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はじめまして

福岡県久留米市で幼少期を過ごしました。聖子ちゃんが通ったという久留米信愛学院の隣にある久留米信愛幼稚園に通って、お昼ご飯の前に「アーメン」と呟き、筑後川堤防で見る花火大会で「たまや〜」と叫んだこと、豚骨ラーメンが「ばりうま」だったことが強烈な記憶として残っています。

点と点を結ぶのが直線、ねじれの位置関係を学んだ中学時代、数学が大好きでした。勉強も普通にこなしていたので成績はまあまあ。医者になりたいと思ってはみたものの、高校生の頃に成績が伸びず、コメディカルにでもなろう(真摯に医療を目指す人に失礼極まりない!)と入学した大学で、臨床検査技師に病院実習をしていたある日、患者のために言い争う医師(今考えると治療方針を決定するためのディスカッション)の姿を見て感銘を受け、「やっぱり医者になる!」と受験勉強を始めたあの日。

毎朝規則正しく起床し、綿密な計画をたて、コツコツと勉強する毎日でした。朝には昨日果たしたノルマがチャラになって、また1から積み重ねることの厳しさを実感しながら、勉強を続けました。高校の教科書を完璧にやり直し、医学部を受験するも歯が立たたず、撃沈。受験には要領があり、それなりの対策が必要だと思い知り、もう一年やらせてほしいと親に懇願。運の良いことに代々木ゼミナールの奨学生に受かったので、就職しないまま、受験勉強に没頭することになりました。そんな中、大好きだった祖父が膵臓癌で他界。大切な人が亡くなった次の日も、いつもと変わらず、冬の寒い日に朝日が昇るのを勉強部屋から見て、世の中の無情を感じました。気を取り直し、また勉強を続ける日々。二十歳を過ぎて中途半端に年をとった若き乙女が、現役高校生や高校卒業したばかりの若い世代と机を並べて勉強する、悶々とした日々を送りました。

2年後に宮崎大学医学部に合格し、入学してみると体育系の運動部が意外に盛ん。「クラブ活動で先輩と仲良くなって、高額な医学書を譲り受けるべし」との知恵を授かり、雰囲気の良かったソフトテニス部に所属し、助言通り、代々受け継がれていた医学書を手にすることができました。よこしまな目的で所属したソフトテニス部でしたが、運動することも楽しく、部活動にのめり込んでしまいました。気が付けば、「体力大魔王」の異名をとるほどコツコツと基礎体力作りに励み、部活動にのめり込んで、医学部生の大会では優勝することもできました。振り返ってみると、遊びすぎたようです。いや、間違いなく遊びすぎていました。健全な精神は健全な肉体に宿りますから、もちろんスポーツも大切です。しかし、医学部生時代にはもっとやるべきことがたくさんあったはず。しかも、再受験組です、もっと熱心に学問に勤しむべきでした。授業をサボることはありませんでしたが、時間がたくさんある学生時代に、もっと勉強しておけばよかったと思います。いつの時代も、後悔先に立たず、ですね。今、私の机の上には相田みつをさんの「一生勉強 一生青春」というガラス細工の綺麗なボードがあります。医学部の学生時代に不勉強だった自分を反省し、学ぶことを糧として成長し続けたいと思います。

卒業後は、「腎臓の腎は、仁義の仁」という怪しげなフレーズを掲げる腎グループに所属することになり、いろんなことを勉強しながらスクスクと育っていきました。研修医時代に当直の洗礼を受け、冷や汗をかきながら、腎臓内科を専門として臨床現場に立ち続け、透析診療にも関わるようになりました。そして、のほほーんとしていた私を支えてくれる夫との運命的な出会いがあり、H17年に透析クリニックを開業。

原則として日曜日は休みでしたが、24時間、365日、自院で透析をしている患者さんのオンコールに対処していたので、ゆっくりと休暇を満喫できる時間は取れません。患者さんたちの状態が安定している時に一泊の温泉旅行に出かけ、「あー、命の洗濯…!」と叫びながら、美味しいご飯を食べて、ほっこりするのが一番の贅沢でした。

開業を決意してから20年、借金の返済に怯えながらも試行錯誤で設備投資を行い、挫折を味わい、軌道修正を行いながらの生活でしたが、クリニックの経営は徐々に安定し、移転・リニューアルオープンするに至りました。たくさんの方に支えられ、自分自身も成長し続けることができましたが、後継者を見つけることができなかった私達にクリニックの承継のお話が青天のへきれきのようにやってきて、あれよあれよという間に承継が成立し、理事長職を退任する運びとなりました。今後は、自分の好きなこと・得意なことをやりながら、不得意分野の学びを深め、世の中に役立つことをしたいと思います。


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