VS part 4
昔、ボクシングジムに1年半ほど通っていた事がある。
そこで一通り基本を教わった。
右ストレートの基本は、自分の右肩の対角線上に右腕を真っ直ぐ右拳をひねりこみながら突き刺すように出す。
その時、腕だけで右腕を出すのではなく、腰の回転に沿って右腕を出しつつ、右足は体の右半身に沿って真っ直ぐに伸ばし、踵を少し浮かせるようにしてつま先で重心を、前にある左足に移す。
半分ぐらい端折ってるが、大体そんな感じで教わった、と記憶している。(ややおぼろげだが)
間違っても移動しながら斜め下に打ちおろすように、相手のテンプルを打ち抜くと、相手はパンチが見えないだけでなく、ダウンしてもダウンした事にも気づかないから、そうやって敵の度肝を抜きたまえ、なんて事はトレーナーは言わない。
ま、言うわけないのだが、その変態的な右ストレートで1R残り10数秒、井上尚弥選手は、ノニト・ドネア選手からダウンを奪った。
2022年6月7日さいたまスーパーアリーナ、井上尚弥vsノニト・ドネア。
世界タイトル3団体(WBA、IBF、WBC)統一戦。
この時の井上選手の右ストレートに、どこかで見たような覚えがあるな、と思ったら、2018年10月、WBSS一回戦、元WBA世界バンタム級スーパー王者のファン・カルロス・パヤノ選手を、1R1分10秒でKOした時と同じ、移動しながらの右ストレートだった。
あの時は狙って打ったという事だが、今回のドネア選手への一撃は自然に体が動いたという感じだった。
何万回もシャドウやパンチング・ミットに打ち込んで、頭で考えるより先に体が勝手に動くまでになっているからこそ出た一撃、という印象を持った。
ドネア選手が立ち上がった直後、ゴングが鳴って第1Rが終了。
後の井上選手、ドネア選手のインタビューや回想動画で、2Rが始まった時、1分のインターバルでは回復せず、ドネア選手にはこの1Rダウンした時のダメージがまだ残っていたという。
2R、ドネア選手のカウンターを警戒しながら、冷静に、粛々と井上選手は詰めていった。
2R17秒頃、ドネア選手が軽い左フックから右ストレートをロングで放った所へ、一瞬早く井上選手の左フックがカウンターで入り、場内が湧く。
2R33秒頃の左フックは、ドネア選手の右テンプル辺りにヒット、ドネア選手がぐらつき、場内が一層沸き立つ。
そこから井上選手は、右、左と何発ものクリーンヒットをドネア選手に浴びせ、場内の割れんばかりの歓声は『レジェンドがついていけないっ!』という実況の声をかき消さんばかりにうねった。
ベストな状態であれば、ドネア選手には相手の右ストレートをヘッドスリップしながら、それをかわせず当たったとしても直撃としての的は外しながら、左フックをカウンターで当て、相手をダウンさせるという伝家の宝刀がある。
だが、1R終了間際のダウンに加え、何発かのクリーンヒットを浴びた事で既にドネア選手のパフォーマンスのレベルは、ベストとはほど遠い状態である事が、以下の場面ではっきりする。
2R38秒頃。
井上選手の右ストレートに対し、ドネア選手は伝家の宝刀を抜く。
この場面を見た時、私は(あぁ・・・勝負あった、な・・)と思った。
そこから井上選手の詰めは激しさを増し、そして変態ぶりが発揮される。
アッパーカットについて、私はこう教わった。
・・・ま、細かい事は省くが、要は両膝のバネを利用して拳を上向きに突き上げる事、その時、肘は直角か又は直角より狭い角度で曲げる事。
肘の角度が広いとその分威力が減退するから、と教わった。
2R50秒頃、井上選手の3連打がドネア選手をもろにとらえた。
下がってゆくドネア選手を追いかけつつ、ワン・ツー・スリーと打ったスリー目のアッパーカットで、打ち始めは肘も曲がっていたが、追いかけつつ、ブロックの隙間を縫うように軌道修正しながら打ち込んだ結果、最後は腕がストレートのように真っ直ぐになっている。
ドネア選手の顎を捕らえたこの真っ直ぐなアッパーカットは、威力が減退するどころか、直後、ドネア選手はガクンと腰から崩れた。
ダウンにこそならなかったが。
極め付けは1分7秒の左フックである。
左フックを私はこう教わった。
・・・ま、要するに相手の右側面へ打撃を加えるパンチという事だ。
(基本をこと細かに記述するのがアホらしくなってきた・・・)
繰り返すが、右側面、への打撃・・・側面!である。
私が教わった左フックは、相手の右側面・・・側面に打撃を(以下略)
前から後ろへと大きくよろめくドネア選手を見下ろすかのような井上選手の眼差しは、冷ややかに映る。
が、6月12日のワイドナショーに出演した井上選手の言葉によれば、この時、『レフェリーに、もう止めてくれ、と思いましたね』と語っていた。
井上選手の、小学生の頃からの憧れのボクサーがノニト・ドネアである事は、数年前から井上選手自身が公言していた事だ。
ドネア選手がKOされるのは、この左フック(顔の側面ではなく真ん中に当たった左フック)でよろめいてから、10数秒後の事である。
自分が尊敬している男にとどめの連打を打ち放つ時の心境は、井上選手にしかわからない事だろう。
試合をストップするのが早過ぎた、とレフェリーを批判する声も少数ながらあった。
パンチドランカーになるリスクを背負っていない者が、そのリスクを負って戦っている者に、リスクが高くなる事を強いるとわかった上で、もっと殴り合えというのなら、何も言う事はない。
そうした声が多数派となった時、私はボクシングファンである事をやめるだろう。
試合をストップするのが早過ぎた、という声に対して、自身の動画チャンネルでノニト・ドネアはこう言っている。
もう随分と昔、まだ大阪にいる頃、大阪のどこでだったか忘れたが、ボクシングの試合(といってもタイトルマッチとかではない、10回戦がメインの小規模なものだった)を見に行った時の事。
4回戦か6回戦のクラスの試合で、3R半ば、レフェリーストップがかかったのだが、ストップされた方の選手は納得できない様子で、レフェリー始め、自分のジムのスタッフが静止しても、対戦相手に”かかってこい!”というポーズを繰り返していた。
その顔は泣いているように見えた。
対戦相手は、そいつに背を向け、自分のスタッフに腕を預けグローブを外してもらおうとしていた。
1Rからワンサイドの内容だった。
一方的と言っていいくらい、めった打ちにされていたそいつは、対戦相手に背を向けられたまま、今度はレフェリーをグローブでさし示しながら、何事かを叫んでいた。
それを見ていた私もいつの間にか心の中、泣きそうな気持ちで叫んでいた。
(もういいよ!俺はまだやれるのにこいつが止めたアピールは!お前が今、必死で守ろうとしている自尊心は、今お前の足元で砕け散って粉々になってるそれがそうだよ!・・・拾ってやれよ!せめて・・・見て見ぬふりしたままリングから降りてくお前にはこの先、リングの上だけじゃなく、どこにも居場所はないぞ?)
その背中を見送る頃には、泣きそうだった気持ちは凍るような冷たいものに変わっていた。
なんでそんな気持になったのか、今でもよくわからない。
自分の至らなさを受け止めるのは容易ではない。
田口良一氏というボクサーがいた。
元WBA・IBF世界ライトフライ級統一王者。
2013年、田口氏は日本ライトフライ級王者だった。
そのベルトに、当時3戦3勝3KOという20歳の若者が挑戦してきた。
10R戦い、結果は3-0の判定で田口氏は負けた。
その後その20歳の若者は、ことあるごとに「今までで最強の対戦相手は田口良一選手だった」と口にするようになった。
おわかりだと思うが、20歳の若者とは井上尚弥選手である。
ノニト・ドネア選手も引退するつもりはないという。
”また仕切り直して新たにビッグタイトルに挑戦する”と、旺盛な闘争心は
変わっていない。
井上選手に負けて、晴れ晴れとした清々しさで満たされていると同時に、まだまだやれるという気持ちになったという。
VSというこのシリーズの一番最初の記事で、私は井上尚弥選手を悪魔と
言った。
その悪魔は、容易ではない、自分の至らなさを真摯に受け止める、という事ができる者を引っぱり上げる力を持っているらしい。
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