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UndertaleとNVC(非暴力コミュニケーション)

甥っ子(8歳)がUndertaleというゲームのサウンドトラックをYoutubeでひたすら流していて、いい曲だな〜 と思ったので、

財力がない甥っ子の代わりにNintendoSwitchのソフトを買って、甥っ子と私それぞれでプレーしてみました。今年は発売5周年らしい。

ゲームは昭和世代なので、ドラクエⅣとかFF5〜7とか、ゼルダの冒険とか聖剣伝説とか、王道RPGやアクションRPGが全盛期だった世代です。クロノ・トリガーとかも。真・女神転生とかスーパーロボット大戦とかファイアーエムブレムとかもやってた。主に兄と姉が。

兄は1日ゲームを8時間くらいしてて、成人したら「自分の子どもにはゲームをやらせない。バカになるから」って言ってた。ある意味すごいな。やり切った感ある。

私はどちらかというとアクションは苦手で、どちらかというとゲームのサウンド(音楽)を聴いたりゲームのシナリオ(物語)を兄や姉がやってる横で見てたり、自分は育てる系のゲーム(プリンセスメーカー、ワンダープロジェクト、マリーのアトリエ)とかやってた気がする。

で、肝心のUndertaleの感想なのですが、、まず、ゲームをやる前からアズリエル戦のBGMを聴いて涙が出てくるんですよね、、Youtubeの動画とかで。

えっこれはなんだ??と。あと他の音楽がなんとなく聖剣伝説2の音楽に似てて。すごい好きだったので、なんかパクリなのか??と思ってよく聴いたらパクリでもなくて。とにかく音楽が気になったので、やってみようと思いました。

RPGの特徴としては、ファミコン〜スーファミ世代の人が思わず懐かしくなるような感じで、今はゲームしてない社会人の人とかやったらあああ〜ってなる感じ。作った人が日本のゲームをリスペクトしてて、敵と戦闘中話をしたりして見逃す、と言った真・女神転生みたいな要素もある。エンディングのシナリオは大まかに3通り(N/P/Gルート)あるらしい。

事前情報も穴ぼこ状にある感じで、どうやら私が聞きたいボス戦のアズリエル戦のBGMはPルート(敵を一体も倒さない)でしか聞けないとのことが途中から分かったので、1周目不殺Nルートで終えてから、友達イベントをするためにN→Pルートになるところからセーブデータをロードしました。

お目当てだったアズリエル戦も終えて、一番印象に残ってたアズリエル坊やのセリフで、

暴力をすること≒感情を感じなくなること≒人の痛みがわからなくなること

みたいなことを言ってたのがすごい気になって。

私がにわかだが習っているNVC(非暴力コミュニケーション)というのは、

まず最初に何をするかというと、自分の感情に注意を払うということをするんですね。自分が何を感じていて、どんな感情で、その奥にあるニーズ(生命のエネルギー)はなんなのか。を観察する練習をします。

暴力というのは、その観察の段階をすっ飛ばして「評価」に飛びついてしまいがちで、相手か、あるいは自分を責めてしまったり、自分の感情の責任を相手にとってもらおうとする、よくわからない状態も発生してしまいます。こうなると、お互いに攻撃的になってコミュニケーションが立ち行かなくなってくるケースが多いです。自分や相手を責める人格をNVCではジャッカルという動物に例えています。また、自分のニーズや相手のニーズを聞きながら、平和的にコミュニケーションを取ろうとする人格をキリンに例えています。

フラウィーとかほんとまんまジャッカルを人格化したような感じなんですよね。でも自分に嘘がないというか。ジャッカルは自分のニーズを知るためには実は重要な役割を果たしてくれる存在です。

最近、アリスミラーの魂の殺人という本を読んだのですが、日本人だいたい全員そうなんじゃないかって思うくらい、親とか、権威とか、社長とか、ボスとかには逆らい難いのに、自分より立場の弱いもの、子どもとか、マイノリティ、外国人、下っ端の人にはびっくりするほど残酷になれる気質みたいなのがなんだろう??これはどういう仕組みなのか??というのが疑問で、本には、闇教育の功罪みたいなことが書いてありました。

以下は私のぼやっとした理解のもと書いた内容です。もっと知りたい人はぜひ本を読んでみてください。

というのは、子どもが特に1〜3歳の、まだ自意識と他者が分離していない時に、愛着形成を育むべき時に、暴力的な状況にさらされていた場合。なぜか、子どもは10歳くらいまでは親がどんなにひどい仕打ちをしても、親の味方だったり、親を庇ったりする。本来自尊心を傷つけられるような暴力にさらされた時、健全な自尊感情が育っていれば、泣いて怒ったり、抗議できたりするはずなのだが、それをすると危険な状態だった場合ーーーー子どもは自分の感情を感じること自体をやめてしまう。弱い自分、メソメソ泣いてる自分は封印して、自分ではないものとみなす。自分がそうなると、叩かれる、攻撃される、、危険だから。自分が思い切り感情を出しても、安全ではなかった場合。

自分を守るために感情そのものを凍結する。

そして、大人になった時、かつての弱かった自分のような対象が見つかると、忌むべきもの、存在してはいけないものとしてそれを排除しようとする。

その人に本当に必要なのは、自分が、されて嫌だった時に、「安全に怒りや悲しみを表現する」ことや「痛みを感じていることを他者に分かってもらう」ことだったのに。

不思議なのはゲームの中で、おそらくアズリエルはどちらかというと、「メソメソ泣く」ことが許される家庭で育ってるんですよね。感情を出すことが許されている。キャラと魂が混ざった時に、それらの「感情」を感じることができなくなってしまった。

このキャラの人格というのは、アドルフ・ヒトラーのように暴力の連鎖にがんじがらめになってしまったかつての被害者の象徴のような気がします。

そして、ゲームを進めるプレイヤーは、ジャッカルの欲望のままの殺戮を行うGルートと、Nルート、モンスターを殺さないPルートを選ぶことができます。

この「選ぶことができる」というのは、他のゲームでもあるのかもしれないけど、感情を感じることを選ぶか、暴力を選ぶかは、あなたに委ねられている、という認識を、何回ものルートの周回を通してプレイヤーに認識させるのがすごいなと思います。Gルートやったっていいんですよ、ゲームなんだからね。実際に人殺す訳じゃないんだから。いくらでもOKですよ。バンバンやれば。そこから学ぶこともあると思います。私はPルートを終えて燃え尽き症候群になったのでもうやらないけど、、、、

痛みを感じる人間になるか、そうならないかは、あなたが選択できるということです。なんか、犯罪心理学みたいなことになっちゃうけども、、、

販売後5年経って今更やったのですが、しばらくはこのゲームの余韻に浸ってるような気がします、、、Hopes and dreamsを聴いて涙が出てくる理由はまだ言語化できないままです。








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