団の地位と政治的な権力を高めることが,彼らの課題だった.アメリカの福祉国家を設計した人たちは,多大な苦心をして,「あいつらは人々に金を与えて働かないようにしている」という右派の非難を避けようとした.その結果として,アメリカ政府のいろんなプログラムは就労インセンティブがてんこもりになっている.

「じゃあ,なにが変化したの?」 その問いへの標準的な答えはおおよそこういうものだ:「近頃の若いのはとにかく怠けてだらしねえ.」 でも,ぼくにとってこの答えはまったく満足いかない――この答えはちがうんじゃないかと思ってるけど,かりにこれが事実だとしても,これでは問いへの答えになっていない.なにもないところに怠惰は生じない.なんらかの原因があるにちがいない.

実は,単純きわまる答えはこれだ:「本当に変化したものはない.」 おそらく,『ブルシット・ジョブ』を振り回したり r/antiwork に投稿したり,UBI を疑う相手にいやがらせをして回ったりしてる人たちは,アメリカではほんの一握りの少数派だろう(それに,そうした人たちの多くは,そもそもアメリカ人じゃない).なんといっても,〔世論調査で〕自分の仕事に満足していると回答するアメリカ人の割合は,2010年いらい安定して増加してきている:

「仕事の満足度が2010年の大不況直後に 42.6パーセントで底を打って以後,アメリカの労働者の満足度は安定して上昇を続けてきた」 (Source: Conference Board)

「アメリカ人は自分でも疎んじてる仕事の籠に捕らわれていて,ベーシックインカムによってそこから解放される必要がある」という主張は,年ごとに弱くなっているようだ.

「仕事なんてクソくだらない」と本気で思ってる一部のアメリカ人たちについても,当たっていそうな説明を考えつくのはたぶんそんなにむちゃくちゃむずかしくはない.労働階級の人たちは間違いなく低賃金にうんざりしてる.ただ,その一方で,この10年で所得分布最下層の人たちの実質賃金は上昇してきている.時給16ドルで働くのは時給 12.502ドルで働くのに比べればまだマシではあるけれど [n.2],そんなに素敵なことではない.それに,低賃金労働者たちは,いまだに多くの職場でひどい扱いをよく受けている.きっと,これがネット上で見かけるいろんな不満に燃料をくべているんだろう.そうした労働者たちの大半は,もっと賃金をもらってもっとマシな扱いを受けるのをのぞんでいるだろうけれど,なかには,それよりも UBI を受け取って余暇を過ごす選択肢を受け入れる人たちもいるだろう.

でも,教育を受けたアメリカ人たちの場合には,それと別の要因がはたらいているんじゃないかと思う:それは,エリート過剰生産だ〔日本語記事〕.1990年代から2000年代にかけて,利発な若いアメリカ人はこう言われていた.「大学教育を受けることで,たんに高給取りになるためのチケットが手に入るだけじゃなく,深く,満足のいく意義あるキャリアにたどりつけるんだよ.」 かりに大卒者の中央値にはこれが当てはまっていたとしても,そんなキャリアにたどりつかなかった人たちは大勢いる.大卒プレミアムはしだいに縮小してきている.法律関係やジャーナリズムの専門職が瓦解していらい,多くの人文学系・社会科学系の専攻はかつてほど就職に役立たなくなった.そして,大学・学術業界は基本的に満席だ

州立大学に進学して3万ドルの学資ローンを抱えたすえに,保険鑑定人や人事コンプライアンス担当員としてひたすら人生を過ごしていく見通ししかなくなったら,つつましい余暇の生活を送るのは――金持ちになった同級生たちの税金でまかなってもらいつつも――そんなにロクでもないことに聞こえるかもしれない.

ソーシャルメディアは労働倫理に悪いかもしれない

でも,それでおしまいじゃなくて,もしかするとアメリカ人はほんとにかつてよりも怠惰になっているのかもしれない――あるいは,そこまで侮蔑的でない経済学用語でいうと,余暇への選好に変化が生じているのかもしれない.

この20~30年ほどでとびきり興味を引く経済関係の事実のひとつに,こういうことがある.アメリカ人は,1980年代いらい安定して豊かになってきているけれど,それでも働く量を減らしていないんだ:

(アメリカの被雇用者の年間平均労働時間)

多くの人たちはこう考えている――ジョン・メイナード・ケインズもこう考えていた――「豊かになればなるほど,以前よりも働かなくなるはずだ.」 でも,実際には,実質賃金が上昇するにつれて,もっと働く時間を増やすインセンティブは増えていく.なぜなら,労働を1時間増やすごとに,もっと多くのモノを買えるようになるからだ.だから,豊かになればなるほど仕事を減らすはずなのか増やすはずなのか,どちらともはっきりとは予想できない.

1980年代までは,豊かになればなるほどアメリカ人は仕事を減らす方を選んでいた.でも,それ以降,所得の増加はアメリカ人の労働量に基本的になんの影響ももたらさなくなっている.これを説明しうる理由はいくつかある.ひとつには,仕事そのものがかつてよりも有意義で満足がいく愉快なものになっている可能性がある.また,消費できる新たなモノが――よりよいテレビが,車が,ビデオゲームが,休暇旅行が,待機的手術が――次々に発明されて,それらの費用を賄うべく人々は勤労に励み続けているって可能性もある.

でも,もしも後者が事実だとして,消費のいろんな新形態の発明,たとえば Instagram, TikTok, Twitter などなどの発明は,労働のインセンティブを減らしてもおかしくない.もしも,豪華ボートを買って沖へと航海にのりだし,巨大スクリーンでテレビを眺めつつクラセアスールを味わうことに楽しみを得るタイプの人だったら,その費用を賄うために週50時間労働にはげむかもしれない.でも,X/Twitter を開いてイーロン・マスクと議論したり TikTok で大学生連中が「文化の横取り」に不満を語るのを眺めたりするのに楽しみを見出すタイプだったら,なんでわざわざガツガツ労働に励む必要がある?

もちろん,これは理論的な話だ.冷たい確かなデータによれば,アメリカ人はこれまでとまったく変わらず勤労に励んでいる……のかなぁ?

労働時間のデータは,2つのソースから得られる: A) 従業員が何時間働いているかを企業に訊ねるのと,B) 何時間働いたかを人々に訊ねる,この2つだ.でも,どちらも,実際に業務に取り組んでいた時間をあまりうまくとらえそうにない.オフィスの自分用スペースでパーティションに隠れて従業員がスマホでソーシャルメディアを眺めていても,行政の数字ではこれも「労働」に数えられる.実際には余暇だとしてもだ [n.3].インターネット・スマートフォン・ソーシャルメディア以前の時代には,仕事時間にだらけるにしても,おそらくもっと退屈だったろうし,バレずにすませにくかっただろう.いまは,みんながポケットに社交生活をまるごと携帯してオフィスにやってきている.

日がな一日,いつでも Twitter のタイムラインを開けば,プロフィール欄に高給取りの職名を書いてる人たちが大量になにかをしゃべってる.昼間からあんなところにいて,自分の仕事をするかわりにインターネットでのおしゃべりを満喫している.

「就業」時間にソーシャルメディアで隠れて余暇を過ごしている人たちが大勢いるのだとしたら,ソーシャルメディアへの消費選好の移行による余暇時間需要の増加にこれは該当するかもしれない.これは,仕事の満足度を向上させるかもしれない――なにしろ,いまや仕事にはたっぷりとだらける時間がついてくるからね.でも,他方で,それにともなって多くの仕事は「ブルシット」に感じられるようになるかもしれない.給料をもらって実際に業務にいそしむのは2時間ほどで,6時間はインターネットで議論に費やして毎日を過ごすんだったら,わざわざタイムカードを押したり社内 Slack にログインしたりする意義ってなんだ?〔意義のない「就労」時間が大半だとしたら,そんな自分は「クソくだらない」仕事をしているよな,と感じてもおかしくない.〕

ロボット幻想

他にも,UBI で就労意欲が減ることになんの問題もおぼえない人たちのあいだでよくこんな主張も語られているのに気づいた.「どのみち仕事はいずれ自動化されるのだから,のぞもうとのぞむまいと,人々はもっと余暇を過ごすことになる」と語る人たちが大勢いる.この人たちに言わせると,「だから,自分たちの仕事が陳腐化して余暇が新たに増えた日々にも,普通の人たちは少なくとも UBI によって食いつないでいけるだろう」という話らしい.

Daniel Keller
UBI の狙いは,経済で自動化が急速に進むなかで労働と生存を切り離すことにある.テクノロジーによる大量失業に対応すべく意図されたことの結果として労働を免れるようになったのが,どうして悪いことだという話になるんだ?

Jacques
疑問があるんだけど: そういう人たちの労働って重要なの? この労働の減少のうち,どれくらいが経済を動かしつづける上で実際になんらかの役割を果たしているの?
別の論点を書き添えておくと,AI による自動化で〔人間の〕仕事が消えていくことへの対策としても UBI は言及されている.まあ,あなたはそう思わないんだろうけど.

Gordon Shumway:
UBI 全体の勘所って,今後はどっちにせよ仕事なんてたくさん残らないだろうってところだよね? 大半の仕事は,ロボットによってなされるだろうし,ほんとに楽しんで働いてるごく一握りの人たちはそれでも働くんじゃないの.

ぼくとしても,「そんなことにはならないよ」と確信をもって言えはしないけれど,「いままでそんなことになったためしはないよ」とは確信をもって言える.まだ若くて退職にはぜんぜん早い人たちや学校に通うほどあまり若くはない人たちのあいだでは,仕事に就いている人たちの割合は,過去最高水準に達している:

人口比の雇用率(アメリカ労働統計局)

アメリカにも他のどこにも,テクノロジーによる大量失業のきざしはまったくない.

これがいま変わろうとしているってこともありうる.ときに,経済が突然の転換点に到達して,旧来の卒業証書や資格や免許がどれもこれも投げ捨てられて,新しい現実が定着することもある.産業革命は,まさにその好例だ.ひょっとすると,汎用人工知能の発明がすぐそこにまで迫っているのかもしれない.それにともなって,およそ普通の人間ができることはごっそり人工知能にとられてしまって,最高に頭脳明晰な AI エンジニアたちときわめつきに抜け目なくて豪胆な起業家たちとものすごく金回りのいい投資家たちだけが生計を立てられる世界が残されるのかもしれない.

サンフランシスコのテック業界でいろんな人たちに会っていると,そういうことがじきに起こると信じてる人たちがびっくりするほど大勢いる.彼らは正しいのかもしれない――ダロン・アセモグルも彼らと同意見だ――けれど,彼らはみずからの経験から一般化をしすぎているんじゃないかとぼくは思ってる.大資本のソフトウェア企業がほんの一握りの従業員によっていかにしてつくりだされたのかって話に,誰もが好んで驚嘆する.そういうことを明けても暮れても目にしていたら,労働なんて時代遅れだって思い始めるのも無理はないよね.でも,経済全体に目を向けてみると,この情報時代の黎明期いらい,産出のうち労働者に払われた割合は,ほんの2パーセントポイントほどしか下がっていない:

アメリカのGDP 比でみた労働補償

(それに,その低下の一部は,たんに地代の上昇によるもので,それはアメリカが住宅をうまく建設できないでいるせいで生じている.)

サイエンス・フィクションのいろんな未来像は想像していて楽しいけれど,現状では,アメリカ企業はどこも大勢の人間の労働者による労働を大量に必要としている.ビル管理人や飲食店員や農家や建設作業員やレジ係や受付係や警備員や料理人や倉庫作業員や食品配達員などなどいろんな労働階級の人たちが経済から明日いなくなったとしたら,先進テクノロジー社会は単純に崩壊するだろう.そのとき,あのソフトウェアエンジニアたちや起業家たちやベンチャーキャピタリストたちは,飢え死にを免れたとしても,やがて過酷な土地からわずかばかりの生きる糧を刈り取ってしのぐハメになるだろう.経済ブロガーだって,その例外じゃない.[n.4]

この点をもうちょっと地味な言い方で言い直すなら,労働と資本〔AIとか〕は過去20~30年ほどでほんのちょっとばかり代替可能になってきたかもしれないけれど,いまだに大半は相互を補う関係にある.

個人的な話を言えば,無条件の現金給付のアイディアは好きだ.他のいろんな福祉の形態よりもずっと推奨すべき点がある――管理が容易だし,運営・利用が単純だし,比較的に歪んだインセンティブを免れているし,広範な人々に支持される素地がある.ぼくは拡大版の「児童税控除」を支持した.あれは,近い将来にぼくらが実現できる範囲では,連邦政府によるベーシックインカムにいちばん近似している.

ただ,それと同時に,UBI 周辺の知的文化はちょっとばかりおかしくて機能不全になっていると思う.どうも,奇妙な同盟ができあがっているように思える.「IQ130未満の人間は経済的にすでに役立たずか近いうちに役立たずになる」と思っている金持ちの理系オタクたちと,ありきたりな中流の仕事は自分たちにとって役不足だと感じている高学歴すぎる下方階層移動中のエリートたち,この二者の同盟だ.

どちらの考え方も,ぼくにはよくかわる.彼らが思い描いている労働者のいない世界や労働のいらない世界の夢は,どちらもいまのところはとくに役に立ちはしない.人間の労働力はいまだにものすごく有用で値打ちがあるし,人間の労働者たちの能力をもっと高める方法をつきとめることこそ,いまだに,価値を創出するいちばんのやり方だ.この理由があるから,人間の労働にもっと報いる政策に関心を傾注させるべきだし,「たいていの人間はうわべだけ立派なペットとして暮らしていく方がマシだろう」なんて主張する経済哲学者たちには警戒した方がいい.

追記: この記事でひとつ言及しておくべきだったことがある.育児や家事といった無給の仕事も,有給の仕事に劣らず価値がある――そして,社会はこれをひどく過小評価している.ただ,最近行われた大規模な UBI 実験では,現金受給者たちを詳細に調査したところ,UBI を受け取ったあとにも,そういう無給の仕事に費やす時間を増やさなかった――あるいは地域社会との関わりだとか,誰かの面倒をみたり,自己向上といったことに費やす時間も増やさなかった.この点はもっとはっきり書いておくべきだったね!

原註

[n.1] でも「経済ブロガー」はどうなんだ,って声もあるかな? 「あんなもん,役立たずのクソ仕事だろ?」 うぅん,でも,ぼくら経済ブロガーがいなかったら,どこかの誰かがデイヴィッド・グレーバーの書いたことにもとづいて実際の政策を立ててしまうかもしれないよね.もしそうなったら,いったいどれほどの経済的な価値が破壊されるか,ちょっと考えてみてね.

[n.2] どちらの数字もインフレ調整されていると仮定しての話で,この場合には現にインフレ調整されている.

[n.3] これが,生産性成長の減速を説明する一助になるかもしれない点に留意! もし,今日の人々が出勤日ごとに2005年よりも1時間余計に実際の仕事じゃなくてソーシャルメディアでだらけるのに費やしているとしたら,そうやって増えた「ステルス余暇」によって,新しい情報テクノロジーによる生産性向上が覆い隠されてしまっているおそれがある.いまのところ,この可能性を検討した人を見たことがない.

[n.4] 実は,これは『銀河ヒッチハイクガイド』シリーズに登場するジョークだ.


[Noah Smith, "Yes, we still have to work," Noahpinion, July 25, 2024; translation by optical_frog]

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