見出し画像

二元世界で起きていること

画像1

Adobeコンテスト LADYGAGA 「chromatica(クロマティカ)」に参加したときの作品 PhotoshopCC 2020 (2160px × 2160px)

↑作品の左下の犬たちは、この下の絵の犬たちを合成しました。

画像2

Chromatica

レディー・ガガ、新アルバム『クロマティカ』。
クロマティカは「chromatic(染色性の)」の形容詞の造語で、「色彩」と「音色」を併せ持った意味として作られたそうです。

二元世界は「色」の世界。
般若心経の「色即是空 空即是色」は、色(いろ)は、空(くう)であり、空は色であるというように、この「色」とは分離(区別)するものを表し、「空」は分離がないということを指しているようです。
非二元も分離がないことを示しています。
色即是空の「色」が「二元世界」で
「空」が「非二元」として当てはまります。

非二元は「2つにあらず」。
「分離がない」ことを意味しています。

たまたま二元をモチーフに話しをする場合、この作った作品のイメージがぴったりだったのでUPすることにしました。
二元世界
たとえば2つあるものとして
光と影(闇)
善と悪
上と下
こうした対比に自我は反応して物事を判断しています。
「いいか?」「悪いか?」と言った具合に。

この作品の中央の円は、正弦波(音をあらわす数学記号)だそうですが、私はこの正弦波というシンボルが全体「空」に当てはめると、
上の青空の部分と下の暗がりの雰囲気は対比する「色」の印象にマッチしています。

正弦波として人生全般をまさに波に例えるなら、色として現れるこの現象界は「波に乗っているとき」があれば、「波に乗れていないとき」もあります。

この二元世界では、自我は常に思い通りか、思い通りでないかを区別しています。
でも、一度その自我さえ、この絵のように全体を俯瞰すれば、それは二元世界という幻想のストーリーであるということを正弦波は見せてくれるといった感じでしょうか。
この作品のような、見る視点が変わるだけですべての物事はすでに変わって見えるということを感じ取っていただけるならば、すごく意味が深いものだと思うのです。

ストーリーの中にいる自我意識

非二元を知らなかった頃、私はこの二元世界という分離世界で生きていくためには常に「正しい判断」が最も重要でした。
常に正しい方向に歩んでいるか?気にしなければならなかった。
少しでもジャッジが正しいものではなく、結果が自分の思うようなものでなければ都度、その度合いに応じて悩み苦しみが伴いました。
起きた後で後悔したってすでに遅いんです。

あのとき…こうしていれば、こんなことにはならなかった。
そうやって自我は常に自分を責めたり、人を責めたりして、知らず知らずに悩みを増やしていきます。
私は、もうこんな思いをしないために、何が悪かったのか?どうすれば良かったのか?をちゃんと振り返ろうと常にして生きていました。

そうやって、経験しながら、自我の悪循環を軽減しようと心掛けるんです。
でも、もしそれがまた起きたら、どうしようという思いも同時に抱えながら進むことになります。
自我は常に「いいか?」「わるいか?」をいろんな経験による感情をもとに、様々なストーリーを勝手に創り上げています。
それは、過去の出来事によってであり、未来の理想を描いて想像していきます。
私は、これがそもそも自我の性質であることを知る由もありませんでした。

ストーリーがある限り、意味があるという思い込み

自我意識はこうして、もうあんな思いはしたくないと、過去の苦い思いを蓄積して、起こることが思わしくないとすぐ抵抗しようとしました。抵抗しなければいけないという思い込みは、事あるごとに抵抗を繰り返していきます。
その多くは心地よくはなく、常に次々に生み出されるストレスになるんです。起こった物事には常に意味があり、その意味について抵抗することで、そのストーリーはより深刻なものになっていったりします。
それは結果的に、より抵抗力、エゴ(自我)が増幅している状態です。
ストーリーは二元世界で起きていることなのですが、その出来事に常に意味づけをするということに慣れてしまいます。
とくにそれが、「悪いことほど」そうしてしまうんです。
意味づけが大きければ大きいほど、自我にとって不快なもので、一大事です。

二元世界の、知性と感性の働き

二元世界は常に新たなストーリーを起こしては消えていきます。
自我はストーリーの産物を糧にして、次のストーリーに向かおうとします。
だから、自我は常に過去の体験と未来の望みを追い、自我の欲求でより「良い判断」と「悪い判断」に瞬時に分けて、物事を展開しようとします。

まず人が備える「知性」は、一般的に社会や他者と交わす知識や自らに起きた出来事で味わう体験と物事の捉え方、見方によって基づいた判断をしようとすることで、次々にくるストーリーの最善を尽くそうと努力するために使われます。
そして新しい知識を蓄積し、より知能的に高度で快適な生活に対応していくことが出来るように知性を深めていきます。
ただ何かにその知性が対応すべきことがあるとき、起きてくることとは無関係であり、決して以前起こった出来事といくら状況が似ている場合でも、科学的な根拠があるものでもない限り同じストーリーになるとは初めから限らないんですよね。そうなるとまた起こった事象により、新たな知識を蓄積しようと自動的に働く。

たとえば、明日は絶対何時に起きて、待ち合わせ場所まで行かなければいけない!と目覚まし時計を準備して寝ていたとしても、必ず起きて、待ち合わせに間に合うとは誰も予測できないんです。

だから「知性」は法則としては当てはまることがあっても、絶対的な「答え」ではなかったりします。
人との体験によって価値観が変わることも少なくなく、起こる事象は必ずしも同じ体験ではない上、各々が築いてきた体験から知性が働くことで、対する人間関係で物事はより複雑になっていく場面にたくさん出くわすと思います。

一度、因果関係があることとして、対処する相手との間で起きた事象は、過去の出来事であれ、一つの体験として蓄積して次の展開にまたそのまま引き継がれていく。
そうしてより個性は確固たる自分の在り方があるかのように振る舞うことになります。
ですから、「知性」によってその基準はもはや正しいかどうか?といった基準が必ず用いられています。
自我によって好ましくないことであればあるほど、排除せざるを得ないでしょう。
知性として身に着けたその事柄が自我にとっては、まず絶対的条件として生きていくことになります。

加えて今度は「感性」について考えてみたいと思います。
「感性」は直感であったりします。 なんとなく、今日はこうしたい。
その時感じたことの通りに実行することや「感じるまま」で物事を捉えるのですが、それによって、今までとは違う方向性が見えてきたり、違う展開へ足を運ぶこともあります。感性は気分そのものでもあり、初めから答えは持っていない(想定していない)ということです。
好きか嫌いかということについても「知性」は、学び得たことや自我の経験上の蓄積で判断するのに対し、「感性」はその時の気分や自分の感覚的な判断に任せる(委ねる)ことがあります。
直感というのもそれで、何もこだわりがない状況でふと閃いたりします。

だから、知性の場合とは異なり、必ずしも意味があるとは限りません。
ほとんどは、気持ち的に余裕のある状態で感覚が啓くはずです。

なのでこの「知性」と「感性」の違いを見ていくとき、自我がコントロールするか?しないか?に大きな違いがあります。

「知性」は今起こっている事象とは何も関係がないことにも気付かず、大抵はこれまでの学びや経験によって自ずと行動が発動し、なんの疑問も持たずにその都度次に起こったことに意味付けを行ってしまう。
そのため、自我は知性を使って自分の思い通りになると思い込んで常にコントロールしようとしてしまうんです。

一方、感性の場合は、特に理由付けはなく感じる変化に伴って動いています。
なんとなく思い付きで、絵を描きたいと思ったり、走りたいと思ったり、歌いたいと思ったりして、そこに具体的な根拠や理由があるかどうかは特に関係なかったりするんです。
だから、感性は自我をコントロールしたりはしていないんです。
ただ、そのままの表現ということになるんです。

非二元意識で二元世界を見るときの感情の変化

先ほど、「知性」と「感性」についてその違いを話したのですが、二元世界では自我は自分(このボディ)で、主に「知性」を用いて何かしなければ何も変えられないという思い込みを前提として持っています。
なので、常に心配や不安、緊張感や焦りなどが常にあったんです。
非二元に気付けなかったそれまでは、自我意識が創り上げた幻想の「二元世界」というものが、この世のあらゆる答えの最もな在処でした。

でも、二元世界で起きていることに「ただ気付いているだけ」という非二元の理解が深まると、コントロール出来るものがそもそも何もないということが徐々にでも明らかになって来ることで、自我の欲があまり作用しない状態になりつつあります。
すると、意味づけもあまりしないで、自分の感覚として「感性」で物事を判断しやすくなり、自我の抵抗も次第に弱くなっていく感じです。

非二元が生活の中で深まると、それまで、二元世界で自我が無理やり抵抗していたことさえ、段々コントロールすることを辞めていくので、焦りや緊張感も徐々に薄れていきます。

ただ、コントロールすることがなくなると言っても、感情自体がなくなるわけではありません。悲しいときや苦しいときも自ずと起きてきます。
それでも、非二元の意識が自我意識よりも定着してくると意味づけももはやしなくなり、「今」という瞬間の心地よさだけを感じられるようになるといった具合です。

常に非二元の意識として「気付いているだけ」の状態でいられるようになることで、物事は自ずと万事うまくいっているということが分かりだし、そもそもの「自分らしさ」につながっているということが徐々に発見出来るかもしれません。

一人でも多くの人たちがもし非二元に気付いてしまえば、自我で無理やりコントロールすることはなくなり、誰もが何より「シンプル」で「生きやすくなる」のではないでしょうか。

そして、この二元世界は、ただ起きることが起きるだけということに気付けるので、互いの自我意識によって抵抗し、揉め合うようなことも必然的に起きなくなると思います。それは、本当の意味でワンネス体験ですね。

まとめ

二元世界は分離の世界です。必ず、対比するものが生まれます。
それと同時に、自我が起こる事象に対して常に抵抗出来ると思い込んでしまうことから問題が発生します。自我の思い通りでないことは、必ず抵抗します。そして、その抵抗こそが強い意味を持ち始めるんです。
非二元は、2ではないという意味で、分離がないことです。
非二元は常に二元世界に気付いています。
そういう意味で、「二元世界は常に気付かれている」ということです。
非二元を知ると、二元世界がどのようなものかを理解するとともに、必要以上に抵抗しなくなります。なぜなら、非二元は「常に気付きだけ」であり、二元世界をコントロールすることは一切出来ないということが理解できます。
そうして自我が抵抗しなくなると、ストレスは格段に減り、物事はスムーズに展開することになります。それは、感性によって展開することで、起きる出来事もそれまでとは変わってきます。知性によって抵抗していた時のような事象はもはや起きなくなるんです。そうすると、自然とそれまでの自我が抵抗してきた生き方よりも遥かに生きやすくなるというわけです。
ただ起きることについて、悲しみや苦しみといった感情は取り除くことは出来ませんが、多くの人に非二元を知ってもらうことが出来れば、とても楽で居心地の良い世界にきっとなると思うのです。ただ、感性に従って生きるだけだからです。

正弦波の波にサーファーが軽やかに乗って、自分らしい人生(リズム)を描くことがきっと出来ると思うんです。

この記事が参加している募集

#私の作品紹介

96,012件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?