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「ミッドサマー」の感想

春分の日にミッドサマーを見た。

映画の中に、双極性障害の人が出てくるという事前情報がなかったので、少し驚いた。しかし、話の全体の中でそれは始まりの部分に過ぎず、

双極性障害の家族が大変なことをあまり説明する様子もなく、病気の本人は家族を道連れに自殺してしまったことに映画を見終わってから違和感を覚えた。

監督さんの中では、これは失恋映画ということなのだが、そこで、あえて病名を映画の中で出したのはなぜなのか。Twitterでも、そこに疑問を呈する人がいた。

私もそうだった。一部しか描写してないのに、なぜ病名を出すのか。ミッドサマーを多くの人が見て、双極性障害のことをよくしらない人が見たら、意思疎通がろくにできずに勝手に人を巻き込んで自殺しようとする病気と思われてしまわないだろうか(軽度の人は十分に意思疎通ができるし、生活も普通に送れます)。

私の場合は父が重度の双極性障害だったので、躁状態の時と、鬱状態の時の本人の様相の違いはわかる(あくまで自分の家庭だけだけども)。躁状態のときは本人はハッピーで元気だが色々奇想天外なことをやらかすので周りが振り回され、鬱のときは逆に本人は辛そうだが自分の内側に向かっていくような様相だ。おそらく自殺を考えるのは鬱状態のときだろう。しかし、もしやるならばあくまで一人で死ぬと思う。周りを巻き込んだり、死ぬ前に誰かにメールするとか多分しない。外界にそもそも働きかけたりメッセージを残したりするようなことをしない気がする。

映画をリアルタイムで見ていて今ひとつ主人公に感情移入できなかったのは、主人公のダニーが不安障害で精神の安定のために薬を飲んでいたことだ。

これはあくまで自分の体験だし、薬を飲むことをどう捉えるかは人によって違うからなんとも言えないが、少なくとも私は、身内が精神障害で苦しんでいて薬によって睡眠サイクルが乱れたり感情の起伏がなくなる症状を見てしまうと、自分が安易に薬に手を出す気にはならない。薬を飲むことで、父は苛烈な躁状態=暴れん坊将軍になることは確かになくなったが、その代わり一切の感情が感じられなくなってしまった。おそらく薬と言うのは、本人にとっては死ぬほど辛い症状を抑えることができるが、その代わりに感動したり、感情を感じたりすることが難しく、ヴェールがかかったような状態になるのではないだろうか。私は父が薬を飲み始めてからそのようになるのを端から見ていた。

だからむしろそのような薬を飲むことには抵抗を感じる。映画の中ではダニーは、おそらく妹さんの影響だとは思うが、心理学を専攻していた。そこまで人の心理や感情に興味があるのなら、なぜ薬を飲もうとするのだろうか??そこが引っかかって、主人公のダニーにあまり感情移入できなかった。

多分薬を飲むことへの違和感は、人によって違うのだろう。私もコーヒーでカフェインをキメたり甘いもの(砂糖)を食べたりするし、食べ物や飲み物で精神的な「痛み」を麻痺させて緩和しようとするのは防衛本能上ストレスの多い現代人のほとんどがやっていることだと思う。

私には兄がいて、兄も父の影響で精神医学の道に進もうとして4浪したが、最終的に医者にはなれずに普通にサラリーマンになって結婚して赤ちゃんができて幸せそうにしている。私は兄が医者にならなくてよかったと思う。精神科医になって薬漬けの患者を増やしたところで幸せな人が増えるとは到底思えない。

兄は、私が陰陽五行などに興味があることを「非科学的」だと言ってバカにしている。しかし、私は薬を飲まずに季節の流れの中で折々の養生をすることで心身を健康に保てるならそれに越したことはないと思っている。たとえば今の時期は木の芽どきと言って、冬の間に溜まっていた体の油が排出されるので、油を分解する肝臓が頑張っていてイライラしやすい。など、知っているだけで自分のことに対処できる。

年に4回ある季節の変わり目である土用の存在を知ってからは、父の病気はむしろ季節の変化に忠実だったのではと思うくらいだ。夏の間は大体躁になってたし、冬は深刻な鬱状態だし、季節の変わり目の土用に躁鬱の「転調」のサイクルが激しくなっている。ミッドサマーは「夏至祭」を表しているので、季節の流れや太陽の動き(光の量)に気をつけて暮らしていた先住民族のコミュニティー(のような)存在を持ってきたのは、双極性障害に対処すると言う意味もあったのかと思うくらいだ。今では双極性障害とうまく付き合う秘訣は季節に沿った生活をすることと言っても過言ではないと感じている。

映画の中ではとてもリアリティを感じることもあった。クリスチャンの男友達たちが「めんどくさいメンヘラとは関わりを持ちたくない」というオーラを醸し出してるところとか、身内に心の病をもつ家族がしょっちゅう出会す場面だ。おそらく監督さんの身内にそういう人がいるのだろう。「まとも」な人と「まともでない人」の間にいると、自分が一体どっちの側の人間か分からなくなってしまったり、表面上は普通の人に話を合わせることもあるが、あとで精神障害者の人への心ない言動やそれらの人を排除しようとする社会全体の動きに落ち込んだりする。「まともでない」としても家族は家族だし、同じ人間なのだ。自分が主体性のないコウモリのような感じで、本当の自分でないので、嫌いになってしまう。そして一方では、心の病になった当人のことを理解できない戸惑いや、自分の生活を乱した当人に対する憎しみなども少なからず抱えているので、すごく複雑で、簡単に消化できない感情が存在すると思う。ダニーの場合はおそらく妹が双極性障害であることで、両親の注目や注意はほとんど妹のテリーに向けられていて、自身も心理学を学ぶほどだから、相当人生が妹を中心にして回転している。監督さんも似たような経験があるのだろうか。

「まともでない」人と一緒に暮らしていると、「まとも」って一体なんだっけ?とも思うようになる。「まとも」という概念を揺さぶりたくなる。もしかして狂っているのは私たち社会の方か?とも思うことがある。身内に心の病を持つ人がいると、自分が当然だと思っていた文化や社会に疑問を持つようになり、アイデンティティが揺さぶられることを体験しがちだ。監督がホルガに行く時に風景を反転させたのは、そのような意味もあったのかなと思った。

機能不全家族で育った人は他者とやりとりする時に表面上は家庭に何も問題ないかのように振る舞う方が圧倒的に楽だ。自分の家庭に困難があることを知られた時に、ドン引きされる経験を持ったダニーのような人は「パッシング」と言って、経歴を詐称することもある。(これは最近読んだ本に詳しく書いてある)

映画の中ではダニーはどっちかと言うと「まともでない人」寄りで、「こうもり」の役割をクリスが引き受けているような気もする。ここまで書いてて思ったのは、監督は自分をクリスとダニーの二人の人格に分けて、「コウモリ」であるクリスを殺すことによって「まともでない」けど本来の自分であるダニーをさらけ出すことで「救済」と言う形を取ったのかな??とも思います。

監督が失恋映画とこの映画を位置付けているが、若干重い体験をしてしまった人は当然恋愛でもそれ相応の重さを経験してる人(その方がお互いを理解しやすい)、そして、お互いに経験を経て成長して寄りかからない人でないとあんまりうまくいかない。

そのうまくいかなさをいかにもリアルに描写した映画だと思います。監督さんが薬を服用してるかどうかは定かではないですが実体験でしょうこれは。

そして、おそらく身内の方が双極性障害で、亡くなった経験もしくはそれに近い体験をしているのでしょう。そうでなければわざわざ病名を出す理由が分からない。映画の中でも妹さんは「意味のわからない化け物」みたいな描写のままだったので、監督さんの中でもまだその亡くなった家族の方との和解というか精神的な折り合いは済んでいないような気がします。なのでそのまま映画に表現して「出す」と言うこと自体が監督さんなりの自分の「痛み」と向き合う作業なのかもしれません。表現作品として第三者に見てもらうことで苦しみが共有できることになるから。

私がもう一つ、薬に頼らずに痛みと向き合う時に必要だと思っていることは、自分の感情に責任を持ち、その上で他者にそれを表現することだと考えています。

(その実践としてNVCやコヒーランスの呼吸があると思っている)

なので、本当の意味でのダニーの救済というならば、薬やコーディアルに頼らなくとも自分の感情を把握し、そして自分が辛かったことを周りに告白できるようになること(それは無防備な自分を曝け出すので大変危険なことでもあるがその勇気を持つこと)、そして、境遇が全く違う人(いわゆるまともな人)とも同じ人間として感情を分かち合うこと、そして、亡くなった妹さんと自分を許して精神的に和解することなのだと思います。

なので、監督さんの癒しの行程(痛みと向き合う作業??)としては、まだ偽りの自分(クリス、強く見せようとする自分、勇気がない自分)を殺した段階なのでもう一本くらい映画作らないといけないんじゃないかなと思いました。

以上です。長くなってしまいましたが読んでくれてありがとうございます。

である調で始まったのに最後はなぜかです、ます調になってしまった、、、、


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